いつ頃からだったかは曖昧でよく覚えていない(そもそも、覚えておく必要がなかった)のだけれど、私は「孤独とは美しいものだ」 と思っていた(し、まだ思っている)。孤独というものもひとを癒すのだとも。ただ、真の意味での孤独というよりそれは、きっと「孤独っぽさ」という別物なのだけれど。
私は「孤独っぽさ」がすごく好きで、それはもちろん戻っていける場所があってこその「孤独っぽさ」が好きなのだけれど、それが凝縮されているような場所が、荒野だった。小高い丘に教会があって、そこから少々離れたところにぽつんと建っているような洋館か城が自分の住む家だったら!とよく想像した。そこから私を連れ出す人がいる、というのがそのストーリィの続きなのだけれど、当然、私はそれを断って一人静かに荒野にとどまるのだ!毎日、同じ風景をくもったガラス越しに眺める。その「残酷なまでの変化の無さ」が私への唯一の慰めになる。
通学するためには峠をひとつ、超えなければならない片田舎に住んでいた。だらだらと長い通学路をやり過ごすには、季節ごとに姿を変える自然だけでは足りない。だから、最終的に自分が閉じこもれる場所として、心の中に荒野を持つことにしたのだ。荒野という、その字面、イメージが、これ以上どこにも行けない、「行き止まりの甘い息苦しさ」や「遠くあくがれいずる魂」をよく現しているように思えたのだ。
その内に、エミリの『嵐が丘』に出会う。私にとってその本は、まるで奇跡だった。魂の行方を見ているような、それぐらいの衝撃。荒野に吹く風そのものになったキャスリンやヒースクリフは、私の心の荒野をも自在に駆け回り、それ故私の荒野はどんどん美しく研ぎ澄まされた。鈍く灰色に輝く空やヒース、ごつごつむき出した黒っぽい地面や転がっている岩、時折高く声を上げる野鳥たち。箱庭の中のように配置され、また排除され、荒野は荒野らしくなっていく。
そして今、心の中に誰も手出しできない荒野を持ったまま、少女はくたびれた女になった。
よりどころをうまく見つけられない子どもも、時間が経てば自動的に大人になる。変化は嫌いだし、馴染むのにも時間のかかるという生きにくさは今でもついて回っているが、あの頃に比べたら少しはましな気がしている。それは「大人」「母親」という、子どもからすれば特権階級めいたものになったからだ。けれど、子どもを持ってもなお変わらない孤独は、ある。それは私がひとであるからだし、自分以外の誰にもなることが出来ないからで、子どもには関係のないこと。
私の心の荒野は私の憧れそのものであり、孤独の象徴、現実世界からの逃避先であり、自分だけの天国であり、また自身の墓でもある。温かく安全で守られていて、誰にも手出しできない、すばらしい荒野。そこで時折入れ替わる登場人物たちや私は、何度も生まれ生き、そして死ぬ。それを何度も想像する。美しい荒野で。私専用の、温かな荒野で。
2009年11月11日水曜日
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