2020年12月17日木曜日

スノー・スノー・ドーム

雪の降る夜、すっかり町の灯が落ちると、空の方がずっと明るくなる。空の色はあかるい墨色を混ぜたグレイ、星の出る夜に比べたらずっと不透明で、降る雪片もやはり不透明の白か、灰。断続的に降るのでそれは地上から昇っていくのか、それとも本当に空から降ってくるのか、同じ雪がスクロールしているのか、ずっと眺めていると区別がつかなくなる。

電燈の下はそこだけがぽっかりと明るい為に瓶の底めいていて、降る(或いは昇る)雪が時折吹く風に揺れながら、正しくその中で上下している。わたしの見ている風景は、目にした瞬間ドームに覆われる。小さな海の町が閉じ込められた、珍しくもないスノードームだ。雪片とデフォルメされた風景を閉じこめたスノードームにある、稚拙な作りの電燈の下にただ雪が降るように、わたしの目で切り取られた風景にも雪が降る。

普段なら気にも留めない電燈の光は、雪の夜になるといつもより明るく灯る気がするが、それでも闇の中を照らすにはとても小さいのだ。幽けきあかりは諦めに似たため息を催させる。

あなたの住む街でも、電燈の下に雪が降るでしょうね。それはどのくらい明るく揺らいでいるのでしょう。あなたのいない町の電燈の下で降る雪を見ながら、わたしは時折想像します。既にわたしの居なくなった街に、或いは初めから居なかった街の電燈の下に降る雪の事。

2020年12月10日木曜日

遠い海、輝く記憶

 十九、二十歳かそのあたりの歳の夏に、初めて京丹後の海へ行った。当時通っていた学校の学外施設がその地にあり、その施設に数人で泊まることになったからだった。海に面した場所にあるので、せっかくだから海水浴もしようというのだ。宿泊するメンバーにとってそれはちょっとした旅行のような感じだったようだが、わたしにとってそれは、旅行というより地元に帰ることと(距離的にも精神的にも)そう差はなかった。

 シーズン中だったはずだが、プライベートビーチ化していたのか、それともたまたまだったのか、海岸に人は少なかった。というかほとんどいなかった気がする。人がいないから海水も透明だったように思う。よく晴れていて眩しかった。わたしは太陽に目が眩んで波に足を取られたりもしたが、それも今では面白かった過去の一部になっている。その時溺れずに済んだのは、当時付き合っていた人が助け起こしてくれたからだった。

 海水浴をする、ぜひ海に入らなくては、という情熱はわたしには今もわからないでいる。当時も何故わざわざ海に入りたがるのかわからなかった。水着はいるし着替えもいる、日焼け止めかサンオイルが必要だし、上がったらシャワーを浴びなくてはならない(それでも砂は流しきれない)。海水に浸かって陸に上がると身体がとても怠くなる……上げていけばキリがないくらい、海水浴は「面倒」が先に立つ。

 わたしは小さい頃泳げなかったし、海から上がると身体中がべたべたするし砂でざらつくので、海水浴そのものは好きではなかった。けれど、海水浴は毎年数回行われる家族行事だった。父がそれを決め、母やわたしたち姉弟はそれに従うのみ。行く以外の選択肢は絶対に許されなかった。もしそうしたら父は静かにずっと怒りを燻らせただろうから。だからわたしが中学生になり、家族と距離を置き始める頃になってやっと離れることが出来た行事だった。

 海に入るのは好きではなかったが、海辺にいるのは嫌いではなかった。むしろ好きな方だったし、自分一人で行けるわけではなかったから、特別だった。夏の太陽の下で貝殻を集めたり砂浜を掘ったり蟹を探したし、浮き輪をつけて波間に漂っているのは面白かった記憶がある。積極的に楽しんでいたわけではなかったが、海での楽しみ方は見つけられていたと思う。

 わたしの住むこの町は、海に面した町だ。家から十分も歩けば釣り糸を垂らせる海がある。休日にフェリー乗り場や桟橋に行けば、大抵誰かが釣りをしていたし、今もそれは変わらないだろう。町の中心部に出るためには、海沿いの細い道を通って出るしかなかったから、自家用車の窓から眺める景色の大半は、やはり海だった。

