2009年12月27日日曜日

うしなう

  たくさんの人が通り過ぎていってしまった。死んでしまった人もいるし、もうどこにいるのかも分からない人もいる。
  どこにいるか分からないのは私にとってのみのことであって、私が思い出す対象であるその人たちは、無事に楽しく日々を過ごしているのだろう。その人たちにとって、私がその人たちを思い出すのと同じように私を思い出すことはあるかも知れないし、ないかも知れない。多分、ないだろう。

  思い出されることもなくなってしまったら、私はその時、いなくなってしまう。過去知り合った時すら消されてしまう。だから、私が覚えているしかない。私の過去を消さないために、私が私を覚えているしかない。

  また一人通り過ぎていった。そのひとを私は所有したはずはない。なのに何故、失ったように思うのだろう。何故悲しく思うのだろう。まるで、まとわりついていた亡霊を消してしまったようだ。人は、人を手に入れられない。当たり前のことなのに、私は忘れていた。だからだろうか?ちっとも涙が出なかった。一粒も。

  涙を失った私はまた、その人たちにとっていない人になる。

2009年12月17日木曜日

天にまします我らの父よ、願わくば

 まだ受洗するずっと前のこと。週に一度の聖書講座のために河原町教会に通っていた頃、神父様からポケットタイプの聖書を貰ったことがある(当時自分用の聖書は購入したばかりで、薄紙のようなページで指を切ろうと思うなら切れるはずだった)。ぱらぱらと捲っていたときにたまたま目に入ったのが「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書 / 8章 32節:新共同訳)だった。当時はまだ洗礼を受けたわけではなかったし、今でこそ受洗したとはいえまだまだで、真理など分かるはずがない。日曜日の礼拝ですらすっ飛ばすことがあるというのに。それでもその言葉を気に入って、手帳に書き付けていた時もあった。 

 多分両親は特に考えずに入れたと思うのだが、きっかけがあるとしたらそれは、幼稚園だ。たまたま入園した幼稚園がカトリック系だったからで、もし佛教系だったならカトリックとは縁遠かったかもしれない。とは言え入園したからには、日に何度か祈りの時間があった。先生に促され、よくわからないままお祈りを暗記し(だからそれにはごく僅かではあったが独特の節回しがついていた)毎日唱えた。対して理解していないままに祈りを捧げることが、いいことか悪いことか今でも判断がつけられない。それでもシスターでもある園長先生からの優しいまなざしも、卒園する前に教会でメダイと祝福を頂いたことも、私のなかではとても大事な思い出だ。

 理由を殆ど覚えていないのだけれど、泣きながらシスターを訪ねたこともあったし、シスターたちの優しさに戸惑い、恥ずかしがり、自分をみすぼらしくいやらしい、卑しい人間だと、自分自身についていつも以上に辟易することも、やっぱりあった。どうして自分はこんなに醜いのだろうと嘆いた日も。そして同じように人気のない聖堂で、私が私でいること、その全てをゆるされたい、と願った日もあった。自分のこころの安定の為ではなく、誰かの為に。そうした行為はただゆるされるためにではなく、「ゆるす」というそのものが大きな「何か」に基づいて行われていて、そこに取り次いでほしいと思っていたからだったのかも知れない。今でも怯えるのは「ほろびへの もんは ひろびろあけっぱなし」というかるたの札の文句。それを思い出す度に、私はいつでもまっ逆さまに堕ちていく。イカロスのようにくるくると旋回しながら、後悔という羽の、重みと脆さに耐えられずに。

 折に触れ思い出す。子どもが玩具にしてしまうのでごくごく時々ロザリオを触り、聖書をさあっと捲りながら、もっと一途にもっと素直でいた頃のこと。真理が何を指すのか、それもぼんやりとしかわからない。ちっとも信仰に篤くなくて、それがまた情けない。けれど、産まれてきた時、たくさんの人に祝福されて愛されて育ったことは、ちゃんと知っている。たくさんゆるされたことも。同じようにこれからは、私が子どもに沢山祝福を伝え、ゆるし、そしてそれ以上に愛することを教えていくと言うことも。そう、当たり前のこと、ありきたりのことですね。けれど私はとても忘れやすく何度も同じ間違いをするので、こうやってたまには文字にしておこうと思ったのです。


2009年12月11日金曜日

赤の王様と私、夢を見ているのはどっち?

