2012年6月10日日曜日

真夜中にバッハ

 彼に会った時、私はまだある呉服会社で事務員をしていたので、彼とだけ会う時に限らず人と会うのはいつも、仕事が終わってからだった。事務の仕事と銘打ってあるにも関わらず、基本的な事務の他にほんの少しデザインを弄ったり、展示会で使用する金糸銀糸の織り込まれた帯や絵羽(と呼ばれていたが実際は、試着が出来るようにごく簡単な仮縫いがしてある、仕立てていないが切ってはある反物)、ぎゅっと巻かれた重い反物、小物を出荷したり、何でもする仕事だったし営業兼スタイリストたちが社に戻るのは定時を過ぎてからだったので、結局定時などあるようでない、労働基準法などまったく無視された職場だったから、早くて20時、遅ければ24時をまわってからやっと帰宅を許される。それから人に会うのだった。

 彼は大抵昼間は眠っていた、と思う。そうでなければ絵を描いていた、と思う。或いはつまらなさそうに薬を飲んでいたか。もしそれもしていなかったら煙草を吸っていただろうし、詩を書いていただろうし、時折自分の楽器を触っていただろう。長く続けたバイオリンか、気紛れに始めたベースか、電子ピアノか。薄い楽譜は沢山あったが、大抵はバイオリンの教本だったように、今では思われる。彼はまるで野良猫のようだった。大きくて澄んだ瞳をしていて、髪の毛はふわふわと逆立っていた。ガリガリに痩せていて、時折たっぷり食べる。違うのは、腕の太い傷跡は喧嘩でついたものではなかったところだろうか。

「いる?おいでよ」とメールが携帯電話に入れば、私は飼いならされた犬のように駆けた。時には私も背中に、初心者用のバイオリンのセットを背負って、走っていった。夜の四条通りは薄明るく観光客は皆、ホテルで次の日のルートを確認しているような時間に、外を出歩いているのは、遊び慣れていない学生たちか、金はあっても遊び飽きた若い男女たちばかりだった。彼等がフラフラ歩くのを横目に見ながらバイオリンケースをごとごと揺らして、アパートまで出向いた。

 特に何をするわけでもなかった。彼の持っている漫画を読んだり、風呂に入ったり、身体に絵を描いてもらったり、二人とも気侭に夜を過した。彼の気が向けばバイオリンを弾いてくれたし、私に少し教えてもくれた。身に付かなかったがエレクトーンを習っていたので、楽譜は読めたし正しい音は分る(が、バイオリンでは正しいAもなかなか出せなかった、それでも続けたかったのは働いている理由が生活の他に必要だったからだ)。すぐに出来るようになるよと教えてくれたのが、バッハのメヌエットト長調BWV.Anh.114だったので狂ったようにそればかり弾いた。弦を押さえた指に正しい音は留まらず、外れて、溢れて流れてしまうけれど。

 やっと捕まえた音でも次の指も必ず正しい音を摘めるわけではない、ごく初心者の私に、彼は根気よくはなかったが、同じバイオリンからまったく違う音が出てくるのが面白くて、何度も強請って弾いてもらう。たどたどしく私は彼の音を追いかけてまた調子っぱずれの音を弓から弦から放出する。それの繰り返しだった。それでもそれがとても楽しかった。ビブラートさえできなかったが、真夜中であること、楽譜を読むこと、バッハであることが。(バッハだって真夜中にはレッスンをしなかっただろう!)

 彼はもう居ないし、私ももうバイオリンを何年も触らないでいる。きっとひどい音がするだろう、音叉での調音もしていないままだ。彼に合わせて夜中をいつも、駆けて、歩いて、明け方に転寝して、それでちょうど良かった。狂い始めた音は、今はもうすっかり狂っていて、そして私はその狂った音に慣れてしまった。それとも、あの頃の音は狂っていたのか、今が正しい音なのか。どちらにしても、もう真夜中にバッハは弾かない。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...