 わたしにとって海は特別なものではなかった。いつでも側にあったし、またあり続けるのが海だ。けれど、記憶の向こうにある遠い海には、二度と行けることはない。車を自由に乗れるようになってから、時折わたしは海へ向かう。そういう時は海にしか行けないし、海に行くしかない時なのだ。スマートフォンの画像フォルダに溜まっていく写真のように、記憶の中に海が増えていく。いつも同じ、でもいつも違う遠い海。

2020年9月9日水曜日

くちびるよ語れ

 バブにほんのりとパウダーをはたいてあげる時、うすいまぶたにアイシャドウを塗る時、小さいくちびるにほんのりとグロスを塗ってあげる時……わたしは懐かしいデジャビュにおそわれる。いつのことかはもう思い出せないが、これは確かにわたしが知っている、かつてやったことがある動作だと気が付く。でも、すぐに現実に引き戻されてしまう。わたしの前で、そっと目をつぶっている小さいバブ。

 あの懐かしさに息が詰まりそうになる感情がなんだったのか、やっと思い出すことができたのは昨日のことだ。わたしはかつて、好きだった男の人にメイクをしたことがあった。出かけるかとなんとなく決めた日、わたしが小さい鏡の前でしていた化粧を、自分もしたいからやってみてほしいと望まれた時のこと。

「いいよ」と答えてわたしは彼の顔に、化粧水と乳液をつけ、下地を薄く伸ばした。ヒゲしか剃ったことがないであろう皮膚がわたしの前に突き出されている。長い間、夕方以降からしか出かけなかったせいだろうか白く、うっすら青みを帯びていて、煙草を吸っていた割にはかなり肌理が細かかったと思う。閉じた目には長い睫毛が揃っていて、薄い影を落としていた。いつだって彼は無防備だったが(でも、いつも閉じていた、無防備なのに少しだけ必ず距離があった。わたしたちはこの距離を肌で知っていたので、踏み込むことはしなかった)、この時ほどそうだった事はないと思う。

 ファンデーションを塗り広げ、パウダーで押さえてから、まぶたにはわたしがいつも使っていたアイシャドウを薄くはく。色は思い出せない。彼は目が大きくて二重だったから、わざわざアイラインを引くこともないだろうと思って、一段濃い色のアイシャドウだけを重ねた。ビューラーを使うか迷ったのは覚えているが、実際使ったかはもう思い出すことができない。でも多分使わなかったと思う。彼はそのままでもくるんとカールされたような、長い睫毛だったから。黒のマスカラをダマにならないように塗る時は、確か手が震えてしまったのではなかったか、なぜなら睫毛もとても美しかったから。

 化粧をされている間の彼は、本当に美しかった。目を閉じて、わたしが本当は四苦八苦しながら化粧をしているのに、完全にわたしに預けられていた。それまでにこんな風に無遠慮(だって顔に触れるのよ)に触ったことがあっただろうか?多分、なかった。顔に触れる以上のことをしておきながら、その頬を軽く抱くことはなかった。ほんの短い時間だったとはいえ、何もかもが無防備にそこにあった。そのまぶた、睫毛、濃い眉、つうっとした鼻筋、ほんの少しだけ開いていたくちびる、そこから覗く粒の大きい歯。どれも全てが完璧に彼だった。わたしが当時もっとロマンティストで、もっと他人に対して大胆であったなら、彼の顔のその全てに口づけの雨を降らせただろう!

 小心者のわたしは、とうとう彼への化粧を終えてしまった。「できた」と言うとゆっくりと目を開け、小さい鏡に映る自分の顔を角度を変えながら何度も覗き込んでいた。彼がその時何を言ったのかは、わたしの記憶にはもうない。一度で飽きたのか、わたしのメイクがそれほど劇的に顔を変えなかった事につまらなさを覚えたのか、それはもう永遠にわからない。わたしに残ったのは、美しい顔にそっと手を添えながら初めて他人にしたメイクの感触。それから強烈なデジャビュ。

2020年8月9日日曜日

つめあと

‪    七月の終わり、この町の海軍工廠を狙った空襲があったそうだ。東京からやって来た祖父はそこで大工をしていたから、その日も働きに行っただろう。その空襲で少なくない人数が亡くなったと知ったのは、本当にここ十年の事だ。けれど祖父はそれにひとつも触れず語る事なく、黙っていた。‬黙っている人から何かを聞き出すのは──とても難しい事だと祖父の表情を見てわたしは知ったのだと思う。