 子どもの関係でちょくちょく外出することはある。子供を持つ親なら大抵はしておくべき事柄で、例えば園庭解放だとか、予防接種だとか、散歩だとか、待ち合わせて児童館だとか、そういう、些細だけれども日常をやり抜くには欠かせないようなことで、外出することもある。


 私は外出するのが不得意で、出来るだけ壁と窓と屋根のある場所から出たくはない。それは小さい頃から変わらない。とにかく外は危険がいっぱいで、耐え難い。電気は全て消したか、窓や玄関の鍵はきちんと掛けたか、階段を下りてバス停に向かう途中に転げ落ちないか、或いは自転車ごと横転しないか、目玉に羽虫が突入しないか、忘れ物がないか、あれはいるかこれはあるか、と台風の高波のようにそれらに襲われる。そういう、一つ一つは大して厄介ではないけれど、全てまとめると面倒なこと(けれど出来ていて当然なこと)が足裏からおぞおぞとはい上がってくると叫びたくなる。キャリーのように?そう、シャワー室で叫んだキャリエッタ・ホワイトのように。プロムのクライマックスで、豚の血を浴びて再びシャワー室を思い出した、純真すぎるキャリエッタのように。

 だいたい、家の中で出来る一人遊びーー絵を描いたり本を読んだり、チラシの裏にけったいな話を書いたり、冊子を作り作家を気取ったりーーが好きで、一人で飽きもせずそれらを繰り返している子どもだった。毎日のようにそれは繰り返されるのだが、飽きることはない。むしろ毎日のその繰り返しこそが心地よかった。「変わらない」「普遍」と言うことが絶対の安心だったからだ。弟が外へ走り出していくのを横目で見ながら、確かにすこし蔑んでいたのだ。「馬鹿め、外には犬もいるし虫もいる。家の中にいれば何事も過ぎてゆくだけなのに。愚かだなあ」。勿論これほどはっきりとは言葉にしていなかったが、これに似たようなことを、外に遊びに行く弟に思っていた。それくらい、外の世界を憎んでいた。同時に憬れ焦がれていたとは気がつかなかったが。


 毎日通う「べき」学校を卒業してしまったし毎日通う「べき」会社勤めを現在やめてしまっているので、こんな風に自分から「ぜひ行こう」と思わずにちょくちょく外出するのは、本当に久しぶりのことだ。雨でも風でも子どもと外に出掛ける私!まるでフィクションのようだ。たまに頭の片隅で「この物語はフィクションです。実在の人物及び団体とは一切関係ありません」と青地に白い文字の画面が大写しにならないか、期待している。誰かがーー例えば、まだ私が高校生くらいの年齢で、母親が「早く起きなさい」とーー私を揺すり起こしてくれないだろうかと願っている。


 本当に、私はこの子どもを産んだのだろうか?
 この子にはちゃんと私が存在していて、私にはちゃんとこの子が存在しているのだろうか?
 もしかして私は中学生の頃のままベッドに寝ていて、未来の夢を見ているだけではないのか?或いは、これは私の子どもが見ている夢で、私はその夢の登場人物でしかないのではないか?それとももっと別の、或いは遠い未来の、近い過去の、私や私以外の誰かが見ているゆめまぼろしなのではないか?

