2011年3月30日水曜日

東の空のひばり

 朝、書類を届けに別の棟へ移動中、鈴が笑い転げるような鳴き声を聴いた。ひばり。黄砂混じりの埃っぽい空の中で、孕んだ春ごと転げ回っている、軽く高い鳴き声。ひばり、ひばり。ひばりを見上げながら書類を持ち直し、人々の働く場所へ急ぐ。もしも書類を放り上げて走り出したら、どんなにか気持ちのいい事だろう!靴も脱いでアスファルトをただ駆けていけたなら、海に抱きとめられただろう。私が働いている場所は、海の、本当にすぐ傍だ。日によって、時間によって、海からの風が吹く。海からの風は甘い潮の匂いがしていて、その匂いとともに私は育ち、いずれ死ぬ。どうしてそれを早送りしてはいけない? 

 時折、私たち——私と、娘の事だ——の繋いでいる見えないへその緒は、妊娠していた時、産み終えた時、元は一人だった身体を分けた一本の管を切られた時と比べると、どんどん太くなっていく。今では細いしめ縄ほどもあるような、そんな気がしてしまう。愛しているかと聞かれたら、愛していると答える事は出来る。手放せるかと問われたら、手放したくはないと答える事も出来る。でもその愛は、執着なのか本能なのか、保身の為なのかは、わからない。事務所の中に居る間は、あまり、思い出す事もない。保育所でそれなりに上手くやってはいるらしい。ひばりのように甲高く笑い転げ、うぐいすのようにいくらでも歌を歌う私の娘。

 本当のものが欲しかった私は、随分苦心して本当のものを手にした、と子どもを腹から押し出した時に思ったものだった。まさしく本物の命の塊。柔らか過ぎて玉子を抱くようにしか抱けなかった。私という殻を飛び出した娘は、転がる鈴の様に騒ぎながら歌いながら、身体を新しい肉で作り出している。遠く離れていく感じがする。一緒の身体に在った時でも淋しかったのに、既に生まれる前から離れていたと言うのに、今さら。

 まるく飛ぶひばりは、まるで私の娘のようだった。空をもう一度見上げたら、屋上に止まったひばりはひとしきり歌を披露し終わり、せわしなく飛んでいった。私の視界から離れ、また別の世界へ。結局私は靴も脱がず走りもしないで、書類を届ける為にドアを開けた。あのひばりは二度と戻らない。行ってしまった鳥は、二度と同じ鳥ではない。別に淋しくはない。でもまた取り残されている気がしてしまう。身勝手にも。

2011年3月27日日曜日

「言葉を持たないものは、言葉に復讐される」

 やめ時が分らないまま続けていたツイッターを、やめた。あの場所に居ると引っ掻き傷を付けるのにも、引っ掻き傷を付けられるのにも、慣れてしまう。慣れていくであろう自分を俯瞰する事、そのものが気持ちが悪かった。だから、別に何か嫌な事をした、されたわけではなくて、なんでもない、たんじゅんに自分だけの問題なのだった。めんどくせえ奴。

 もともと、私は言葉を持たないのだった。言いたい事も別にない。伝えたい事ならなおさら、ない。別に言っても言わなくても、どうでもいいことしか、ツイートした事はなかった。情報も持たないし、言葉も使っていながら弄ぶだけで、持っていない。だから、今、「言葉に復讐」されている。持たない者が持ったつもりで天を目指せば、当然鑞の羽で舞い上がったイカロスのように、あわれ、墜ちていく。そして私は、落ち続けている。

 タイトルにした一文は、私がかつて好きだった人が描いた(書いた)ノートで見つけた。もう絶対大丈夫です、と頭突きをせん勢いで医者に詰め寄って認められた退院という解放後、戻った部屋にあったのは、リュックサックに無造作に詰め込まれた靴下とTシャツと、真新しいのに丸まったノート、赤いボールペン、くちゃくちゃと丸め込まれた綿の、カジュアルなジャケットだった。ジャケットのポケットの中に手を突っ込むと、砂粒とレシートがあった。レシートには海沿いの町の名前が印刷されていて、それと指先に乗った砂粒だけが、彼が海沿いの町に行った後、ここにはいないという「現場不在証明」になった。

 ぱりぱりと頁を捲っていくと、あの一文が目に入った。そうして、わかった。彼はまだ(それは私の願いだった)居るけれど、既にもう行き止りへ行ったのだ。彼は絵と詩を描く人だった。彼の大きな瞳は世間を斜めから見ていたように思っていたけれど、本当は、彼は、真っ正面から見ていたのだと思う。眩しさに顔を顰めながら、それでも一心に向かい合っていた。今になって、そう思う。ふらりと立ち寄った私の部屋で、無様な蛙のようにひっくりかえっていた(と思われる)私を見て、辟易しただろう。病院にはなんとか、連れて行ってくれたようだった。あまり体力のない人だったのに、酷な事をしてしまった。

 あれは、なまぬるい春。薄曇りの空の事をよく覚えている春のことだった。退院した後、彼と会うことは全くなかった。会えたとしても、相手は会わなかっただろう。仮に相手にその気があっても、周りは私をうまく、でも確実に押しとどめたはずだ。次に会えたときは、彼は写真の中だった。唯一救われたのは、飛行機に乗る為に一緒に鹿児島まで行った事を、何度も話していたと言ってくれた、彼の家族の言葉だった。自分を責める事ほど、容易い事はない。責められるだけ責め抜いても、それはどこまでも自己弁護と自己憐憫でしかない。情けなくて恥ずかしくて、それなのにいくつか周到に用意してあったものは全部没収されてしまっていた。ただまんじりともせず朝を迎え夜を超え、部屋の中は煙草の煙で真っ白で、私が外出するのは煙草とアルコールの為だけになったが、それさえも彼の不在にかこつけているようで、恥ずかしくて頭を掻きむしった。

 あの日から今までどうやって歩いたかはよくわからない。多分道幅の広い方だけを選んで歩いていたんだと思う。それは、確かな破綻へ繋がった。どれだけ時間が経ったとしても、忘れたくない事は、私にもある。今こそ私は復讐されなければならない。どのようにして復讐されるかは、言葉が知っている。私はただ言葉の決めた事を受け入れるだけだ。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...