2021年3月22日月曜日

孔雀の靴

先のとんがった、青緑色のストラップシューズを、京都にいた頃よく履いていた。重かったので革で出来た靴だったのではないか。

革に型押しがしてあって、それが模様のように角度を変えればまたイカした靴に見えたのだ。それになにより、孔雀の頭ような青緑色の美しかったこと。ターコイズブルーや鮮やかなグリーンが好きなのに、顔に近ければ近いほど、わたしの肌の浅黒さを際立たせる。でも靴なら顔からだいぶ離れた場所だから、その点安心できた。考えれば考えるほど、わたし向きの靴のように思えた。もうそうなったら、わたしをとどめるものは何も無くなってしまう。ほんの少し大きいけれど、店員は中敷を入れれば問題ないと言う。その時の収入には見合わないくらいの値段のもの──でも、そうしたらわたしはいつも裸足でいなければならなかったことになる──で、ままよ、と買った靴だった。

その靴を履いて、わたしはどこへでも歩いて行った。ジーンズでもワンピースでもお構いなしに、その青緑の、孔雀に似た色の靴を履いて歩いた。重い靴だったので帰宅すると(あまり体力がなかったくせに出かける時は歩き回ってしまうのだが)、脚はもうこれ以上歩かないと決めてしまったかのように、重くだるく、湯に浸かって揉むでもしないと、次の日になる前に筋肉痛が始まるのだった。

今でもまだ、その時の靴のことを思い出す事がある。あんな風に一目惚れして買った靴は、あれ以来ほとんどない。手入れはあまりしなかった。うっすら禿げていくのも、やっと馴染んだようで気分がいい感じがしたし、その靴が履けなくなるなんて考えもしなかったから。引っ越しをいくつかした時に、その靴も捨ててしまったようだし、その後もあれこれと靴は選んできたけれど、靴と言うと思い出すのは決まってあの靴だ。あの孔雀色の──先がとんがっていて、とにかく重くて足にも合っていなかった靴。どこにでも行けるつもりで、どこにも行けない頃に履いていた靴。

2021年3月20日土曜日

日記

京都で最後に住んだ部屋は七条大宮の二階建てのアパートで、狭くはないが光の入らない、一日中薄暗い部屋だった。その部屋には小窓もあったが開くとすぐ壁があったので、布をかけこそしなかったがほぼ開け閉めしたことはない。窓の前にはちゃちいデスクセットを置き、シェル型のMacBook(のちに買い換えたが)を置いて、ウェブ日記や物語の真似事をした作文を書いていた。

そこに越す前に勤めていた会社は、割とめちゃくちゃだったように思う。勤務時間という概念そのものが存在していなかったし、何よりイベントの準備が全てお得意様の気分次第の都合によるので、わたしは風船のように弾けて、仕事に行けなくなった。勤めている時に住んでいた部屋は会社からほど近かったので、なんでもいいから離れたくて、有り金を掻き集めて引っ越すことを決めた。会社を辞めた後遺症からか、引越しの疲れからなのか、元々社会にあまり適応していなかったためなのか、引っ越しを終えてからずっとベッドに寝そべっていた。

その頃はまだ自分の特性を知らなかったので、今のように適した薬を飲んでおらず、心身のその時強く出る症状に合わせて変わっていく薬を飲んでいた。処方されたどの薬を飲んでも泥をひっかぶったように身体が重く、ほとんど這うように寝起きしていた。食事は一日に一度、近くのコンビニに、飲み物はリキュールを炭酸飲料で割ったものばかり。薬や酒で身体は常にレースのカーテンに包まれているような曖昧な感覚だったし、頭の中は砂嵐の中にでもいるような、逃げなければいけないのにどこにも行けない、そんな状態だった。新たに働きにも出るために体調を整えることもできず、部屋にいて呼吸をしているだけなのにわたしは常に疲れていた。

小さなタンジェリンのMacBookはそんな部屋で、わたしのほんものの窓代わりだった。開くときは大抵、起きて座っていることができた。それ以外はずっとベッドで伏して本を読んでいた。頭の中は整頓されず常にフルで回転し、回転に追いつかないわたしの身体は、ねじが飛びばねが摩耗しているのにそれでも動きを止めることができない、例えるなら廃工場で動き続ける機械めいたものだった。薬を飲まずにいさえすれば、常に目を覚ましていられた、それが予後にとって良かったのか悪かったのかはわからないけれど。