 夢なのか現実なのか、それともそれら含めて全てがまぼろしなのか、規則正しい寝息と夜に浸食された部屋の中で、私は一人で振り子のように行ったり来たりしている。いたずら好きの黒猫は、この部屋にはいない。いるのは、小さな正しい息づかいで眠っている、夢のような子ども。



2009年12月6日日曜日

11月の読書メーターまとめ

2009年11月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3368ページ

■聖少女 改版 (新潮文庫 く 4-9)
読了日:11月28日 著者:倉橋 由美子
http://book.akahoshitakuya.com/b/4101113092

■ありふれた風景画 (文春文庫)
あさのさんの少女ストーリー。ややエスかも。「ガールズ・ブルー」よりももっと倦んでいる高校生の少女を軸に描かれている。大勢の中で、多数派に属せないということは思春期にはとても辛いことなのだけれど、それでもみんなと同じにはなれない瑠璃と周子(周子は烏と心が通っているし)。大人の話が理解できる年齢なのに、大人と同じには扱われない。理不尽なくすぶりの中で少女たちは大人になっていくのだが、大人になるって、つまり「他者と、その違いを許せること」だろうな。それは諦めとは違うと思いたい。母に父に姉に自分の嗜好に対してくすぶっていた瑠璃は多分、本物の大人になったときにも、思春期のくすぶりを思い出せる人だろう。それは時には自分を刺してくるだろうけれど。
読了日:11月27日 著者:あさの あつこ
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3938879

■マイナークラブハウスは混線状態 (ポプラ文庫ピュアフル き 1-4)
何とか「それ」を通り過ぎることが出来た先達が、見守ってくれるということは後から続く者にとって幸いだ。ぴりかのような、天野のような、自分を塗り固めている子は、それが過去になった者か、昔それを側で見ていた者には痛々しい。無傷で居られないんだよ、そういう魂の持ち主は、人よりも何倍も魂の周りにある膜が薄いから、だから時々やりきれなくなってしまう。キャラクター小説にならずに続いているのは、やっぱり、誰かの痛みをそれぞれを媒体として共鳴させてしまうからだろうか?特に、ぴりかのような、誰にも本当の姿を見せない子の危うさには目を覆いたくなる、怖くて。でも楽しみでもある……。思春期って、本当に、ぼーっとしてると熱病のように過ぎてしまう。「それ」と取り組める彼らを羨ましく思う。
読了日:11月26日 著者:木地 雅映子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3934400

■サグラダ・ファミリア 聖家族 (新潮文庫)
読了日:11月26日 著者:中山 可穂
http://book.akahoshitakuya.com/b/4101205310

■月夜見
何事も起こらず淡々とした日常というものに、いかに狂気が潜んでいるかというと、それはもう張り巡らされているようなものだ。主人公の書けない小説家は入院中の継母と、継母が経営しているアパートの面々をテーマに小説を書こうとしている。淀んだ池でぬらぬら泳ぐ鯉にとっては日常だとしても、たまに池を覗く方からすると面白くもありグロテスクでもあり不快でもある。オカルティックな部分はすこし、苦手。
読了日:11月23日 著者:増田 みず子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3896775

■オリガ・モリソヴナの反語法
「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を読んだので。読み始めた頃、「あれ?エッセイの焼き直しだろうか?」と思ったけどとんでもない失礼!下地になっているのは確かにご本人のチェコ・ソビエト学校時代の経験だけれど、架空の人物たちのなんという人間くささ、温かさ。そしてその底に流れ続けている歴史の残酷さ。少々場面転換などが切り口上っぽいごつごつした所もあるにしても、中だるむこともなかった。まだすこし興奮しています。
読了日:11月19日 著者:米原 万里
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3844854

■嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (文芸シリーズ)
プラハのソビエト学校の生徒だった著者が出会った、印象深い三人の友達のことを書いた、ノンフィクション。よくある「子どもの頃の懐かしい記憶」の随筆ではなく、当時の情勢やそれぞれ友人達が背負っていた「国」のこと、思想の違いのこと、それらを堅苦しすぎずに読ませる筆の運び!その文体は達観しているようでいて、けれど当時の友達を探す情熱的な一面も覗き、とてもチャーミング。
読了日:11月12日 著者:米原 万里
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3755518

