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2024年5月18日土曜日

滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がしっかりあって行動している。わたしは長女だからOちゃんの行動が少しうらやましく、同時にOちゃんがなにを思いついてなにをするのかわくわくしている。


この本を読んでいてなんとなく昔のことを考えていた。ぼんやりとした記憶のなかで思い出したことがある。子供のころ、電気を消された部屋では字が見えなかったから、まだ起きているのがわかると怒られるから、でも続きが読みたくて布団の中で懐中電灯をつけて読み続けていた。気まぐれに与えられた本でも、本であれば、文字が読めればそれでよかった。


何度も怒られて、それでも何度も繰り返した。ベッドと机だけが自分のもので父の箪笥がドンと置いてある部屋を与えられてからもそれは続いた。他人の箪笥が置いてあるということは、他人が自由に出入りできるということだ。わたしはいつ入られるかひやひやしながら(だってノックもされないのよ!)、家鳴りにびくびくしながらベッドについている小さいあかりで本を読み続けた。


毎日峠道を超えて学校に行っていたので、登下校の時間がほんとうに無駄だと思っていた。ひとりで帰るならわたしに戻る時間ができてそれはよかったのだけれど、そうでないときはずっと「わたし」でいなきゃならない。その分、家で「わたし」からわたしに戻る時間が必要だったから、本を読む時間が足りなかった。


寝る時間が惜しかったし、寝るのが怖かった。寝つきの悪いこどもだったしそれも特性だったのだと思う。ブツっと途切れるようにしか眠りにつけなかったから、読み続けて体力の限界がきて始めて眠りに落ちた。「電気つけっぱなし!」と毎朝怒られたが、それでもやめられなかった。別の人生が面白すぎて。


でも今よりもっと、純粋に別の人生を生きる(それはわたしにとって本を、物語を読むことだった。映画がそうだったひともいるだろうし、創作がそうだったひともいるだろう)ことが楽しかった。一生わたしではない別の人生は歩めないと知る由もなかったころ、世界は小さくて、全てがわたしの手のひらの上にあった。


子供のころって(わたしは田舎生まれ田舎育ちだし、自由にどこにも行けなかったから)世界が本当に小さくて、物語と違って、なんてつまんないんだろう!とよく思っていた。だからこそわたしの王国があったわけだけれど(もちろん今もある、年齢と投薬でずいぶんと小さい国になったとはいえ)、今でもわくわくする本があるから、まだこの王国は大丈夫かもしれない。

2023年4月26日水曜日

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではなかった。もう花を摘んでただ楽しいと思うには大きくなり過ぎていた。


カーナビなどその頃はなかったから、父が運転、母は助手席でナビ、わたしは運転席の真裏、弟はその隣に乗り、まあまあの距離を走った。母は父に気を使って、また子供たちがそれなりに楽しめるようには気を遣ってくれたように思う。父も我慢強くそれに付き合っていたし、少なくとも家に帰るまではよそ行きの、機嫌の良い父親でいてくれた、怒られたりつまらなさそうな態度は出さなかったから。よく晴れた休日で、窓を全開にしていた(と思う)のでひどい車酔いもせずに済んだ。


その日は半袖のワンピースでも汗ばむほどだったのを覚えている。れんげ畑のイベントは近隣の人たちが入れ替わり立ち替わり、でも広いものだから混み合いもせず、れんげを摘んだり、アナログのコンパクトカメラで写真を撮ったり、れんげ畑で作った米を使ったカレーライスなどを食べていたように思う。


もう既に、れんげにはしゃぐ歳でもないわたしは何もかもが気恥ずかしかったし、無料で振舞われるカレーライスを食べるのも本当に気が進まなかったが、母が計画して父が遂行したこと、それからその町の人がイベントを実行したことそのものにせめて、「子供が喜ぶさま」を見せたかった。それに何の意味がないとしても、この時間を丸ごと摘むのがわたしの使命のように思い、母とれんげをいくつか摘み、持ち帰ったのだった。


手の中で汗まみれになったれんげの茎は湿っぽく、はやばやと萎れ始めて、一刻も早く捨てたかった。なのに帰り道、車窓から投げ捨てるのがしのびなかった。その日の時間を丸ごと、母や父、町の人たちの前で捨てるようで……だから多分、車内に忘れたふりをして、車を降りて家に入ったのだと思う。摘んだそばから色褪せたれんげは母が集めて捨てたのだろう。眩しい春の光のこと、萎れてくちゃくちゃになった数本のれんげのことを、三好達治の「いにしへの日は」を読むと思い出し、胸の奥の届かない場所が痒くなるのだった。


「ははそはのははもそのこも/はるののにあそぶあそびを/ふたたびはせず」

2023年4月12日水曜日

四月の靄、図書室

わたしが通っていた小学校は、母も同じ校舎にいたことがある木造だった。中学年に上がった頃に建替が終わったが、もともと図書室は木造校舎の方にあった。階段の手すりは幾千の小学生が滑り降り、また登る時に使ったために滑らかでうっすら光ってさえいた。二階の踊り場から向かって左にあったと思う。


図書室は絨毯敷きだった。当時は生徒の数が多かったので図書室に行ってもいい時は限られていたが、教師が許可した時と休み時間に図書室で本を借りることができた、と思う。本を借りるためにはまず代本板を持って行かなければならない。ただの木の板で学年ごとに決められたビニールテープの上にマジックで、クラスと名前が書いてあるだけのもの。繰り返し使われてきたので年季が入っているものばかりだった。その代本板を借りたい本のある場所にさして目当ての本を抜く。貸出方法はニューアーク式だったのではないか。最初に使い方を教わったらひとりで本を選ぶ。代本板を書架にさしたら、本の見返しに付いているブックポケットからカードを抜き、学年、クラス、名前を記入する。自分の貸出カードには借りた本のタイトルと借りた日付を記入して本を持ち出す。返す時に本に貼ってあった返却期限票にデータ印を押してくれたのは図書委員だった気もする。本を書架から抜いた時と同様に返本はそれぞれで行い、代本板を回収して本を書架に戻す。


入り口そばにはカウンター的な場所があり、そこにクラスごとに貸出カードがまとめて置いてあったはずだ。自分でカードを探してタイトルを書き込んだことをおぼえている。閲覧席もあったはずだが、いつもそこはふさがっており、ほとんど座れたことはなかった。絨毯敷きだから地べたに座って借りた本を読んだり、こそこそと会話をしたと思う。


腰壁があって、木造の窓枠には曇ったガラスがはまっていた。元は透明だったのかもしれないが、長い年月のうちに薄く曇ってしまったのだろう。その窓から、雪の降る前の白い空を見ていたことを思い出す。ストーブの上には水を張った金盥が置いてありいつも湯気が立っていて加湿器を兼ねていた。教室に置いてある方のストーブで、上履きのゴムを溶かしたり、金盥にかき集めた雪を投入するのはいつも男子だった。


(学校にあった暖房器具と言えば煙突がついている石油ストーブで、タンクの油をストーブに流して、ストーブ本体のスイッチを入れ、擦ったマッチを落としてストーブに火をつけるのよ!高学年になったら低学年の教室のストーブ当番をするの。それまではマッチは禁止。油を運ぶのも高学年だけがする。)