ウェブ日記のエディタはいつも、カウンセラーや医者に話そびれ、次こそ話さなくてはと思いながらも組み立てられた言葉になる以前に霧散していく、掴み所のない言葉を受け止めてくれるベッドだった。ノートにメモ書きする前に手が追いつかなくなりやめてしまう言葉でも、エディタに向かえばいくらでも書き出すことができた。頓服薬でいっとき眠ってしまうよりも、吐き出し続ける場所があった方がずっと身体も楽になる気がしていたから、のそ、と起き出しては「窓」に向かって誰かのアップロードしたウェブ日記を何時間も読み続け、読み終わったら自分のためのウェブ日記を、飽くことなく書き続けた。

キーに指を乗せれば、なんだって打てた。今日あったこと、なかったこと、明日あること、きっと起こらないこと……ウェブ日記を書くことはわたしには頓服薬よりほどよい鎮静作用があったし、同時に少量のアルコールのように興奮作用もあった。

他人の日記にも夢中になったし、自分の日記にも夢中だった。体裁を整えるため、cssの本を買ってきてはエディタに打ち込み、確認しながら幾度も改装してはまた、フリーのソースなどを探した。時間はいくらでもそのMacBookに捧げることができた。そうして何年も日記を書き続け、読み続けた。合間に本も読みながら、他人の日記と自分の日記から離れることができなかった。自分の書いたものは自分の肌の匂いがついている、よく馴染んだ部屋着のようなものだから、自分が書いた日記を何度も何度も読んだ。アクセスすれば必ず日記はそこにあるのに、ぽつ……と消えていることをどこかで不安に思っていたのだろう。

わたしは多分手で日記を書くよりも、キーボードで日記を書く方が素直になれた。書き直しながら、カットしペーストし直して自分の文章を配置するのは、雑誌の切り抜きを貼り付けながらつくるコラージュめいていたから、一層夢中になれたのだと思う。子供を産んで、決まった場所に働きに出るようになってから、場所をウェブ日記ではなくツイッターへと変えていったけれど、呟くことはいつも自分のこと、自分の身の回りのこと、リアルタイムな日記だった。時折はアカウントを消してしまったけれど、それは新しいノート(ツイッターは言うなればふせんだと思う)が必要だったからだ。新しいノートには新しい物語が(それが日記であれ)必要だからだ。

今もわたしは十五年以上変わらずウェブで日記を書いている。このウェブサービスがいつまで続くかは知らないし、新しいノートが欲しくなるかもしれないが、変わらず真っ白なエディタに向かって、キーを打ち続けるのだと思う。

2021年3月18日木曜日

実家の荒れ庭は、荒れているのが常だった。初めてここに越してきた日のことは記憶にはないが、昔から雑然としていて、荒れていたし今も荒れている。


京都市に革島外科医院という建物がある。茶筒のような円筒形に尖った屋根、瓦は確かエメラルドグリーンで建物には蔦が這わせてある洋風建築。児童文学の登場人物が住んでいそうなおうちで、十八で初めて町の外に出たわたしはそのおうちに心が奪われてしまった。いつか住む家を選べるなら、あんなおうちがいい。そんな風に折に触れ思い出す建物だ。

それとは別に、バブの保育所送迎の度に見かけていた、凌霄花が枝垂れ落ちるおうちがある。花の咲く季節以外は目にとめることもないが、花咲く季節になると必ず目を奪われる(運転中なので横目で見やるだけだが)。蔦を這わせたおうちが手に入らないなら、なにかをたっぷりと繁らせたおうちに住んでみたい──不精者には見果てぬ夢なのだけれど、つい高望みをしてしまう。

母は花が好きだが父はそれに無関心で、強い水流で根元の土をこそぐようにシャワーをかけたり、または鉢になみなみと酒を注ぐようにジョウロで水をかけたりと、めちゃくちゃな水やりをする。あまり育たないうちに、または花を咲かせていてもすぐに腐れてしまう。だから土だけ残って放置されている鉢が、いくつか並んでいた(父は本当に無関心なので、土だけになってしまっていても鉢が残っていさえすればまだ水をやる)。