■贖罪
読了日:11月06日 著者:イアン マキューアン
http://book.akahoshitakuya.com/b/4105431013

■ハンニバル〈下〉 (新潮文庫)
読了日:11月03日 著者:トマス ハリス
http://book.akahoshitakuya.com/b/4102167048

■ハンニバル〈上〉 (新潮文庫)
読了日:11月03日 著者:トマス ハリス
http://book.akahoshitakuya.com/b/410216703X


▼読書メーター
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10月の読書メーターまとめ

2009年10月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2193ページ

■羊たちの沈黙
菊池光さんの訳は独特なので、読みにくい人もいるだろうけれども、本の中の傍観者になった途端に一直線。引き込まれ方、引き込み方の強さよ……。グロテスクさ(或いはえげつなさ?)の中にもきちんと礼儀正しさと上品さを持ち合わせているレクター博士は紳士だ。静かに、一ピースごとに欠片がカチリとはまっていく後半部分はため息が漏れる。
読了日:10月31日 著者:菊池 光,トマス ハリス
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3579414

■最終目的地 (新潮クレスト・ブックス)
キッチュでキュートな登場人物達だった。大体、自殺した作家の妻と愛人、その娘、作家の兄(ゲイ)とその恋人が一緒に暮らしているというところがちょっと背徳的である。一歩間違ったらメロドラマ、と思うような関係の中に、自殺した作家の伝記を書きたいと青年が現れて、停滞していた船が滑り出した。青年がくるまでの彼らだったら考えてもいなかった未来へと到着することになる。ああ、恋って言うのは「落ちずにはいられない」のだろうな。「読む」ことを純粋に楽しめる、心地よい物語だった。
読了日:10月23日 著者:ピーター キャメロン
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3510434

■すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた (ハヤカワ文庫 FT)
読了日:10月18日 著者:ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
http://book.akahoshitakuya.com/b/4150203733

■僕の双子の妹たち
きょうだいの祖父の存在が、暗く深刻になりがちな題材の救いでもある。特に、胃袋を満たしてくれる温かな料理は、どんな優しい言葉よりも穏やかに身体に行き渡るだろう。うつくしい文章体の会話だった気がする。ただ、時折その中にくだけた表現があってそこに違和感があったかも。周りの個性によってより主人公の「傍観者」ぽさが引き立ってしまうけれど、主人公に見てわかるような毒気がないところがとてもいい。
読了日:10月14日 著者:白石 公子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3413112

■ぼくのキュートナ
なんてかわいいラブレターだろう!周りと比べたら(比較こそナンセンスだけど)ちょっと変わったタイプかもしれないけど「ぼく」のキュートナちゃんだから、気にしないだろうな。かわいいこととタフであることが共存するんだなあ。
読了日:10月11日 著者:荒井 良二
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3382216

■ベル・ジャー (Modern&Classic)
シンデレラになれなくても、ガラスの靴は既に割れていたとしても、それでもそのガラスの靴を望まずにいられるだろうか?選ばれた人間でありたいと思うのは、子どもだからだろうか?
二十歳の頃に、彼女に会ってなかったことで、私は本当の自殺からは救われていたのだろうと思う。ベル・ジャーが頭の上にぶら下がっているのは自分だけではないけれど、そのベル・ジャーに気付く人間は少ない。勿論気付かなければ幸せだとは思わないけれど。若ければ若いほど、世界は自分のために存在し、自分はそれらを統べる女王(王)であると錯覚しがちだ。けれど経験によって知る。自分は世界のどこにでもいる、ただの女や男であると。それどころか何も出来ない取るに足らない人間だと。そしてそれに絶望する。やがて諦めて受け入れるーーそれが、大人になることだから、とーー。それでも憬れる。絶望に憬れるようなものだとしても。彼女は、まったく偶然にオーブンに頭を突っ込んだのだろう、生きにくさ故に。
読了日:10月09日 著者:シルヴィア・プラス

http://book.akahoshitakuya.com/b/4309204015

■マイナークラブハウスの森林生活 (ピュアフル文庫 き 1-3 minor club house 2)
多分生きていくには子どものタフさ(それこそぴりかはタフだ。野宿や生の野菜を囓っているからではなく)の方が向いている。ぴりかや天野はタフだ。でもそれは痛々しいタフさだ。