あの頃に借りた本よりも、本のある周りの風景ごと、まだ、おぼえている。ポプラ社の少年探偵団シリーズ、マガーク探偵団シリーズ、ルブランのルパン、それから一番のお気に入りだった、福音館のアリス。あの頃に帰りたいとは思わない、でも記憶は絶対にその時のままに残しておきたい。今でも褪せることのない図書室の思い出。今はもうない図書室の。きっと思っているよりずっと狭くて窮屈な図書室だと思うけれど、記憶の中にある限り、伸び縮みして自由な広さになるだろう。

2023年2月7日火曜日

おとなのためのやさしい童話

風呂でブラッドベリの『歌おう、感電するほどの喜びを!』を少しずつ読んでいる。


ブラッドベリは本屋の平台に──多分四条のジュンク堂か三条のブックファーストか──あった新潮文庫の『ふたりがここにいる不思議』が初めてだ。それははっきり覚えている。あの時はまだ三十路にはまだ遠く、でも二十歳はとうに過ぎていた。その後「再会」したのは、確かチョコレートについてのアンソロジーの中ではなかったか。そのアンソロジーの中では「板チョコ一枚おみやげです!」が紹介されていたはずだ。青年と神父が告解室で交わす会話で物語が進む。板チョコはその物語の中で第三の登場人物のような位置にある(と、思っている)。二度も偶然があればそれは完璧な出会いなのだと思う。運命のようなもので逃れられるはずはない。


以来ことあるごとに、例えば十月には『10月はたそがれの国』を読むように、繰り返し出会う対象ではあったが、それが心から待ち遠しくてしていることなのか習慣としてそうしているのか、だんだんと曖昧になってしまっていた。それでも図書館の書架に未読のブラッドベリがあれば借りるし文庫本があればやはり買って読まずにはいられない、心のどこか一部分をキュ、と細い糸で縛られているかのように、ふらふらとその糸のようなものを辿らずにはいられないのだった。


最近新しく買ったそれはサンリオSF文庫を全て紹介していたブックリストに紹介されていたもので、児童文学作家で翻訳家でもある故・今江祥智が翻訳したこともあるという。知っている名前がふたつもある!と小躍りしたがとうの今江氏翻訳のものが他の自治体の図書館を含め見つけられず、別の訳者のもの。けれど初めてブラッドベリの短編集を開いた時のような、ささやかだが確かに何かのスイッチが押されたような、遠くで扉が開いたような、「音がした」のだった。


ところで蛇足のように付け加えておくと、表題作「歌おう、感電するほどの喜びを!」には母を亡くした三兄妹の家に、ロボット(つまりAIが搭載されているのだろうか?)のおばあさんがやって来る。なんでも出来て遊びも上手いが主人公の少年の妹はなかなかおはあさんを受け入れることができない。ロボットのおばあさんと人間である彼らの交流を時におかしく、時にノスタルジーをふんだんに織り込んだ筆致で描いている。

2022年9月3日土曜日

青銅の魔人

 食事をするのが苦手だ。どんな他人と食べてもそう思うのだから、これはもう根本的に苦手で下手なのだと思う。好きな人と食べると美味しい、というのもあまりぴんと来なくて、できれば食事抜きで接したいと思ってきたし、昔は食べなくても呑んでいたからそれで誤魔化すことができた。でももう呑まないのでその手段も使えない。特に地方に住むと交通手段が車に限られてくるので(家の一番近くにあるバス停は行き先が二つあるが、どちらも日に三本、太陽が沈むよりずっと前に最終バスが出て行く)、呑めば代行が必要になる。代行を頼み到着するのを待って鍵を託す。それが果てしなく面倒だと思っているし、面倒だと思う回数が増えたこともあり、呑まなくなった。

 お皿に料理が盛られてサーブされるその時まで、わたしは食べる気満々でいる。食感と変化に弱いので既知の味だと確信できる、安心なもの・三分の二は食べられるものを選ぶようにしているが、目の前に皿が置かれた瞬間にぐったりしてしまう、これを食べなければならない、ということに。

 「食事を残すのはいけないこと」「頑張って全部食べるべきもの」という圧力は小学一年生の最初の給食の日、いきなりわたしを押しつぶした。不意打ちにも近かった。カトリック系幼稚園に通っていた頃の給食はパンとミルクだけで、食べられなくても先生は一つも怒らなかったのに、学校に通い始めたらいきなりナフキンの上に何種類も器が並び、それぞれにたっぷりと盛られた給食は、どんなことがあっても食べきるべきものと決められていた。食べられないでぐずぐずしていると教師は絶対に食べさせようとでも思っているのか躍起になって、いつまでも片付けさせない。廊下や教室では無理やり詰め込んでえずいている子もいたのに、それは教師には見えないらしい。わたしは給食にまつわる何もかもが嫌だった。食べられないと申告してもたっぷりと盛り付け、残せば「アフリカでは食べられないで死んでいく子供だっている」と子供の罪悪感を最大限に利用した。毎日飽きずに掃除時間になっても食器を下げに行かせない教師と、絶対に食べたくないわたしとの我慢比べ。周りからは「食べさえすればいいのに」という無言の圧力、それを六年。苦手になるには十分な時間だと思う。

 その後わたしは急に食べられなくなり、長い摂食障害との付き合いが始まった。今でもそれは形を変えてわたしの「食卓」に影を落としている。人生のほとんどの食事の時間を、わたしは「恐ろしくて気分が悪くなる時間」として生きている。安心して食事ができる、または安心した相手と食事ができるなんて、夢物語だと今でも思うし、そんな時間は多分わたしには来ないかもしれない。稀にはあるけれど、それはまだ日常ではなく非日常なものとして別の思い出になっている。食べることは生きること。わたしは少し、生きることから遠ざかっている。だから、自分で料理をして楽しく食べている人のことが好きだ。その人たちは生きること(食べること)の楽しみを知っている。そして時々それはわたしにもあり得るかもしれないと希望も湧くからだ。わたしも生きてみたいのだ。

2022年8月30日火曜日

マジックアワー

 久しぶりに日記の投稿エディタを開いた。昔は毎日(毎晩)のようにエディタを開いてはせっせと更新していたというのに、空いた時間はぼんやりと「やり過ごす」為にTwitterなどに費やされて、買ったり借りたはいいが読めなくて途中でやめてしまう本も増えた。昔は、「本があればどこへでも行ける」と本気で信じていた。でも最近は疑うことが増えた。本があっても、どこへも行けない者はまったく、どこへも行けない。留まることもできない、ただ景色がものすごく速いスピードで過ぎ去っていくのを眺めるのみ。そんなふうに思う。


 十年弱、身分上はパート、社内派遣社員、契約社員からの無期雇用契約社員という形で続けていた仕事は会社都合で退職となり、事務員ではなくなった。もともと町にある大きな工場に頼った仕事なので、元請会社が仕事を絞る(受注がなくなる)と、その下請であるわたしが在籍していた事務所など、風の前の塵に同じ。まず職人が減っていき、それから事務所が空くようになった工場は、わたしがいた最後の頃はとても静かだった。ひっきりなしに人が入ってくる為に常に開け放たれていた事務所の扉は、訪れる人がいない為に閉じることになった。コーヒーやお土産でもらった茶菓子をせびりにやってくる元請会社の偉そうな社員も来なくなったので、大きなポットに湯を沸かしておく必要も無くなった。処理する交際費や雑費も感染症対策としてかなり減っていたし、職人さんのお弁当の支払いに小銭を準備することも無くなった。職人さんが出張に出る機会が増え、詰所からは聞こえてくる声が減った。ずっと鉄が叩かれる音やクレーンの運転メロディ(「おおきなくりのきのしたで」だ)が風に流れて事務所に聞こえていたのが徐々に減り、溶接工場の隙間から漏れる火花も少しずつ消えてある日突然、薄暗く静かになったことに気がついた。空が広くなり、道が広くなった。フォークリフトももう走らない。だから別の仕事をしている。

