2010年1月14日木曜日

剥がれ落ちてゆく私、あなた、





  『真鶴』(川上弘美 文藝春秋)を読んだ。読むかどうか迷って、結局は読んだ。このひとの本を読むと、自分がうすく剥がれ落ちていくような気がして、不穏な気持ちになる。嵐の直前のような、波の高い海を見ているような、そういう気持ち。波立つ冬の冷たい海を覗いている気持ちもに近い、ような気もする。読んでいる最中は波になっているのかも知れない。読み終わると、頭の奥から鳴るぼおっという霧笛で、色々なものがかき消される。かき消されてしまうから、仕方なく本当のまなこの他に頭の中にもうひと組あるまなこを閉じるしかなくなる。そうすると、しばらく現実が遠ざかってしまう。だから読むか迷う。今読むか、今読まないか、いつか読むか、いつまでも読まないか。四つの選択肢の中で、けれど選んでしまうのは「今読む」だ。
   恋心や愛情、憎しみ、希望、たくさんのものを失ってきたけれど、私は人を失ったことはないはずだった。だから、京(けい 主人公)が礼(れい 京の夫)を 失うことがわからなかった。礼は物語の中でいない人だ。でも、いないのに、ずっといる。数字のゼロのように、存在しない数なのに概念だけが「ある」ように。だから物語の中で京は何度も礼を失っている。失っているというか、 失い続けている(最終的には、失い続けなくてもよよくなる)。京につきまとう女のようにぴったりとはり付いて傍観者になって見ていると、だんだん息詰まっ てくる。深呼吸しても、胸元に詰まったのったりした餅のようななにかは、滑り落ちることもなく嘔吐されることもなく留まっていて、本を閉じても息苦しい。 やり場のない船酔いのよう。

  失うということはこわいことだ。私は失いたくない。自らが手放すと決められないということ、否応なしに手元からなくなると決定されることがこわい。だから私は失いたくない。


  人を所有したことは一度もない。というより、人は人を所有できない。所有していないしできないものなら失うことはない。産んだ子どもですら私は所有できていない(子どもは私に属している、或いは私が子どもに属している。どちらにしろお互いはお互いを所有しているわけではないと思う)のだから、私が産んでいない大人など所有できるはずもない。
  けれども、ひとと二度と会わないだろうと決まった瞬間から、私からそのひとが剥がれ落ちてゆく。失うのではなく、剥がれる。私のある部分にそのひとの一部分を覆い被せていたそのひとは、剥がれて元の、そのひとの身体に戻ってゆこうとする。そのひとが私から剥がれ私からそのひとが剥がれると、もう私はそのひとに干渉できなくなる。それを、私は哀しく思うしかできない。これまでに何度も見続けてきた、私から剥がれ落ちてゆくあなた(がた)、あなた(がた)から剥がれ落ちてゆく私。あなた(がた)も同じように私を哀しく見つめてくれたのだろうか。乾いた指先から白く剥がれ落ちてゆく、死んだ皮膚のような私を。

  ぼろぼろと剥がれ落ちていった私は、一体どこにいるのだろう。あなた(がた)から失われた私を、戻ってくることを私は拒んでいるのだろうか。あなた(がた)から離れて一体どこに行ってしまったのだろう。剥がれ落ちた、私だったかのじょたちは、私からも失われてしまったのだろうか。えいえんに。永遠。

0 件のコメント:

コメントを投稿

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...