読了日:10月06日 著者:木地 雅映子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3333115

■金魚生活
言葉が通じないということは黙っているわけではなくて、でも相手に届かないというもどかしさは、ちょっと綺麗事になっていたような気もしたけれど……。勝手にもっとグログロ(それこそ、なんか騙し騙されの思惑が飛び交いそうな)しているのかも…?と思っていたので、あっさりと終わってしまって淋しい。金魚色って良いね。その色のハーフコートを、孫が生まれた玉玲が着ているというのも、洒落ている。日本に滞在中の外国人という、寄る辺の無さがまた、大きな水槽にゆらゆらと尾ひれを揺らしながら泳いでいる金魚にも重なる。絵的だな。
読了日:10月04日 著者:楊 逸
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/3320007

2009年11月26日木曜日

「夜」という名前の夜

 小さく絞ったボリュウムに、さらにイヤホンを重ねてつけて、音が漏れないようにひっそりと音楽を聴いている。人がひとり眠っているだけでこの部屋は随分静かだ。夜が、部屋中に充満している。とても気持ちがよい。

 子どもはまだ昼の世界しか馴染みがない。この世界の、昼と夜のシステムを「寝る」ことと「外に遊びに出る」ことくらいでしか、計っていない。その潔さがまた、清々しい。大人になるってほんとうに面倒ね。夜が怖くなったり、するんだから。子どもはまだ夜を怖がることはない。夜という暗闇も怖がってはいない。それでもひとりぼっちになることは怖いらしく、自分に何かを言い聞かせるように黙って玄関を見て、誰も外に連れて行ってくれないことが確定すればきちんと諦めている。

 しばらくは、私は夜を、たった一人でやり過ごさなくてもいい。ひとりぼっちだった頃の私にとって煙草は、夜を生き抜く為の銃剣だった。でも、もうそんな風に煙草を吸うこともない。しばらくは。

 愚かな娘だった頃の私にとって本は、生活をごまかす為のブランデーだった。それは今もそう変わらないけれど、それでも、少なくとも私の心を奮い立たせてくれる。酩酊の所為でも、気持ちはいいのだから、良いことだろう。気持ちのいいことは大抵、私を堕落へと誘うけれど、その分とても紳士的で優しい。

 寝息を聞きながら、ページを捲る。静かな部屋で、起きているのは私一人。夜はまだ目覚めたばかり。

2009年11月21日土曜日

水の女神たち、雨に咲く

  主に使っている部屋は西と南に窓があり、南側は掃き出しになっていて、晴れた日には光が良くはいる。西側は普通の、なんの変哲もない窓が付いていて、海が近いものだから風が良く通る。


 西側の窓の側に置いてあるプランターに、今日、ネリネが咲いていた。
数日前から咲いていたのだけれど、改めて「今日」と強調して言うのは、今日私がその花を「ネリネ」だときちんと認識した日だからだ。私がネリネを「ネリネ」と認識して初めて、私が見たネリネは「ネリネ」として咲いた。

 ところでネリネの咲いているところを見ていると、小さい子どもらが「あーん」と口を開けて甘いものを強請っているようにも見えて、そういうところが、可愛い。花は人に似ているので、側にあると落ち着かなくなるためあまり好きではないけれど、見ていると面白い。たまにだらしないのや威張っているのがいたりして、花の多い庭は幼稚園や、井戸端会議を思わせる。