 昔からの憧れだった仕事で有期ではあるが(つまり官制ワーキングプアのようなもの)、一生のうちに今しかないと思って飛び込んだ。結果よくわからない状況に毎日いる。「仕事をする」ではなく「仕事に振り回される」。そういう毎日を送っている。とはいえ今現在わたしはこどもともどもコロナ陽性になっており、必ず一度は不安に思うだろうことにやっぱり不安を感じて、じっと部屋で時が過ぎるのを待っている。夏の最後に鬼に捕まってしまった、どんくさいこどものような、そして誰もタッチをしに来てはくれないだろうなとわかっていながらも待ってしまう、あの嫌な気持ちでずっと過ごしている。匂いも味もなくなってしまったので、食が細くなってしまい痩せた。

 夏の真っ盛りの頃、ここにはもう少し違ったことを書いて残しておこうと思っていた。春に出かけた場所のことや、それより以前の、泣いて暮らしていた頃のこと、そういうことを残しておきたかった。でも、それはやっぱり今もできないでいる。昔の日記のように無邪気にキーが叩けなくなった。いいこともそうでないことも、書けなくなった。書いたら消えてしまうような、そういう些細な日常のことだから、より一層わたしには魔法の時間めいていて、一つでも漏らしてしまうとその時間ごと消えて無くなってしまうようで、怖いのだ。今は毎日、一粒も取りこぼさないように針先でビーズを掬うように、どうか繋がって、と今日をつなげている。毎日繋いだその「今日」が未来にどんなものになるかはわからない。恐ろしいものになるかもしれない。でも今はただ、それを掬うことしかできないからする。わたしは明日が怖い。今日と違う明日が恐ろしい。同じことを繰り返しても同じ結果になるかわからない明日が怖くてたまらない。ああどうか、今、羊羹をすうっと切るようにこの時間ごと世界を消してと、眠る前に思う。眠りたくもないし起きていたくもない、なのに今日を延長することができない。そういうあわいの時間にずっといる。

2022年3月15日火曜日

星の響きのストラテラ

 薬を飲むようになってから、わたしを苛む強い劣等感から半分ほど解放された。ずっと頭の中はうるさかった(世界はうるさく気を散らせるほど眩しく、時に信じられないほど素晴らしく没入させ、最高で最悪だった)。それに、孤独はわたしのいい友だったことに気づいた。一人でいてもびくびくしなくなったから。

 レンタルの延滞をしなくて済むし、片付けようと思いついきながら何もできないままで夜を迎えない。何かを探す時に部屋を丸ごとひっくり返すような大騒ぎをしなくて済むようになった。手からものが消えなくなった。それはものとして手にきちんと握られている。すべき事としなくていい事について頭に整頓用の小箱ができた。誰でも持っているらしいが、わたしの小箱はどうもひと種類しかなかったように思う。完全に区分が出来るようになったわけではないが、それらの困りごとは一応「性格」の範囲内に収まったように思う。

 でも、落ち着いて世界を見渡した時……あれほどうるさく迫ってきていた世界は凪ぎ、積むだけ積んだ高くやかましい理想は音を立てずに静かに崩れた。餌をねだる雛のようだったわたしの欲はそれなりに満たされたのか、囀るのを止めた。煌めきを持っていた何もかもから鮮やかさが薄れた。

 とても寂しいと思う。何もかもが欲しかった頃に時々戻りたくなる。どっちみち何も手にすることはできないけれど、深い憧れを持って目に映る全てのものを見ていたあの頃を懐かしく思う。手放したものは輝かしい、いつだってそれは本当。アリスが次々と摘んだニオイイグサと同じだ。遠くにあるニオイイグサの方が、今摘んだニオイイグサより美しく揺れるのと同じ。決して手に入らないのに、それでも望むことを諦めず追える。そういう心というかまなこというか、感知する部分に薄い雲がかかるような、そういう薬をそれでもわたしは選んだ。その方が生きていくのに楽だから。より視力に合った眼鏡を選ぶように、より運転しやすい車を選ぶように(何故ならここは大人一人に一台車がないと、身動きできない田舎町だからだ)、ストラテラを選んだ。

 星の響きに似た薬を、わたしは毎日限度いっぱい飲む。その度に星の響きは拡散して、柔らかい羽二重の着物のようにわたしを守る。身体から魂だけが飛び出していかないように、粉々に砕け散らないように、もし飛び出しても戻ってこれるように。これは帰り道を見失わないための光る石。

2022年3月6日日曜日

エメラルドの都

 「図書館に何かはある」という期待というか安心感というものは、司書課程をとるまでは全くなかった。「図書館は本を貸してくれるらしい・宿題をするテーブルもあるらしい」程度で、子供の頃はほとんど、母の都合もあったから利用することはできなかったから、まったく何も思っていなかった。

 産後にこの町に出戻った時に、諸々の手続きを終えた後に向かったのは、利用者カードを作るためのカウンターだった。もしかしたら娘を連れて親子で本を借りる日が来るかもしれない(できればそうなってほしい)と思ったから。

 娘がある学年に上がった時、「調べ物学習」が宿題にプラスされるようになった。テーマを決めて模造紙に調べた成果を見やすくわかりやすく書き出すという宿題で、娘の興味というか宿題に使えそうな資料を全く持っていないわたしは、慌てて週末に娘を連れて図書館に駆け込んだのだった。

 とりあえずは辞典で調べてみて、検索機の示した分類番号からあたりをつけて児童向けの棚を探したが、数が多かったり逆に一切ないという事もあり、自力では時間がかかり過ぎる。この調べ物の宿題は順番に回ってくる(しかも複数回)と聞いていたので、平日の昼間を資料探しに使えないわたしは週末を待って、娘を連れてカウンターに相談に行った。この図書館のカウンターでは、司書課程の課題でもお世話になったのだけど、ぼんやりとした、子供の頭の中のテーマをスッと汲み取り、「これとこれとこれはどうでしょう」「これも関連ありますね」と資料を出してくれた司書さんにはずいぶん助けていただいた。

 わたしが「そうなってほしい」と思うほどには、娘は本に興味がない。それはそれでかまわないのだけど、なんでもネットで調べたら出てくると思っているところはちょっと危ういのかもしれないと時々思う。でもわたしも大学に入るまでは図書館のことを建物としてしか認識していなかったから、今は何も言わないでおこうと思っている。

2021年8月10日火曜日

書くこと、書かないこと、或いは煙草の効能について

 今年の五月はある人と別れて十七回目の五月だった。節目のような切りのいい年ではない。でも、もうそろそろやめなくてはならないとずっと思っていた事がわたしにはあった。ある人との思い出をどのような形であれ書くことは、わたしにとっては記憶の補強だとずっと思っていたが、本当はそうではなかったことに、気づいていながら目を背けていたからだ。記憶の補強のつもりで、記憶のオリジナルテープに何度も映像を録画し続け、オリジナルの記憶にノイズを混じらせる行為だった、と今では思う。いや、それには十年前には気づいていたと思う。何故なら古いTwitterのログにそれ──「記憶のオリジナルテープ」や「繰り返しダビングを続けたノイズ混じりの記憶」──について書いていたことがあるからだ。