‪ 子供の頃、祖父とはよく散歩をした。町内をぐるっとまわることもあったが、多かったのは遊具のほぼない、祖父母の家からすぐにある長い土手を登った先にある公園だった。建てられた慰霊の碑も二つほどあったと思う。そこを回って歩いたのだが、何故祖父が寄るのかわからなかった。祖父は黙っていたし、わたしも黙って歩き続けた。‬彼にとってあまり喋りたがらない孫はちょうどよかったのかもしれない。わたしはあれこれ聞かず、ただ黙ってついていく女の子だった。祖父母も黙っていたし、わたしもよく喋る子供ではなかった。それに祖父母は戦時中どんな暮らしだったかをほとんど、まったく口にしなかった。‬

 ‪一度だけ宿題のために、戦争のことを聞いたように思うが、濁されたのかはぐらかされたのか、祖父も祖母も黙ってしまい、これといった出来事を聞けなかったから、二度はしなかった。出来そうになかった。代わりに昔の硬貨や紙幣を貸してもらい宿題の代わりにした。言わないという事はそういう事なのだ。‬

 ‪母は完全に戦後生まれ、父は戦中の貧しい北の農村生まれで、わたしからでさえ戦争は遠くなってしまった。語る者がいなくなれば、でもなかったことになるか?それはない。語れなかった・語らなかった者の戦争がどんなものだったかは想像するより他にはないから、わたしはいつまでも想像してみるしかない。‬

 ‪でも、想像することをやめないでいたいと思う。そうする事くらいしか今のわたしにはできることが思いつかないが……それが何に繋がるか、何が出来るかは今もまだわからないけれど。

 

2020年8月7日金曜日

昏い記憶

 意図的にその記憶を消しているのかもしれない、なくしたものや手放したものが多すぎて、何をどういうつもりで「消した」のか、すっかり思い出せなくなった。手帳……たくさん書き込みをしていた、日記代わりの手帳が数冊あったはずだが、その姿をとんと見ない。

 夜を飛んだ飛行機のチケット(多分半券だろう、使ったのだから)を貼り付けていた手帳があったはずだった。ハードカバーで細身の、日記を書くといっても数行書けるかどうかの……青い太めのボールペンで、のたうった文字を書いていたはずだった。

 そうだ、確かその青いボールペンは、輸入雑貨を扱う店で買ったものではなかったか。毎年手帳を買いながら(予定がないので当たり前だが)なかなか書ききることのなかった手帳を一冊使い切った二度目の手帳ではなかったか。

 「あの日」以降にその手帳を、何度かめくっていたはずなのに、何を書いたのか、何を思っていたのか、全て吸い出されたように、記憶に残っていない。あるのは、確かに書いたという後付けの記憶ばかり……。

 東京に住みながら孤独に蝕まれてずっと引きこもっていた時も、モレスキンのノートにほぼ毎日何かを書いていた。切り抜きを貼って、持っているスタンプを押して、どうしてこの部屋からほとんど出られないのかと思いながら、こまこました字を綴っていたはずだ。二冊くらいはあったはずだ。

 でも、どれも今はもう見当たらない。捨てたことを無かったことにしようとして記憶から消したのだろうか?自分がしたはずの行動なのに、まるきり他人事のようだ。「消した」記憶の蓋が開くことがあるとすれば、それはいつだろう。その時わたしは何を思うだろう。

2020年8月1日土曜日

フェアリーサークル

    多分わたしは、多分ではなくもうずっと、処女でなくなったあの日あの時間からずっと、男の体を持って生まれ、女を抱くことができる男がずっと嫌いで、特に一夜でもベッドを共にできるような相手(というとても限定的な“男”。わたしを対等の人間として見ていない“男”。男といういきもの全てというわけではない、多分)を汚してやりたくてたまらなかったのだろうし、その相手はわたしと同等の生物ではなくて下等だと思いこみたかったのだと思う。関係を切るためにもそれを使うことがあった。最後の「贈り物」代わり。たっぷりとお土産を持たせた良い気分にしてあげるのだから、二度と関わらないで、これ以上あなたと関わるとわたしが「けがれる」。