2009年11月19日木曜日

海と白昼夢

 数日ぶりに晴れた。けれど雨が冬をそこら中にまき散らしてしまったので、空気はもう11月ではなく、冬のそれになっている。

 朝、空と言わず世界中が白いのもそう。冬だからだ。大きな牛乳瓶の中に町ごと沈んでいるような、うっとりと窒息していきそうな冷たい空気の中、私は窓を開ける、毎朝。

 私の移動手段の殆どは自転車で、私はそれをまずまず気に入っている。煙草をすっかりやめたので呼吸もとにかく楽だし、少々きかん坊な娘相手の育児と家事のおかげで、すこしずつ体力も付いているらしい。妊娠する前の、あのがりがりした不健康体とは違って、身体全体にうっすらと脂肪が付いているので、逆に動くのが楽なのだ。

 抱っこおんぶ紐で娘を背負い、ペダルをぐっと踏み込むと、空気をきちんと入れておいたタイヤがつうっと地面を滑り出す。滑らかに静かに穏やかにそれは始まり、すこしずつ加速していく。

 町の中へと出るには海の側の道を通るより道はない。昔から変わらない景色だ。変わりかけた景色もあるけれど、おおよそ変わってはいない。たまに釣り人もいる。穴場らしくちょくちょくいろんな人が釣り竿を持って糸を垂らしているのだ。

 今日の海辺には、海を見ているひとがいた。

 それまで自転車を漕ぎながら歌っていた鼻歌もやめて、そっと通り過ぎようと思いながら、半分好奇心でそちらを見たら、そのひとはひとではなく朽ちかけた杭だった。けれど確かに見ていたのだ、そのひとは。彼(彼女?)は一人で海を、じっとしずかに、すこし頭を垂れてーーあの「晩鐘」の男のひとようにーー海を見ていたのだ。

 何故だかとても、犯しがたい雰囲気を荒らしてしまいそうで、もともと海など見ていなかったように視線をスライドさせ、ペダルを力一杯踏み込む。自転車はそれに合わせて速度を増して、景色が後ろへと移っていく。あれは本当に朽ちた杭だったのだろうか。人ではなく、杭だったと私は言い切れるのだろうか。杭は、やはり海を見ていた。

2009年11月18日水曜日

聖堂にて

 本があるところは、すこし埃っぽい匂いがする。それはとても甘く、柔らかく、同時に香ばしい。冷たいが同時に温かで、さざ波のように声が聞こえる。誰かの。遠い過去からの。近い未来からの。
 本があるというその点においては、私にとっては懐かしく親しい場所なのだ。そこが初めての場所だとしても。

 古本屋や図書館はインクと紙とそれらの入り交じった建物の、落ち着いた埃っぽい匂いがする。それに、よく日に晒された紙の匂いも。

 新鮮な埃っぽさというだけで、それは新刊書店でも同じこと。もっとも、新鮮なのは雑誌売り場の匂いで、文芸書やそれほど動きのない棚は、落ち着いた匂いがする。どちらも、私にとってとても好きな部類の匂いだ。

 今でこそ身軽には行けないけれど、新刊書店でもリサイクル本屋でも図書館でも、とにかく本のある風景が好きで、散歩を兼ねて出掛けた。図書館はしばらく通っていなかったので、その雰囲気に慣れるまで時間がかかったけれど、概ね館内で自由に過ごせるようになったと思う。今は、子どもを連れているので、自分の借りたい分は図書館のサイト上で確認して、短時間で切り上げている。それでもやはり図書館に足を踏み入れると、ふっともう一方の、子どもと繋いでいない方の手を握られる気がする。

 初めて図書室に入った小学生だった私に。行き場を求めて図書室に逃げ込んだ高校生の私に。人に恐れて、それでも人を嫌いになれずに憧れて、情報館から彼らを眺めていた大学生の私に。 

 人は去っていくけれど、本は去らない。それは幻想だろうか?それでも、構わない。本は裏切らない。未来の私が本を裏切ることはあっても。全てにおいて誠実な生き方をしたいと思わせているのは、私にとっては未来の象徴である子どもと、過去の証である本たちである。そこに親たちは含まれない。なぜなら親たちは既に私の一部であるからだ。