庭と呼ぶにしてもしっかりと土が盛られているわけではない。コンクリート敷きの敷地に土をかぶせた程度のもの。かぶせた土の上には玉砂利が敷かれていて、一応は侵入者対策になっているようだが、昭和の庭っぽくてわたしはずっと好きではなかった。この家に出戻った時、どうせここに住むことになるなら、と砂利敷きだった庭の一部から砂利をどけ、レンガで囲って園芸用の土を盛った一角を作った。憧れだった木香薔薇を植えたらよく繁り小さな花をつけるようになった。木香薔薇にはよく蟻や蜂がたかりはするが、根気よく手入れをしなくても枯れてしまうことはない。気候が良くなると前の年より一回り大きく繁る。花は好きでも不精な母がたまりかねて枝を払ってしまうが、わたしはそのまま伸ばせばいいじゃないと常に思っている。緑に埋もれてしまう家──わたしはそれが憧れだった。

荒れ庭に小さい緑の一角を作ったのち、どうせなら木も植えよう、できれば大きく育つものがいいと思っていた矢先、バブが保育所でどんぐりを拾ってきた。保育所は山裾にあり、少し歩けばいくらでもどんぐりが拾えた。折り紙で作ってもらった小さいカップに入れて、持ち帰ってきた中に数粒きれいなものがあったので、まずはプランターに植えて芽吹かせた。選別した内の一つがしっかりと芽を出し根付いたので、荒れ庭に植え替えた。どっちみち、百年経つ前に誰もいなくなってしまうのだから……あとは緑に覆い尽くされてしまえばいい。この木からどんぐりが拾えるようになっても、拾ったどんぐりが芽吹いたことを思い出す人は誰もいない。そう思うと気分が良かった。

理想の庭にはわたしが生きているうちにはならないだろう。家は三度建てなければ理想の家にならないと言うけれど、庭もまた同じ。全てを抜いて土を入れ替えて、綿密な計画のつもりで植え直したとしても、アリスがボートから身を乗り出して次々に摘んだニオイイグサと同じで、憧れた庭には届くことは多分ない。いずれ父母もここを離れることになるだろうし、バブも出ていくだろう。もしかしたらわたしが出ていくのかもしれない。誰も思い出すことのない、誰も目を止めることがない庭から。その時はこの荒れ庭はどれほど荒れていることだろう。

2021年3月12日金曜日

とてちて短歌

2011年07月31日(日)
熱残るアスファルトに線路を引きわたしとお前は世界のみなしご

2010年08月15日(日) 
平和祈り並ぶかしらを風過ぎる 天の御母に歌を捧げ 

2010年05月11日(火)
明け烏コットに並ぶみどりごの泣き声止まぬマリアらの国 

2009年12月18日(金)哀しきは蝶にもなれず舞い狂う一葉に似た軽き吾が生 

2009年12月14日(月)
双子座を探すベランダで元少女の鼻先に夜降り宿る 

2009年12月11日(金) 
ビスケット一人で囓るまよなか過ぎ客待つ娼婦気取りで 

2009年11月04日(水) 
おさなごの眠るくちもとばら色に山そびえたる聖なるかな 


ほぼ十年前のツイッターのログを時々読んでいる。なぜ残してあったのかというと(ほとんどログのことなど忘れていたのだけれど、ファイルを漁っていたらいくつも見つかった)、アカウントの痕跡まで消すのが寂しかったからだ。十年のうちにアカウントを三つほど乗り換えたが、最初のアカウントは思い入れも深く、また交流もわたしにしては盛んだった。今はもう完全に知らない人同士になってしまったアカウントの持ち主と、夜な夜な文字の会話をして、眠れぬ夜を過ごしていた当時が懐かしくなった。

上記の短歌もどきは、初代のツイッターアカウントで作っていたもののようだ。もう少し数を作ってブログか何かに転載しようと考えていたのだと思う。結局今になるまで転載はせずにいたので、わたしは自分が短歌もどきを作っていたことすら忘れていたけれど……。以下はここ二、三日でパズルのように文字を当てはめただけの短歌もどき。三十一文字からはみ出ているものもあるが、完全な素人の手遊びと思って読んでいただければと思う。へたくそでとても恥ずかしいが、わたしは放置したまま忘れたり、推考もせず消していくので、日々の記録として残しておくことにした。