 なぜそこまで過去に関係のあった男たちを嫌うことができるのかというと、わたしは一度も彼らに「同意」したことがなかったからだ。同意したのは、「この関係は必ず切る」と決意したもう一人のわたしだったからだ。彼らの性欲や征服欲が、まったく無価値だからだ。わたしの仕草や声の調子が全て“彼らが望む女と思われる姿を、わたしが演じていたもの”だと見抜かず、せっせと唯一の目的に向かって運動する間抜けだからだ。笑みをたたえて黙って肉に徹してくれればまだ……それはわたしが人を愛さないからだし、愛されたことがなかったからだし、愛を理解しないからかもしれない。でもそうだとしても、彼らはわたしを利用するのだからおあいこだ。もっと酷い目にあってもらってもいいくらいだとも思えてくる。だって男は男というだけで既に許されてるのだもの。女は違う。聖書でもそう。女であるだけで、いつも罰を受けているみたいだった、若い頃は特に。

 男にも女にもなりたくなかったのに、わたしを都合よく使おうとする男はいつも、わたしに女を求める。

 わたしに対して一度でも馬っ気を出した者は、表面ではそう扱わなくても、全てわたしの中で目の前で消えて欲しい人リスト入りした。この先関わることがあるとして(決してないが)、どんなに善きことを成したとしても、どんなに人のために尽くすことがあったとしても、わたしを踏んだことはかわらないから、そのリストからは外すことはない。どんなに立派になろうがどんなに落ちぶれようが、わたしと関係のあった彼らは等しく無価値だからだ。

「ぼく本当はそんな性欲ないんだよ」と言いながらいそいそとシャワーに向かう男の背中はみんな同じだった。白けきったわたしはベッドから後ろ姿に心の中で中指を立てていた。あつかましい割には貧乏性な性欲を持つ彼らは大抵マッチョではなく、けれどセックスの場面で男として扱われる事には渇望していた、とわたしは考えている。そういう望みを持つ男の、希望を、隠しきれずに沸き立った欲望を、全部めちゃくちゃにしてやりたかった。お前の欲望など価値のかけらもない、醜く滑稽な己自身が映っている鏡を、今ここでお前に見せてやりたいとどんなに望んだことか。

 まるで、自分はそれを望んだ事は一度もないが「せっかくおねだりされているのだから、してあげる」という態度をとる男たちの言う事も顔つきも、時代が変わっても出身地が違っていても年齢が上がっていっても、ほとんど一緒だった。彼らはどこで繋がっているのだろう、雨の後に現れるキノコの輪のようじゃない?

 性欲はないと既にごまかしている限定的な“彼ら”には、疲れさせられるだけ。いったい何に、誰に、申し開いているのだろう、どうして言い訳や理屈をつけるのだろう、わたしに対して?違うわね。自分自身が属しているつもりの、他の男たちに対して?きっとそう。自分自身の欲求に素直になればいいのに!認められたいのはわたしからの「あなたこそが女を抱ける男である」ではなく、女を抱く身体を持った他の男たちからの承認ではなくて?どっちみちわたしは彼らを見下すことは変わらないけれど。彼らはとてもよく似ていた。言う事もする事も手順も、後ろ姿も笑い方も。キノコのようによく似ていた。


(三年ほど前、ずっとずっと怒っていたことに気づいた時に連続投稿したツイートを、少し整えました)

2020年7月29日水曜日

欲望という名の物語

 物語を読み終わると疲労と淋しさと離人感を味わう。二重に自分の視点があるような、現実のチャネルにあっていないような。なので、深く物語に沈み込んだ後は現実に戻るまでに時間がかかる。こういう読み方はよいような気があまりしない。しかしこの読み方でしか物語を読んでこなかったので、実のところどうすればいいのか、わからないままでいる。

 良い読者ではないので(良い読者とは感想や批評を文字にすることができる人の事だと思う)、物語を読んでいる間は無意識のうちに登場人物たちの人生の、あるいっときを生きようとしているし、少なくとも物語を読んでいる間は自分の人生を生きていない。多分わたしが年齢より精神的にずっと幼いのは、なにも知能の問題だけではなく、この深く物語に沈み、自分の人生ではなく物語の他人の人生を歩んだつもりでいるからではないか、と時々思う。