本を読むならいまだ
新しい頁をきりはなつとき

紙の花粉は匂ひよく立つ

そとの賑やかな新緑まで

ペエジにとぢこめられてゐるやうだ
本は美しい信愛をもつて私を囲んでゐる

室生犀星「本」

2009年11月17日火曜日

鏡ちゃん

自分という人間の底の浅さや嫌らしさ
醜さや卑しさや浅はかさを含めて
許してやれるほど、
私は私を愛していない。

この肉体が滅ぶ日までそれは続くけれど
そのことについてのみ
私は絶望していない。


明日がくることすら許せないまま
鏡の国のさかしまことばを鏡にぶつけて。

もっと醜く!もっと卑しく!!もっと下卑て!!!

2009年11月13日金曜日

ウィトゲンシュタイン様 御許に

 子どもがいる生活が段々当たり前になってきた頃、喃語を発する子どもを前に途方に暮れた。「途方に暮れた」と過去形ではあるけれど、事実上は現在進行形だ。会話が成立しない!話すことが好きでもなければ得意でもない私でさえ、そのことに気付いたとき呆然とした。かのじょの言うことが私にきちんとわかるだろうか?母親なのに、わからなかったらどうすればいい?


最近は少しずつ意味のあるようにも思える言葉が口から漏れている。でも、表情や仕草と合わせなければ、正解しない。私が意図せず発している言葉を、道ばたにかりかりと落ちている枯葉のように拾い上げているのだろう。かのじょにとっては、私たち周りの大人が発している言葉も、玩具のようなもの。それが後々よいものになるのか悪いものでしかなかったかは、まだわからないけれど。

かのじょの言葉は、言葉以前の言葉。言葉と声の境界線が曖昧で、まだそれらがさまざまな意味を持っているということを、深く理解しているかはかのじょからは聞き出せない。今は、私がこうだろうなと思ったことをいくつか提示すると、子どもの方がそれに当てはめてくれるのだけれど、根本的には多分、子どもはもどかしいと思っているのではないだろうか……。自分がちゃんと喋っているのに、何故この人はわからないのだろう、と。

そもそも、子どもというのは自分だけの言語を、また子ども同士だけで通じる子どもだけの言語を持っているらしい。大人達にとっては、それらは自分の知っている音に当て嵌めて、さらにものの名前などに組み替えなければ通じない。けれども、かれらやかのじょらにとっては発したままの言葉で通じている。散歩の途中、近所の坊っちゃんが私たちに、「ぼくねえー、%$#がねえー、好き」と言った「%$#」は、一番近い音で「くさ」だったのだけれど、かれの言う「%$#=くさ」と、私が聞いた「くさ」は別物かも知れない。同じ音だけれど、かれと私の間には、暗黙の了解は存在していない。だから、どんなものかは私が想像で補完するより方法がない。それがすごくもどかしく、少し残念だ。かれの「%$#」を共有できないということが。同じようにまたかのじょととも、僅かなすれ違いを繰り返し、ことばを、世界を完全には共有できないのだろうということが。

そうでなくても、世界は孤独だというのに。


まるで、 胎児のようなことばたち。小さく丸く眠るように、子どもたちの奥深くで息づいている。
生まれてきたら、きっと、かのじょは驚くことだろう!世界はことばで溢れているということ、自分からもことばが溢れ出てくるということ、便利だけれど、でもすこし不便になってしまうことに。
生まれる前のことばたち。今はまだ、ゆっくり、夢を見ておやすみ。

2009年11月11日水曜日

温かな荒野

いつ頃からだったかは曖昧でよく覚えていない(そもそも、覚えておく必要がなかった)のだけれど、私は「孤独とは美しいものだ」 と思っていた(し、まだ思っている)。孤独というものもひとを癒すのだとも。ただ、真の意味での孤独というよりそれは、きっと「孤独っぽさ」という別物なのだけれど。