ハンドルを強く握りて夜駆ける星間漂う宇宙船に似て

巡る日を過ごしし古都の思い出はわれ連れ回すメリーゴーランド

ただひとつうたへる聖歌を口ずさむ祈りをしらぬとこうべ垂れつつ

くりかえし再び語る思い出は祈り数える数珠玉に似て

ミモザ咲く時しもさや風過ぎゆきぬ祈るあてなきかしら掠めて


2021年3月9日火曜日

明け烏コットに並ぶみどりごの泣き声止まぬマリアらの国

たまに夜中遅くまで起きていたり、電気を消し忘れて寝てしまった事に気付いたりすると、産前産後に総合病院の産科に入院していた頃のことを思い出す。こうこうとついた電灯の下で、おかあさんたちが円形に座って赤ん坊にお乳をやっていた、授乳室のこと。

生まれたての赤ん坊だから時間に関係なくふにゃふにゃとお乳を欲しがる。その都度行っていたわけではないけれど、夜中は病室で区切られたカーテンの中にいると世界に取り残された気分がして、それで授乳室まで赤ん坊を寝かしているコットをコロコロ押してそこに行った。

授乳室は大体いつも四、五人の赤ん坊とそのおかあさんたちが集まる。眠りながら乳を吸う赤ん坊のほおをつついて、赤ん坊にとって不慣れな授乳をしている。そこでは誰もがただの生まれたてのおかあさんだった。

誰の顔も晴れやかで、美しかった。産後の興奮などでつやつやと光っていた。初子でぎこちない手つき、既にきょうだいがいて、思い出しながらの手慣れた手つき。でもそれは全て母の手つきにわたしには映った。溢れてくる保護欲の、(それがあるとしたら)母性本能のほとばしる手つきだった。彼女たちは疲れているようでもどこか誇らしげで、同時に慈愛に満ちているように見えたから、授乳室は聖母マリアたちの国のようだと思ったものだった。

もう思い出せないほど遠い昔のような気がするし、同時につい昨日のような気もする。ふわふわのおまんじゅうみたいにつぶれてしまいそうな新生児を抱いていたまよなか、この先この子に起こるかもしれない事について、モヤモヤしていたから(だっていのちを産んでしまったから。せめて幸せであってほしかったし、それでも迎えるだろう不幸を思うと辛かったから)不安に乗っ取られそうになったけれど、それはそれで幸せだった。

何もしたいと思わなかった。本も他人も家族すらどうでもよかった。ただこの小さな赤ん坊を抱いてずっと見ていたかった。柔らかなほおを撫で、小さな手に指を掴ませて、乳を含ませたまま、そのままどこかへ沈んでしまいたかった。いのちそのものである赤ん坊を抱いたまま、夜に、朝日の中に、夏の中に、溶けていきたかった。

溶けなかったわたしたちは、すっかり熱もさめ、別々の人として暮らしている。あの頃のわたしのような状態を愛と呼んでいいのかはわからない。ただ湧き上がる泉そのものだった。

2021年3月4日木曜日

ずっと水辺で暮らしてる

古いログを読んでいた。昔の方がもう少し無邪気ではしゃいでいて(少々はそれを装って無理をしていたのかもしれないが)、臆せず人と文字の会話をしていたようだ。自身のログしか残っていないので、何の話なのか、そのアカウントの持ち主が今どうしているのか、ぼんやりとしかわからない。

最初のアカウントを作った頃のこと。今も同じアカウントで続けている人もいるだろうし、わたし以上に繰り返しアカウントを変えてどこかにいるかもしれない。もっと狭い範囲のSNSにいるのかもしれない。でもあの時間には確かに「いた」。

わたしは当時一歳くらいの女の子の母親だった。そして眠れない夜を過ごしていたから──彼らもまた同じ時間にたまにタイムラインで「すれ違った」。残ったのはそれだけ。わたしはどんどん内向きになってアカウントを何回か消しては短い期間で別のアカウントを作ったから、その度ごとに追いかける事が出来なくなった。

だんだんネット上の文字だけではなく仕事に出るようになって現実の人びとに向き合わないとならなくなり、夜は眠るようになった。「すれ違った」人と二度と会えないとはあまり思っていなかった。彼らは森の妖精でもないのに、そこにいきさえすれば必ずいると決まったものでもないのに、そうは思わなかった。

そういう「すれ違い」をずっと、ここで(初めた頃からはずいぶん時が流れているのに、同じ場所にとどまることは誰にも出来ないのに、とても無邪気に出来ると思っていた)、している。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...