 それは時にとても危険な気がしている。他人の人生を飲み込んでいるような、グロテスクさがある。

 物語を持たないわたしが、物語そのものである他人に触れたいと願うのは、とても危ないことなのだろう。おなかがすいたからパンを食べるように、自分の心の奥底に、他人を食べたいし食べたっていいんだという欲望を持っているんじゃないか。物語を好きに読むように、他人も読もうとしているんじゃないか。他人というのは別に人間に限らない。星や月についてもそう。

2020年7月23日木曜日

神様を待ちながら

 ずっと子供の頃から、名前のない「神様」のような完全な存在を夢見ていたように思う。そしてその「神様」さえわたしを見つけてくれたら、わたしの「場に馴染めない/物事に向かい合うことを避ける/何事も取り掛かることが遅いetc……」という不具合も、まとめて愛してもらえるのではないかと思っていたのだと思う。画像はわたし自身の「神様のような他人」についての願望。
 けれど、生身の人間に対しての崇拝はとても強い力が働くので、大抵わたしの方が根を上げてしまうし、関係をシャットダウンされる事を望んだ。時にはそうでなく嫌いになる事もあったが、概ね関係は途切れたのだから願いは叶ったことになる。呪いのようなものではないか?あまりにも自身の願いが強すぎて、呪いが跳ね返ってしまったような気もしてくる。
 生身の人間は神様になることはできないのに、それでもその人の中に神様を探そうとして、わたしはその人を好きになったんだと今なら思う。そこにはいつも、その人(たち)はいなくて、わたしはずっと「神様」と名付けた完全体のわたしを探していたんじゃないだろうか。いつか、誰かが言っていた「人は完全な球体になるために相手を探す」という言葉を都合よくねじ曲げるように、完全な「わたし」になるために人を探していたのではないだろうか。それはなんて淋しく、悲しいことだろう。愛することひとつも知らないままに、ただただ呑み込める相手をふらふらと探し求めていたなんて。存在しない「神様」に出会う日をずっと待っていたなんて。





2020年7月16日木曜日

痛み/夏

 初めて殴られた日は、まだ安定期に入る前だった。わたしは不安だった。一人で京都から東京へ越して、一人で部屋を借りていた。彼はそこに週に何日かは来てくれて、過ごしていくというスタイルを続けていた。そうなる前にも何回かは喧嘩をしていた。雪の降る中に「あなたには帰る家があるんだからここから出ていってくれ」と言ったこともあった。彼は頭を冷やすために帰っていったから、その日もそうなるんじゃないだろうかという予想をしていた。その予想は甘かったことは後から分かった。

 何がきっかけだったか……彼はまだ法科大学院生だった。わたしは彼を応援していたし、サポートも出来ることはなんでもしようと思っていたし、彼が望むものをもしわたしが提供できるなら、ある程度まではそうしようとずっと思っていた。ずっと一緒にいたい人だったから、わたしも彼も五分五分でいるつもりだった。だから彼が望んだ「赤ん坊」をわたしは妊娠した。

 一人ぼっちだった。東京に知り合いもおらず、紹介される人はみな彼の友達、彼のつながりのある人ばかりで、心から信頼できる人もいなかった、彼でさえそうではなかった。なのに、わたしは妊娠してしまった。本当ならそうするべきではなかったのだと思う。不安が強いのに妊娠してからわたしは倍以上に不安がった。もしも胎児に何かあったらどうしていいかわからないし、不安を抑えるための薬は全て、妊娠がわかった時に医者と相談してやめたので、何もわたしを止めるものがない。あまりにも不安で、あまりにも怖くて、わたしは言ってはいけない一言をつい漏らしてしまった。

「堕胎したい、こんな不安な妊娠はもう続けたくない」

 次の瞬間、わたしは吹っ飛び、冷蔵庫にぶち当たった。彼の平手がわたしの側頭部に振り下ろされた反動だった。冷たいフローリングで(冬だったし一階のワンルームだったので、隅の方はとにかく冷えていた)わたしは呆然と彼の顔を見ていた。彼の言葉は驚きと衝撃でほとんど聞き取れず、ぼうぼうとしていた(のちにあまりに聞こえが悪いので耳鼻科へ行くと、鼓膜が破れていた)。彼は怒りと悲しみ、被害感情に塗れた顔をしていたようにも思うし、そうでなかったかもしれない。塗りつぶしたように彼はわたしの記憶の中でいなくなってしまう。