私は「孤独っぽさ」がすごく好きで、それはもちろん戻っていける場所があってこその「孤独っぽさ」が好きなのだけれど、それが凝縮されているような場所が、荒野だった。小高い丘に教会があって、そこから少々離れたところにぽつんと建っているような洋館か城が自分の住む家だったら!とよく想像した。そこから私を連れ出す人がいる、というのがそのストーリィの続きなのだけれど、当然、私はそれを断って一人静かに荒野にとどまるのだ!毎日、同じ風景をくもったガラス越しに眺める。その「残酷なまでの変化の無さ」が私への唯一の慰めになる。

通学するためには峠をひとつ、超えなければならない片田舎に住んでいた。だらだらと長い通学路をやり過ごすには、季節ごとに姿を変える自然だけでは足りない。だから、最終的に自分が閉じこもれる場所として、心の中に荒野を持つことにしたのだ。荒野という、その字面、イメージが、これ以上どこにも行けない、「行き止まりの甘い息苦しさ」や「遠くあくがれいずる魂」をよく現しているように思えたのだ。


その内に、エミリの『嵐が丘』に出会う。私にとってその本は、まるで奇跡だった。魂の行方を見ているような、それぐらいの衝撃。荒野に吹く風そのものになったキャスリンやヒースクリフは、私の心の荒野をも自在に駆け回り、それ故私の荒野はどんどん美しく研ぎ澄まされた。鈍く灰色に輝く空やヒース、ごつごつむき出した黒っぽい地面や転がっている岩、時折高く声を上げる野鳥たち。箱庭の中のように配置され、また排除され、荒野は荒野らしくなっていく。


そして今、心の中に誰も手出しできない荒野を持ったまま、少女はくたびれた女になった。 
よりどころをうまく見つけられない子どもも、時間が経てば自動的に大人になる。変化は嫌いだし、馴染むのにも時間のかかるという生きにくさは今でもついて回っているが、あの頃に比べたら少しはましな気がしている。それは「大人」「母親」という、子どもからすれば特権階級めいたものになったからだ。けれど、子どもを持ってもなお変わらない孤独は、ある。それは私がひとであるからだし、自分以外の誰にもなることが出来ないからで、子どもには関係のないこと。

私の心の荒野は私の憧れそのものであり、孤独の象徴、現実世界からの逃避先であり、自分だけの天国であり、また自身の墓でもある。温かく安全で守られていて、誰にも手出しできない、すばらしい荒野。そこで時折入れ替わる登場人物たちや私は、何度も生まれ生き、そして死ぬ。それを何度も想像する。美しい荒野で。私専用の、温かな荒野で。

2009年11月7日土曜日

十一月に現れる扉のこと 


「私にとっての意味というのはね、『十一月には扉を開け』ってことよ。
どっちがいいかって迷うような事があっても、それが十一月なら、前に進むの。
十一月に起こることは、とにかく前向きに受け入れようって、そう思うようになっちゃった。
だって、そのドアの向こう側って、光が燦々で、すごくいい所みたいじゃない?
扉をあけて、ぐんと進んでも、だいじょうぶなんだって気がするでしょう。…………」
高楼方子 『十一月の扉』リブリオ出版/新潮文庫



十一月の、何でもない日に新しく日記を始めることにした。
これまで使ったことのない場所で、全く新しく。
新品のノートに、なにか書くときはいつも手が少し、震えた。
なにを書いていいのかひとしきり迷ってから、とても素晴らしいことを書くのだと意気込んだ。
そして、どうでもいいことを書いた。あとから必ずほんの少しだけ後悔するような、どうでもよさのことを。
ノートを新しく買う度に、同じ事を繰り返している。ここもそうなるかもしれない。そのうちにわたしの身体に馴染むことを願って。


追記

ラベルについてのメモ
「はじめに」  :前置きとしてのご挨拶
「クランブル」 :思うことのつぶやき(ついったーではない)
「デイズ」   :日常の、その日の、出来事を書く
「フィラメント」:小説に似せた文章のもの、散文、作り事、習作、嘘

私の日常は、こうやって書き出された時点でフィクションになってしまいますが、書き出されたものそのものはフィクションにならない。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...