2023年4月26日水曜日

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではなかった。もう花を摘んでただ楽しいと思うには大きくなり過ぎていた。


カーナビなどその頃はなかったから、父が運転、母は助手席でナビ、わたしは運転席の真裏、弟はその隣に乗り、まあまあの距離を走った。母は父に気を使って、また子供たちがそれなりに楽しめるようには気を遣ってくれたように思う。父も我慢強くそれに付き合っていたし、少なくとも家に帰るまではよそ行きの、機嫌の良い父親でいてくれた、怒られたりつまらなさそうな態度は出さなかったから。よく晴れた休日で、窓を全開にしていた(と思う)のでひどい車酔いもせずに済んだ。


その日は半袖のワンピースでも汗ばむほどだったのを覚えている。れんげ畑のイベントは近隣の人たちが入れ替わり立ち替わり、でも広いものだから混み合いもせず、れんげを摘んだり、アナログのコンパクトカメラで写真を撮ったり、れんげ畑で作った米を使ったカレーライスなどを食べていたように思う。


もう既に、れんげにはしゃぐ歳でもないわたしは何もかもが気恥ずかしかったし、無料で振舞われるカレーライスを食べるのも本当に気が進まなかったが、母が計画して父が遂行したこと、それからその町の人がイベントを実行したことそのものにせめて、「子供が喜ぶさま」を見せたかった。それに何の意味がないとしても、この時間を丸ごと摘むのがわたしの使命のように思い、母とれんげをいくつか摘み、持ち帰ったのだった。


手の中で汗まみれになったれんげの茎は湿っぽく、はやばやと萎れ始めて、一刻も早く捨てたかった。なのに帰り道、車窓から投げ捨てるのがしのびなかった。その日の時間を丸ごと、母や父、町の人たちの前で捨てるようで……だから多分、車内に忘れたふりをして、車を降りて家に入ったのだと思う。摘んだそばから色褪せたれんげは母が集めて捨てたのだろう。眩しい春の光のこと、萎れてくちゃくちゃになった数本のれんげのことを、三好達治の「いにしへの日は」を読むと思い出し、胸の奥の届かない場所が痒くなるのだった。


「ははそはのははもそのこも/はるののにあそぶあそびを/ふたたびはせず」

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