 二度目に殴られたのはお腹がふっくらと丸くなってきた頃だっただろうか。一緒に暮らすわけでもなく、籍を入れるかどうか伸ばし伸ばしにしていた頃じゃないだろうか。検診にもずっとほとんど一人で行っていた。彼は授業時間がタイトで学校も少し離れていたから、忙しかったしわたしも長時間の待合室で人を待たせたくなかった。実体があるのだとわたし自身にも言い聞かせるように、写真だけはこまめに見せていた。お腹が大きくなり始めたので、よろよろと歩いて検診に行っていた頃、やっぱり不安でたまらなかった。何も約束されていない未来を絶望したのが間違っていたのだろうか?あの時何を言って彼が激昂したのかは覚えていない。次の瞬間は、わたしの腹の上に彼が馬乗りになって平手で殴っていたから。その時は彼の母親を呼び、わたしは産婦人科で診察を受けたと思う。幸いなことに胎児に異常は全くなかったから、ある程度の力加減はしていたのではないだろうか。その前後に、やっと婚姻届を出すことにしたのだった。彼は……喜んでいたように思う。喜んでいたのだろう、彼の望むことが紆余曲折を経ながらでも少しずつ形になっていた。わたしは彼の思う通りの人間ではなかったから、彼の思いと実際の形はじわじわとずれてはいたとは思うけれど……。線が重なり合わずほんのわずかなズレがあると、その線が延びていった先で大きく角度が開いてしまう。本当に少しずつ、確実にわたしたちはずれていった。重なる時が来るとしたら、どちからがぐにゃりと曲がる時……いや来るのだろうかとぼんやりと思っていた。

 三度目はどうだっただろう、産後長々と実家の世話になり、「帰宅」した時だっただろうか。彼にはあちこちに頭を下げてもらって、お金をかき集めて借りた部屋に帰宅した頃(家財道具はすべてわたしが使っていたものばかりだった、だから彼が借りたのは実質部屋という枠だった)のことだっただろうか。まだ離乳食も始めていなかった頃だっただろうか。何がきっかけで、どんな殴られ方をしたのか、ここはどうにも曖昧だが、初めて警察を呼んだことは覚えている。だから多分、赤ん坊を背負っていた時だったんじゃないだろうか。警察署で話を聞かれながら「どうしますか」と問われ「帰ります」と答えたんだと思う。彼には警察官から少しでも小言を言われたのだろうか。そのあたりはまったく記憶に残っていない。どこへ帰ればいいんだとぼんやり考えていたことは思い出せるが、それ以外はわからないままだ。産後二十日目であまりの痛みに胃カメラまで飲んだ胃が、また痛み始めていた。

 その後、わたしたちはやっぱり今のままでは暮らせないと遅い決断を下し、部屋を解約してわたしは子供を連れて地元に戻った。彼は駅で、新幹線の扉の前で、発車するまで顔をくしゃくしゃにして泣いていたのを憶えている。わたしはやっとほっとして「帰宅」した。荷解きもあったし離乳食や検診なども控えていたので目まぐるしく、忙しくしていた。何度か彼はお金がないなりに地元に来てはくれた(帰りの切符は、わたしが買った)、ほんの少し滞在し、また「帰って」いっていた。その頃はなんとかわたしなりに、彼なりに模索していたと思う。どうやって暮らしていくか、彼にはプレッシャーばかりかかっていたのだろうし、わたしはわたしで、子供を死なせずに大きくさせないとということばかりを考えていたのだから、二度と重ならない二つの直線はどんどん角度を広げていた。

 夏だっただろうか。彼が地元に来た時、わたしは言ってはいけない(だろう)一言で彼を怒らせた。彼の顔は般若や阿修羅像のように目を見開き、歪め、これ以上ないくらい逆上していた。子供が盾にならないように、でも連れて行かれないようにと変な格好で庇っていたからだろう、何度も殴られ、腰に、背中に、目の周りに青痣を作った顔は思っているより痛みは少なかった。彼は拳ではなく平手で殴っていたから。彼には夢があったから。彼は……わたしは子供を抱いたまま家を飛び出し、近所の人に通報してもらい、警察にいったん保護された。彼は拘置所へ連れて行かれた。拘置所から来た分厚い手紙には、自分を擁護するようなことが書かれていたと思う。今もまだ持っているが、開くことはできない。多分二度と。結局起訴猶予となり、彼は彼の地元へ戻っていった。彼の友人が何度かわたしと連絡を取ろうとしていたが、わたしはそのどれも断った。そしてわたしは、また一人になった。誰にも相談できず、全てわたしが判断して、最良でなくても最善でなくても、選ばなくてはならなくなった。ひどく心細く、ひどく悲しく、でも肩の荷が降りたような(本当は肩の荷が増えたのだけれど、興奮していたのだと思う)、少しせいせいとした気持ちも、やっぱり味わっていた。