 ある人の事を書かないと決めるのは、ある人との永遠の別れにこだわり続けていたわたしにとっては、とても難しい事だった。だらだらとウェブ日記で……Twitterで……何かしら彼にまつわるわたしの記憶を書き続けていたからだ。それをもう行わないのは禁煙に等しいほど、それほど「彼の思い出を語ること」に依存していたと思う。わたしは人と深く知り合うことを嫌っていたから、それでも自分の、みっともない意地、プライドの切れ端のような壁を超えてきた人はとても少なかったから、彼との思い出に浸ることがわたしの孤独を癒してくれたからだ。

 喫煙は薬物による依存症であって、何かの手助けなしに達成し続けることは難しい。ふとした時、ほんの一本吸いたい、一本なら大丈夫、だってわたしはいつだって禁煙を始めることができるのだからと心が揺らぎ、一本の煙草に火をつけてゆっくりと煙をふかす。口中にまろやかに広がっていく煙は鼻腔を突き抜けて脳天へ達する。その快感たるや!ニコチンのみが与えることができる快楽。そして一箱全て吸い切ってしまうのだ。そのスピードは本数が進むほど速くなる。煙草はわたしにとっていつも慰めだった。長い夜を一人で過ごすための友でもあった。それは全て錯覚、依存が見せる優しい夢でしかなかったが、それに縋りたくなるほどには、わたしは孤独だった。彼を失った後のわたしにとって彼との思い出は、喫煙を上回るほどに孤独を癒やし、またそれを加速させた。孤独ではない状態がどんなものだったのか、回想に浸りきったわたしにはもう思い出せなかった。

 今読んでいるナタリー・ゴールドバーグの『書ける人になる!』には、「物書きは結局、自分のこだわりについて書くことになるものだ。自分にまとわりついて離れないこと、どうしても忘れられないこと、自分の中にあって解き放たれるのを待っている物語……。(中略)また、大きなこだわりにはパワーがある。文章を書いているうちに、あなたは何度も何度もそこに戻ってくる。」とある。

 でも、そこまでこだわるにはわたしと彼は遠いのだ、きょうだいでもない、幼馴染でもない、ごく短い青春のいっときを過ごしただけの恋人……こだわるには彼とわたしは無縁すぎるのだ。どれだけ彼との思い出に立ち戻ってしまうとしても、もう書けないのだ。わたしが彼との思い出に縋る時、記憶を書こうとする時、それは彼を消費することと同じだからだ。彼の思い出にこだわり続けることが逆にわたしを何も書けなくさせているのかもしれない。書いてはいけないような気がしながら、罪悪感を常に持ちながら、「これ以上は彼を消費していることと変わりがないのだ」と自分を軽蔑しながら書くことに、どんな意味があるのだろう。だったら既にやめた喫煙を再開して、鈍る思考を首の上に乗せて、ただ時を消費している方がずっとましな気がする。だって書くことはもう一度人生のいっときを過ごす事だから、わたしは思い出すことで何度も彼を「うしなう」。これ以上は失い続けたくない。

 手許にライターはある、でも煙草はない。だから今日も彼の事を思い出しながら、思い出という都合のいい快楽物質に浸りながら、時を過ごしている。

2021年6月4日金曜日

不老不死

 本にまつわる仕事がしたいと気がついたのは高校三年の夏あたりだった。人より遅れて受験を目指して、司書資格の取れる大学に通い課程をおさめ、これでわたしも……!と思ったことはよく覚えている。でも募集がなかった。例えば太いケーブルを縫い針に通す以上になかった。派遣ならあったが、派遣では嫌だった。派遣やアルバイトでは意味がなかった。本屋のアルバイトは受けたが落ちた。その街に留まるために派遣でもアルバイトでもなんでもすればよかったのだろう、きっと。でも人より幼いわたしには、その考えがひとりでに湧くことはなかった。

 自分と自分の学んだことが必要とされていない世界に初めて直面したわたしは絶望し、とにかく憧れより勤まる仕事を探しては就職・離職・派遣登録・派遣・短時間のアルバイトをし、最終的には部屋から出られなくなるまで疲弊した(その頃は酒と精神薬と煙草に浸り切っていた)。

 当時付き合っていた、本性を隠していた男のために上京してしまい、妊娠して結婚したはいいがDV被害に遭い、赤ん坊を連れて離婚し実家に戻ることになる。今の、そしてもうすぐ会社都合で退職する仕事は元々母が勤めていた会社で、紹介されてバイトから始まり、社内派遣になり、今やっと正式な無期限雇用となった(が、それも事務所の閉鎖によって終わる)。

 こう書くと、流されてばかりで考えなしの馬鹿者のように見えることだろう。でもその時その時は振り落とされないように、一人で生活を立て直す為にずっと必死だった。そうは外から見えなくても、頭の中ではずっと「ちゃんとしなくては!人間として親として働かなくては!」と喚かれ続けていた。誰も、何も教えてくれなかった。どのような些細なことであっても自分から学び勝ち取らなくてはならない、そうしないものには権利はないとしか。

 今飲んでいる薬に出会うまでその喚き声が常にわたしの行動を無軌道なものにした。「普通の一般の社会人」ならしなくて済む努力は常に空回りして結果は惨憺たるものだったし、今だってその高すぎる「普通」という基準に到達するためだけに、あらゆる私生活を犠牲にしているしそれはこれからも続くのだと思う。

 わたしは多分長くは生きないと思う。子供の頃からぼんやりとそれは頭の片隅にあった。だからできる限りのことをできる限り時間の余裕をとりながら試していた、どっちみち絶望はするんだろうけれど、完全に希望を打ち砕かれないために。
 
 でも……一人で小さい文庫本サイズの本を出したりする、それもわたし個人のお楽しみのためだけの本というごくごく限られた本でも、作ることができたのはとても嬉しいことでね。本にまつわる仕事(一番は司書だけれど……もう言ってもいいよね、憧れていたことくらいなら)のできないわたしの、精一杯の「本にまつわること」だから、せめて生きているうちにやっておきたかった。いつだって「今日が一番若い日」だから。欲しいと言ってくださった方々にお礼申し上げます。本当にありがとう、ひとときあなたの手許にとどまることができて、わたしはとても、嬉しく思っています。


2021年3月22日月曜日

孔雀の靴

先のとんがった、青緑色のストラップシューズを、京都にいた頃よく履いていた。重かったので革で出来た靴だったのではないか。

革に型押しがしてあって、それが模様のように角度を変えればまたイカした靴に見えたのだ。それになにより、孔雀の頭ような青緑色の美しかったこと。ターコイズブルーや鮮やかなグリーンが好きなのに、顔に近ければ近いほど、わたしの肌の浅黒さを際立たせる。でも靴なら顔からだいぶ離れた場所だから、その点安心できた。考えれば考えるほど、わたし向きの靴のように思えた。もうそうなったら、わたしをとどめるものは何も無くなってしまう。ほんの少し大きいけれど、店員は中敷を入れれば問題ないと言う。その時の収入には見合わないくらいの値段のもの──でも、そうしたらわたしはいつも裸足でいなければならなかったことになる──で、ままよ、と買った靴だった。

その靴を履いて、わたしはどこへでも歩いて行った。ジーンズでもワンピースでもお構いなしに、その青緑の、孔雀に似た色の靴を履いて歩いた。重い靴だったので帰宅すると(あまり体力がなかったくせに出かける時は歩き回ってしまうのだが)、脚はもうこれ以上歩かないと決めてしまったかのように、重くだるく、湯に浸かって揉むでもしないと、次の日になる前に筋肉痛が始まるのだった。

今でもまだ、その時の靴のことを思い出す事がある。あんな風に一目惚れして買った靴は、あれ以来ほとんどない。手入れはあまりしなかった。うっすら禿げていくのも、やっと馴染んだようで気分がいい感じがしたし、その靴が履けなくなるなんて考えもしなかったから。引っ越しをいくつかした時に、その靴も捨ててしまったようだし、その後もあれこれと靴は選んできたけれど、靴と言うと思い出すのは決まってあの靴だ。あの孔雀色の──先がとんがっていて、とにかく重くて足にも合っていなかった靴。どこにでも行けるつもりで、どこにも行けない頃に履いていた靴。

2021年3月20日土曜日

日記

京都で最後に住んだ部屋は七条大宮の二階建てのアパートで、狭くはないが光の入らない、一日中薄暗い部屋だった。その部屋には小窓もあったが開くとすぐ壁があったので、布をかけこそしなかったがほぼ開け閉めしたことはない。窓の前にはちゃちいデスクセットを置き、シェル型のMacBook(のちに買い換えたが)を置いて、ウェブ日記や物語の真似事をした作文を書いていた。

そこに越す前に勤めていた会社は、割とめちゃくちゃだったように思う。勤務時間という概念そのものが存在していなかったし、何よりイベントの準備が全てお得意様の気分次第の都合によるので、わたしは風船のように弾けて、仕事に行けなくなった。勤めている時に住んでいた部屋は会社からほど近かったので、なんでもいいから離れたくて、有り金を掻き集めて引っ越すことを決めた。会社を辞めた後遺症からか、引越しの疲れからなのか、元々社会にあまり適応していなかったためなのか、引っ越しを終えてからずっとベッドに寝そべっていた。

その頃はまだ自分の特性を知らなかったので、今のように適した薬を飲んでおらず、心身のその時強く出る症状に合わせて変わっていく薬を飲んでいた。処方されたどの薬を飲んでも泥をひっかぶったように身体が重く、ほとんど這うように寝起きしていた。食事は一日に一度、近くのコンビニに、飲み物はリキュールを炭酸飲料で割ったものばかり。薬や酒で身体は常にレースのカーテンに包まれているような曖昧な感覚だったし、頭の中は砂嵐の中にでもいるような、逃げなければいけないのにどこにも行けない、そんな状態だった。新たに働きにも出るために体調を整えることもできず、部屋にいて呼吸をしているだけなのにわたしは常に疲れていた。

小さなタンジェリンのMacBookはそんな部屋で、わたしのほんものの窓代わりだった。開くときは大抵、起きて座っていることができた。それ以外はずっとベッドで伏して本を読んでいた。頭の中は整頓されず常にフルで回転し、回転に追いつかないわたしの身体は、ねじが飛びばねが摩耗しているのにそれでも動きを止めることができない、例えるなら廃工場で動き続ける機械めいたものだった。薬を飲まずにいさえすれば、常に目を覚ましていられた、それが予後にとって良かったのか悪かったのかはわからないけれど。


ウェブ日記のエディタはいつも、カウンセラーや医者に話そびれ、次こそ話さなくてはと思いながらも組み立てられた言葉になる以前に霧散していく、掴み所のない言葉を受け止めてくれるベッドだった。ノートにメモ書きする前に手が追いつかなくなりやめてしまう言葉でも、エディタに向かえばいくらでも書き出すことができた。頓服薬でいっとき眠ってしまうよりも、吐き出し続ける場所があった方がずっと身体も楽になる気がしていたから、のそ、と起き出しては「窓」に向かって誰かのアップロードしたウェブ日記を何時間も読み続け、読み終わったら自分のためのウェブ日記を、飽くことなく書き続けた。

キーに指を乗せれば、なんだって打てた。今日あったこと、なかったこと、明日あること、きっと起こらないこと……ウェブ日記を書くことはわたしには頓服薬よりほどよい鎮静作用があったし、同時に少量のアルコールのように興奮作用もあった。

他人の日記にも夢中になったし、自分の日記にも夢中だった。体裁を整えるため、cssの本を買ってきてはエディタに打ち込み、確認しながら幾度も改装してはまた、フリーのソースなどを探した。時間はいくらでもそのMacBookに捧げることができた。そうして何年も日記を書き続け、読み続けた。合間に本も読みながら、他人の日記と自分の日記から離れることができなかった。自分の書いたものは自分の肌の匂いがついている、よく馴染んだ部屋着のようなものだから、自分が書いた日記を何度も何度も読んだ。アクセスすれば必ず日記はそこにあるのに、ぽつ……と消えていることをどこかで不安に思っていたのだろう。

わたしは多分手で日記を書くよりも、キーボードで日記を書く方が素直になれた。書き直しながら、カットしペーストし直して自分の文章を配置するのは、雑誌の切り抜きを貼り付けながらつくるコラージュめいていたから、一層夢中になれたのだと思う。子供を産んで、決まった場所に働きに出るようになってから、場所をウェブ日記ではなくツイッターへと変えていったけれど、呟くことはいつも自分のこと、自分の身の回りのこと、リアルタイムな日記だった。時折はアカウントを消してしまったけれど、それは新しいノート(ツイッターは言うなればふせんだと思う)が必要だったからだ。新しいノートには新しい物語が(それが日記であれ)必要だからだ。

今もわたしは十五年以上変わらずウェブで日記を書いている。このウェブサービスがいつまで続くかは知らないし、新しいノートが欲しくなるかもしれないが、変わらず真っ白なエディタに向かって、キーを打ち続けるのだと思う。

2021年3月12日金曜日

とてちて短歌

2011年07月31日(日)
熱残るアスファルトに線路を引きわたしとお前は世界のみなしご

2010年08月15日(日) 
平和祈り並ぶかしらを風過ぎる 天の御母に歌を捧げ 

2010年05月11日(火)
明け烏コットに並ぶみどりごの泣き声止まぬマリアらの国 

2009年12月18日(金)哀しきは蝶にもなれず舞い狂う一葉に似た軽き吾が生 

2009年12月14日(月)
双子座を探すベランダで元少女の鼻先に夜降り宿る 

2009年12月11日(金) 
ビスケット一人で囓るまよなか過ぎ客待つ娼婦気取りで 

2009年11月04日(水) 
おさなごの眠るくちもとばら色に山そびえたる聖なるかな 


ほぼ十年前のツイッターのログを時々読んでいる。なぜ残してあったのかというと(ほとんどログのことなど忘れていたのだけれど、ファイルを漁っていたらいくつも見つかった)、アカウントの痕跡まで消すのが寂しかったからだ。十年のうちにアカウントを三つほど乗り換えたが、最初のアカウントは思い入れも深く、また交流もわたしにしては盛んだった。今はもう完全に知らない人同士になってしまったアカウントの持ち主と、夜な夜な文字の会話をして、眠れぬ夜を過ごしていた当時が懐かしくなった。