 その後、彼は夢を叶えた。わたしはなんの才覚も資格も全くないまま、子育てを始め、あの時の赤ん坊はもうすぐ十二歳になる。彼は立派に仕事をしているようで、取り決めた月々の養育費も滞ったことはない。年に二回は必ずメッセージと贈り物が届くし、折々のメッセージも昔のように……会った頃と同じように紳士的だ。夏を超え冬を超え、子供はすっかり赤ん坊ではなくなったが、わたしはそれでも怯えている。わたしの中のわたし、彼の中の彼を子供は内包している。どうか生きやすく育ってほしいと思うたびに、彼の顔を子供の中に見る時もある。錯覚であればいい、でも、わたしにはわからない。わたしは彼の顔を子供の顔の中に見つける時、仕草の中に彼を見つける時、この先増えていくだろう。彼に子供を会わせた時、わたしの判断や決断が間違っていたのだと子供に思わせたくないというのは、わがままだろうか?今でも何度となく思う、わたしがクズだったからだろうか、わたしが間違っていたのかと。でもその都度、どんなことがあっても、暴力をふるってはいけなかった、わたしが彼の思った通りの人間でなかったとしても、彼はわたしを殴っていいなんてことは絶対にない。その点では彼は絶対に間違っていたと思い直す。わたしはあのことがあってからずいぶん臆病になった。人を愛することは出来ない、親切にすることが精一杯だろう。それでも大事にしたい人は何人かいる。何度夏を迎えても、迎えるたびにわたしは思い出すだろう。

2020年1月20日月曜日

ゴーストになる時

 自分が幼稚園や学校にいた頃、別にみんなと仲良くしたくなかった。わたしはわたしの世界が大事だった。髪が長かったので触られたり、筆箱を見られたりする(それが仲の良いもの同士の仕草だった)のは嫌だった。でも、当時の学校では「クラスメイトは仲良くする」事が当たり前だったので、なにも言わず黙って従った。

 黙っていた方が追い出されもせず仲良くしている風に見えると理解したのはいつ頃からだっただろう。それで乗り切れたのは中学までで、何故なら小中学校の規模が小さく見知った顔の中で約十年過ごすからで、わたしは言葉少なく若干内弁慶でもそういう者として見過ごされてきたからだ。それが通用しなくなったのは、公立高校に進学したとき。

 公立高校ではいくつもの中学から生徒が集まり、入学した途端にクラスではコロニーが出来上がっていた。黙っていればいない者になる場所で、早々とその「いない者」という冠を「いただいた」時に、「クラスメイトは仲良くする」なんて、わたし以外の誰かにだけ都合のいい魔法の言葉だとわかった。

 この事を少しでも漏らすとよく勘違いされるのだが、「自分から仲良くなろうとしなかったんでしょ」と言われる。そうではなく、早々とレッテルを貼った者たちはそれを剥がして貼りなおすことはしない。だって既に貼ったもので十分見分けがつくし、排除する候補にあげる時、都合よく使いたい時に便利だから。

 喋る必要がないから黙りがちだったし、騒々しいクラスの中でシャットダウンする事もしばしばあったわたしは、クラスの中のエアポケット、備品、いるけどいない、いないけどいる亡霊になった。

 この世界は、馴染めさえすればその過剰さも心地よい刺激に溢れた世界なのだろうけれど、亡霊には色も、音も、光も過剰すぎる。とにかくいつも人がいて、会話するのが当たり前過ぎて、いきぐるしい。どこかほんとうに、砂漠のプスティニアのような場所で、一人立っていたい。光の中に行けなくてもいい、静かな場所で亡霊の生を全うしたい。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...