上記の短歌もどきは、初代のツイッターアカウントで作っていたもののようだ。もう少し数を作ってブログか何かに転載しようと考えていたのだと思う。結局今になるまで転載はせずにいたので、わたしは自分が短歌もどきを作っていたことすら忘れていたけれど……。以下はここ二、三日でパズルのように文字を当てはめただけの短歌もどき。三十一文字からはみ出ているものもあるが、完全な素人の手遊びと思って読んでいただければと思う。へたくそでとても恥ずかしいが、わたしは放置したまま忘れたり、推考もせず消していくので、日々の記録として残しておくことにした。



ハンドルを強く握りて夜駆ける星間漂う宇宙船に似て

巡る日を過ごしし古都の思い出はわれ連れ回すメリーゴーランド

ただひとつうたへる聖歌を口ずさむ祈りをしらぬとこうべ垂れつつ

くりかえし再び語る思い出は祈り数える数珠玉に似て

ミモザ咲く時しもさや風過ぎゆきぬ祈るあてなきかしら掠めて


2021年3月4日木曜日

ずっと水辺で暮らしてる

古いログを読んでいた。昔の方がもう少し無邪気ではしゃいでいて(少々はそれを装って無理をしていたのかもしれないが)、臆せず人と文字の会話をしていたようだ。自身のログしか残っていないので、何の話なのか、そのアカウントの持ち主が今どうしているのか、ぼんやりとしかわからない。

最初のアカウントを作った頃のこと。今も同じアカウントで続けている人もいるだろうし、わたし以上に繰り返しアカウントを変えてどこかにいるかもしれない。もっと狭い範囲のSNSにいるのかもしれない。でもあの時間には確かに「いた」。

わたしは当時一歳くらいの女の子の母親だった。そして眠れない夜を過ごしていたから──彼らもまた同じ時間にたまにタイムラインで「すれ違った」。残ったのはそれだけ。わたしはどんどん内向きになってアカウントを何回か消しては短い期間で別のアカウントを作ったから、その度ごとに追いかける事が出来なくなった。

だんだんネット上の文字だけではなく仕事に出るようになって現実の人びとに向き合わないとならなくなり、夜は眠るようになった。「すれ違った」人と二度と会えないとはあまり思っていなかった。彼らは森の妖精でもないのに、そこにいきさえすれば必ずいると決まったものでもないのに、そうは思わなかった。

そういう「すれ違い」をずっと、ここで(初めた頃からはずいぶん時が流れているのに、同じ場所にとどまることは誰にも出来ないのに、とても無邪気に出来ると思っていた)、している。

2020年12月10日木曜日

遠い海、輝く記憶

 十九、二十歳かそのあたりの歳の夏に、初めて京丹後の海へ行った。当時通っていた学校の学外施設がその地にあり、その施設に数人で泊まることになったからだった。海に面した場所にあるので、せっかくだから海水浴もしようというのだ。宿泊するメンバーにとってそれはちょっとした旅行のような感じだったようだが、わたしにとってそれは、旅行というより地元に帰ることと(距離的にも精神的にも)そう差はなかった。

 シーズン中だったはずだが、プライベートビーチ化していたのか、それともたまたまだったのか、海岸に人は少なかった。というかほとんどいなかった気がする。人がいないから海水も透明だったように思う。よく晴れていて眩しかった。わたしは太陽に目が眩んで波に足を取られたりもしたが、それも今では面白かった過去の一部になっている。その時溺れずに済んだのは、当時付き合っていた人が助け起こしてくれたからだった。

 海水浴をする、ぜひ海に入らなくては、という情熱はわたしには今もわからないでいる。当時も何故わざわざ海に入りたがるのかわからなかった。水着はいるし着替えもいる、日焼け止めかサンオイルが必要だし、上がったらシャワーを浴びなくてはならない(それでも砂は流しきれない)。海水に浸かって陸に上がると身体がとても怠くなる……上げていけばキリがないくらい、海水浴は「面倒」が先に立つ。

 わたしは小さい頃泳げなかったし、海から上がると身体中がべたべたするし砂でざらつくので、海水浴そのものは好きではなかった。けれど、海水浴は毎年数回行われる家族行事だった。父がそれを決め、母やわたしたち姉弟はそれに従うのみ。行く以外の選択肢は絶対に許されなかった。もしそうしたら父は静かにずっと怒りを燻らせただろうから。だからわたしが中学生になり、家族と距離を置き始める頃になってやっと離れることが出来た行事だった。

 海に入るのは好きではなかったが、海辺にいるのは嫌いではなかった。むしろ好きな方だったし、自分一人で行けるわけではなかったから、特別だった。夏の太陽の下で貝殻を集めたり砂浜を掘ったり蟹を探したし、浮き輪をつけて波間に漂っているのは面白かった記憶がある。積極的に楽しんでいたわけではなかったが、海での楽しみ方は見つけられていたと思う。

 わたしの住むこの町は、海に面した町だ。家から十分も歩けば釣り糸を垂らせる海がある。休日にフェリー乗り場や桟橋に行けば、大抵誰かが釣りをしていたし、今もそれは変わらないだろう。町の中心部に出るためには、海沿いの細い道を通って出るしかなかったから、自家用車の窓から眺める景色の大半は、やはり海だった。

 わたしにとって海は特別なものではなかった。いつでも側にあったし、またあり続けるのが海だ。けれど、記憶の向こうにある遠い海には、二度と行けることはない。車を自由に乗れるようになってから、時折わたしは海へ向かう。そういう時は海にしか行けないし、海に行くしかない時なのだ。スマートフォンの画像フォルダに溜まっていく写真のように、記憶の中に海が増えていく。いつも同じ、でもいつも違う遠い海。

2020年9月9日水曜日

くちびるよ語れ

 バブにほんのりとパウダーをはたいてあげる時、うすいまぶたにアイシャドウを塗る時、小さいくちびるにほんのりとグロスを塗ってあげる時……わたしは懐かしいデジャビュにおそわれる。いつのことかはもう思い出せないが、これは確かにわたしが知っている、かつてやったことがある動作だと気が付く。でも、すぐに現実に引き戻されてしまう。わたしの前で、そっと目をつぶっている小さいバブ。

 あの懐かしさに息が詰まりそうになる感情がなんだったのか、やっと思い出すことができたのは昨日のことだ。わたしはかつて、好きだった男の人にメイクをしたことがあった。出かけるかとなんとなく決めた日、わたしが小さい鏡の前でしていた化粧を、自分もしたいからやってみてほしいと望まれた時のこと。

「いいよ」と答えてわたしは彼の顔に、化粧水と乳液をつけ、下地を薄く伸ばした。ヒゲしか剃ったことがないであろう皮膚がわたしの前に突き出されている。長い間、夕方以降からしか出かけなかったせいだろうか白く、うっすら青みを帯びていて、煙草を吸っていた割にはかなり肌理が細かかったと思う。閉じた目には長い睫毛が揃っていて、薄い影を落としていた。いつだって彼は無防備だったが(でも、いつも閉じていた、無防備なのに少しだけ必ず距離があった。わたしたちはこの距離を肌で知っていたので、踏み込むことはしなかった)、この時ほどそうだった事はないと思う。

 ファンデーションを塗り広げ、パウダーで押さえてから、まぶたにはわたしがいつも使っていたアイシャドウを薄くはく。色は思い出せない。彼は目が大きくて二重だったから、わざわざアイラインを引くこともないだろうと思って、一段濃い色のアイシャドウだけを重ねた。ビューラーを使うか迷ったのは覚えているが、実際使ったかはもう思い出すことができない。でも多分使わなかったと思う。彼はそのままでもくるんとカールされたような、長い睫毛だったから。黒のマスカラをダマにならないように塗る時は、確か手が震えてしまったのではなかったか、なぜなら睫毛もとても美しかったから。

 化粧をされている間の彼は、本当に美しかった。目を閉じて、わたしが本当は四苦八苦しながら化粧をしているのに、完全にわたしに預けられていた。それまでにこんな風に無遠慮(だって顔に触れるのよ)に触ったことがあっただろうか?多分、なかった。顔に触れる以上のことをしておきながら、その頬を軽く抱くことはなかった。ほんの短い時間だったとはいえ、何もかもが無防備にそこにあった。そのまぶた、睫毛、濃い眉、つうっとした鼻筋、ほんの少しだけ開いていたくちびる、そこから覗く粒の大きい歯。どれも全てが完璧に彼だった。わたしが当時もっとロマンティストで、もっと他人に対して大胆であったなら、彼の顔のその全てに口づけの雨を降らせただろう!

 小心者のわたしは、とうとう彼への化粧を終えてしまった。「できた」と言うとゆっくりと目を開け、小さい鏡に映る自分の顔を角度を変えながら何度も覗き込んでいた。彼がその時何を言ったのかは、わたしの記憶にはもうない。一度で飽きたのか、わたしのメイクがそれほど劇的に顔を変えなかった事につまらなさを覚えたのか、それはもう永遠にわからない。わたしに残ったのは、美しい顔にそっと手を添えながら初めて他人にしたメイクの感触。それから強烈なデジャビュ。

2020年8月7日金曜日

昏い記憶

 意図的にその記憶を消しているのかもしれない、なくしたものや手放したものが多すぎて、何をどういうつもりで「消した」のか、すっかり思い出せなくなった。手帳……たくさん書き込みをしていた、日記代わりの手帳が数冊あったはずだが、その姿をとんと見ない。

 夜を飛んだ飛行機のチケット(多分半券だろう、使ったのだから)を貼り付けていた手帳があったはずだった。ハードカバーで細身の、日記を書くといっても数行書けるかどうかの……青い太めのボールペンで、のたうった文字を書いていたはずだった。

 そうだ、確かその青いボールペンは、輸入雑貨を扱う店で買ったものではなかったか。毎年手帳を買いながら(予定がないので当たり前だが)なかなか書ききることのなかった手帳を一冊使い切った二度目の手帳ではなかったか。

 「あの日」以降にその手帳を、何度かめくっていたはずなのに、何を書いたのか、何を思っていたのか、全て吸い出されたように、記憶に残っていない。あるのは、確かに書いたという後付けの記憶ばかり……。

 東京に住みながら孤独に蝕まれてずっと引きこもっていた時も、モレスキンのノートにほぼ毎日何かを書いていた。切り抜きを貼って、持っているスタンプを押して、どうしてこの部屋からほとんど出られないのかと思いながら、こまこました字を綴っていたはずだ。二冊くらいはあったはずだ。

 でも、どれも今はもう見当たらない。捨てたことを無かったことにしようとして記憶から消したのだろうか?自分がしたはずの行動なのに、まるきり他人事のようだ。「消した」記憶の蓋が開くことがあるとすれば、それはいつだろう。その時わたしは何を思うだろう。

2020年7月29日水曜日

欲望という名の物語

 物語を読み終わると疲労と淋しさと離人感を味わう。二重に自分の視点があるような、現実のチャネルにあっていないような。なので、深く物語に沈み込んだ後は現実に戻るまでに時間がかかる。こういう読み方はよいような気があまりしない。しかしこの読み方でしか物語を読んでこなかったので、実のところどうすればいいのか、わからないままでいる。

 良い読者ではないので(良い読者とは感想や批評を文字にすることができる人の事だと思う)、物語を読んでいる間は無意識のうちに登場人物たちの人生の、あるいっときを生きようとしているし、少なくとも物語を読んでいる間は自分の人生を生きていない。多分わたしが年齢より精神的にずっと幼いのは、なにも知能の問題だけではなく、この深く物語に沈み、自分の人生ではなく物語の他人の人生を歩んだつもりでいるからではないか、と時々思う。

 それは時にとても危険な気がしている。他人の人生を飲み込んでいるような、グロテスクさがある。

 物語を持たないわたしが、物語そのものである他人に触れたいと願うのは、とても危ないことなのだろう。おなかがすいたからパンを食べるように、自分の心の奥底に、他人を食べたいし食べたっていいんだという欲望を持っているんじゃないか。物語を好きに読むように、他人も読もうとしているんじゃないか。他人というのは別に人間に限らない。星や月についてもそう。

2020年7月23日木曜日

神様を待ちながら

 ずっと子供の頃から、名前のない「神様」のような完全な存在を夢見ていたように思う。そしてその「神様」さえわたしを見つけてくれたら、わたしの「場に馴染めない/物事に向かい合うことを避ける/何事も取り掛かることが遅いetc……」という不具合も、まとめて愛してもらえるのではないかと思っていたのだと思う。画像はわたし自身の「神様のような他人」についての願望。
 けれど、生身の人間に対しての崇拝はとても強い力が働くので、大抵わたしの方が根を上げてしまうし、関係をシャットダウンされる事を望んだ。時にはそうでなく嫌いになる事もあったが、概ね関係は途切れたのだから願いは叶ったことになる。呪いのようなものではないか?あまりにも自身の願いが強すぎて、呪いが跳ね返ってしまったような気もしてくる。
 生身の人間は神様になることはできないのに、それでもその人の中に神様を探そうとして、わたしはその人を好きになったんだと今なら思う。そこにはいつも、その人(たち)はいなくて、わたしはずっと「神様」と名付けた完全体のわたしを探していたんじゃないだろうか。いつか、誰かが言っていた「人は完全な球体になるために相手を探す」という言葉を都合よくねじ曲げるように、完全な「わたし」になるために人を探していたのではないだろうか。それはなんて淋しく、悲しいことだろう。愛することひとつも知らないままに、ただただ呑み込める相手をふらふらと探し求めていたなんて。存在しない「神様」に出会う日をずっと待っていたなんて。





2020年7月16日木曜日

痛み/夏

 初めて殴られた日は、まだ安定期に入る前だった。わたしは不安だった。一人で京都から東京へ越して、一人で部屋を借りていた。彼はそこに週に何日かは来てくれて、過ごしていくというスタイルを続けていた。そうなる前にも何回かは喧嘩をしていた。雪の降る中に「あなたには帰る家があるんだからここから出ていってくれ」と言ったこともあった。彼は頭を冷やすために帰っていったから、その日もそうなるんじゃないだろうかという予想をしていた。その予想は甘かったことは後から分かった。

 何がきっかけだったか……彼はまだ法科大学院生だった。わたしは彼を応援していたし、サポートも出来ることはなんでもしようと思っていたし、彼が望むものをもしわたしが提供できるなら、ある程度まではそうしようとずっと思っていた。ずっと一緒にいたい人だったから、わたしも彼も五分五分でいるつもりだった。だから彼が望んだ「赤ん坊」をわたしは妊娠した。

 一人ぼっちだった。東京に知り合いもおらず、紹介される人はみな彼の友達、彼のつながりのある人ばかりで、心から信頼できる人もいなかった、彼でさえそうではなかった。なのに、わたしは妊娠してしまった。本当ならそうするべきではなかったのだと思う。不安が強いのに妊娠してからわたしは倍以上に不安がった。もしも胎児に何かあったらどうしていいかわからないし、不安を抑えるための薬は全て、妊娠がわかった時に医者と相談してやめたので、何もわたしを止めるものがない。あまりにも不安で、あまりにも怖くて、わたしは言ってはいけない一言をつい漏らしてしまった。

「堕胎したい、こんな不安な妊娠はもう続けたくない」

 次の瞬間、わたしは吹っ飛び、冷蔵庫にぶち当たった。彼の平手がわたしの側頭部に振り下ろされた反動だった。冷たいフローリングで(冬だったし一階のワンルームだったので、隅の方はとにかく冷えていた)わたしは呆然と彼の顔を見ていた。彼の言葉は驚きと衝撃でほとんど聞き取れず、ぼうぼうとしていた(のちにあまりに聞こえが悪いので耳鼻科へ行くと、鼓膜が破れていた)。彼は怒りと悲しみ、被害感情に塗れた顔をしていたようにも思うし、そうでなかったかもしれない。塗りつぶしたように彼はわたしの記憶の中でいなくなってしまう。

 二度目に殴られたのはお腹がふっくらと丸くなってきた頃だっただろうか。一緒に暮らすわけでもなく、籍を入れるかどうか伸ばし伸ばしにしていた頃じゃないだろうか。検診にもずっとほとんど一人で行っていた。彼は授業時間がタイトで学校も少し離れていたから、忙しかったしわたしも長時間の待合室で人を待たせたくなかった。実体があるのだとわたし自身にも言い聞かせるように、写真だけはこまめに見せていた。お腹が大きくなり始めたので、よろよろと歩いて検診に行っていた頃、やっぱり不安でたまらなかった。何も約束されていない未来を絶望したのが間違っていたのだろうか?あの時何を言って彼が激昂したのかは覚えていない。次の瞬間は、わたしの腹の上に彼が馬乗りになって平手で殴っていたから。その時は彼の母親を呼び、わたしは産婦人科で診察を受けたと思う。幸いなことに胎児に異常は全くなかったから、ある程度の力加減はしていたのではないだろうか。その前後に、やっと婚姻届を出すことにしたのだった。彼は……喜んでいたように思う。喜んでいたのだろう、彼の望むことが紆余曲折を経ながらでも少しずつ形になっていた。わたしは彼の思う通りの人間ではなかったから、彼の思いと実際の形はじわじわとずれてはいたとは思うけれど……。線が重なり合わずほんのわずかなズレがあると、その線が延びていった先で大きく角度が開いてしまう。本当に少しずつ、確実にわたしたちはずれていった。重なる時が来るとしたら、どちからがぐにゃりと曲がる時……いや来るのだろうかとぼんやりと思っていた。

 三度目はどうだっただろう、産後長々と実家の世話になり、「帰宅」した時だっただろうか。彼にはあちこちに頭を下げてもらって、お金をかき集めて借りた部屋に帰宅した頃(家財道具はすべてわたしが使っていたものばかりだった、だから彼が借りたのは実質部屋という枠だった)のことだっただろうか。まだ離乳食も始めていなかった頃だっただろうか。何がきっかけで、どんな殴られ方をしたのか、ここはどうにも曖昧だが、初めて警察を呼んだことは覚えている。だから多分、赤ん坊を背負っていた時だったんじゃないだろうか。警察署で話を聞かれながら「どうしますか」と問われ「帰ります」と答えたんだと思う。彼には警察官から少しでも小言を言われたのだろうか。そのあたりはまったく記憶に残っていない。どこへ帰ればいいんだとぼんやり考えていたことは思い出せるが、それ以外はわからないままだ。産後二十日目であまりの痛みに胃カメラまで飲んだ胃が、また痛み始めていた。

 その後、わたしたちはやっぱり今のままでは暮らせないと遅い決断を下し、部屋を解約してわたしは子供を連れて地元に戻った。彼は駅で、新幹線の扉の前で、発車するまで顔をくしゃくしゃにして泣いていたのを憶えている。わたしはやっとほっとして「帰宅」した。荷解きもあったし離乳食や検診なども控えていたので目まぐるしく、忙しくしていた。何度か彼はお金がないなりに地元に来てはくれた(帰りの切符は、わたしが買った)、ほんの少し滞在し、また「帰って」いっていた。その頃はなんとかわたしなりに、彼なりに模索していたと思う。どうやって暮らしていくか、彼にはプレッシャーばかりかかっていたのだろうし、わたしはわたしで、子供を死なせずに大きくさせないとということばかりを考えていたのだから、二度と重ならない二つの直線はどんどん角度を広げていた。

 夏だっただろうか。彼が地元に来た時、わたしは言ってはいけない(だろう)一言で彼を怒らせた。彼の顔は般若や阿修羅像のように目を見開き、歪め、これ以上ないくらい逆上していた。子供が盾にならないように、でも連れて行かれないようにと変な格好で庇っていたからだろう、何度も殴られ、腰に、背中に、目の周りに青痣を作った顔は思っているより痛みは少なかった。彼は拳ではなく平手で殴っていたから。彼には夢があったから。彼は……わたしは子供を抱いたまま家を飛び出し、近所の人に通報してもらい、警察にいったん保護された。彼は拘置所へ連れて行かれた。拘置所から来た分厚い手紙には、自分を擁護するようなことが書かれていたと思う。今もまだ持っているが、開くことはできない。多分二度と。結局起訴猶予となり、彼は彼の地元へ戻っていった。彼の友人が何度かわたしと連絡を取ろうとしていたが、わたしはそのどれも断った。そしてわたしは、また一人になった。誰にも相談できず、全てわたしが判断して、最良でなくても最善でなくても、選ばなくてはならなくなった。ひどく心細く、ひどく悲しく、でも肩の荷が降りたような(本当は肩の荷が増えたのだけれど、興奮していたのだと思う)、少しせいせいとした気持ちも、やっぱり味わっていた。

 その後、彼は夢を叶えた。わたしはなんの才覚も資格も全くないまま、子育てを始め、あの時の赤ん坊はもうすぐ十二歳になる。彼は立派に仕事をしているようで、取り決めた月々の養育費も滞ったことはない。年に二回は必ずメッセージと贈り物が届くし、折々のメッセージも昔のように……会った頃と同じように紳士的だ。夏を超え冬を超え、子供はすっかり赤ん坊ではなくなったが、わたしはそれでも怯えている。わたしの中のわたし、彼の中の彼を子供は内包している。どうか生きやすく育ってほしいと思うたびに、彼の顔を子供の中に見る時もある。錯覚であればいい、でも、わたしにはわからない。わたしは彼の顔を子供の顔の中に見つける時、仕草の中に彼を見つける時、この先増えていくだろう。彼に子供を会わせた時、わたしの判断や決断が間違っていたのだと子供に思わせたくないというのは、わがままだろうか?今でも何度となく思う、わたしがクズだったからだろうか、わたしが間違っていたのかと。でもその都度、どんなことがあっても、暴力をふるってはいけなかった、わたしが彼の思った通りの人間でなかったとしても、彼はわたしを殴っていいなんてことは絶対にない。その点では彼は絶対に間違っていたと思い直す。わたしはあのことがあってからずいぶん臆病になった。人を愛することは出来ない、親切にすることが精一杯だろう。それでも大事にしたい人は何人かいる。何度夏を迎えても、迎えるたびにわたしは思い出すだろう。

滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...