2010年6月13日日曜日

淡雪のゼリー



レシピの切り貼りがしてあるノートが見つかったので、土曜日にゼリーを作った。随分ふるいノートの切り貼りなので、どの雑誌からか、どなたのレシピかまでが抜けている。(オリジナルではないことはお断りしておきます……。何かあればメールなどでご連絡ください。)
白桃の缶詰があれば出来るというごくかんたんなものなので、記録をかねてブログに記しておこうと思う。




材料
  • 白桃の缶詰(425g) ……1缶
  • 缶詰のシロップ+水 ……300cc
  • 砂糖 ………………………大さじ2
  • レモン汁 …………………大さじ1
  • ゼラチン …………………5g

  1. 水大さじ2にゼラチンを入れてふやかし、電子レンジ(500w)で30秒加熱して溶かす
  2. 300ccになるように桃の缶詰のシロップに水をくわえて砂糖とレモン汁を加えて混ぜる(A)
  3. 桃の汁気を切り、グラスにひとつずつ入れる(細かく切って入れても)
  4. (A)の3/4量をグラスに等分に分けて冷蔵庫で冷やして固める
  5. (A)の残り1/3両を金属製のボウルに入れ、氷をあてながら泡立て器で泡立てる
  6. ゆるく泡立ったゼリー液を冷蔵庫で固めたゼリーに流し入れ、さらに冷蔵庫で冷やし固める


おしまい。
初めて泡立てたゼリー液に口をつけると子どもは嫌がってしまったけれど、下のふるふるのゼリーの層にスプンが到達すると、見慣れたゼリーだったらしくすっかり食べてしまった。
見ていて気持ちのよいくらいの食欲であった。

追記:
缶詰から出してすぐだと金臭さがあるので、缶から空けたシロップと桃は半日ほど器にうつして冷蔵庫で冷やしておいたり、一度シロップごと鍋で煮立ててから冷ます方が、金臭さは抜けるかもしれない。

2010年6月11日金曜日

鶏頭の赤、橙、黄色

  子どもと散歩しているのは、かつて新興住宅地であり今でもその名残のある近所が多い。昔、私がこの子くらいの頃、この辺りがやっと開けてきて、いくつも竹の子かきのこのように家が建った場所だ。ここから小学校へ徒歩三十分かけて峠を超えて通い、住宅地のすぐ側に建つ中学校へ行くようになり、やがて町中の高校へ通った。町へ出る為には車が無くては生活出来ない場所だ。ここから西にある方の駅へも車で二十分弱、東の方なら三十分弱かかる。そんな不便な所に住んでいる。そうは言ってもちょこちょこと新しい家は建つ。そこに住む人がいる限り家が建ち車が並び、人の声が流れ生活が漂う。立派で大きな家が建ち、幸せそうな洗濯物が揺れている。その辺りを散歩するのだ。

あるお宅の家の前に、ちょこんと鉢植えの鶏頭があった。鶏頭には幾つか種類があるらしく、見かけたのは羽毛ケイトウと言うらしい。尖ったあかい鶏冠は懐かしい暴走族を思わせるのだが、ふわふわとしたそれは是非触りたくなる。けれども子どもの手前触りはしない。「よそのおうちだからね、ここまで」と言って、いつもかのじょを止めているのだ。

私は、一度、鶏頭を貰ったことがある。
鶏頭のあかく燃える花を見て、その日のことを鮮やかに思い出した。あれは私が退院した日、仕事帰りのJと落ち合ったのかわざわざ迎えにきてくれたのか、二人でバスに乗った。行き先はホームセンターで、すっかり日が落ちた京都の外れのホームセンターはまだ煌煌と電気がついていたのだが、とにかくよそよそしく佇まいから既に「買わないのなら帰っておくれやす」という雰囲気だった。

退院したてで体力が激減していて、なんだか半分はどうでも良かったけれど、それでもその残り半分はやっと自由になれた開放感と、久しぶりに友人に会えた楽しさで昂ってはいた。おもむろに彼は「この中からどれか選んで」と鶏頭を指をさす。これかな、とすでに花の多いものを選ぶとてきぱきと苗を手に取り、土を選び、鉢もぱっぱと決めた。緑色をした買い物かごは急に重さを増したようだが、すたすたとレジへ向かう。

再びバスに乗って私が当時住んでいた部屋へ戻ると、新聞紙を広げてそこに先ほど買ってくれた鶏頭を、ビニールの苗パックから出して、鉢に移し替えてくれた。入院していたことにあまり触れずに「結構楽しいですよ」と。

差し出された鉢には小さいけれど鮮やかな鶏頭が並んでいて、つつくとふるっと揺れる。鉢は窓際の、ぎりぎり陽の入らない場所(私は当時洞窟のような薄暗い部屋に住んでいたから、そこしか明るい場所は無かった)に置いて毎朝水をやるようになった。

あの日から随分経って、私は地元に戻ってきたし彼も京都から東京、そして地元にいるという。距離は遠く離れてしまったし、その日のこともだんだんおぼろげになってはいるけれど。私には一人の子どもがいて、毎日を時間に追われるように過ごしているけれど。有り余る時間に取り残されていた自分を、懐かしさと情けなさと恥ずかしさが入り交じって思い出す。あの鶏頭は、やっぱり本物の日光が少な過ぎたためにどんどん色褪せて、やがて枯れてしまったけれど、それでもしばらくはずっとろうそくが灯っているように、明るかった。


記憶という庭に、私はひとつの鶏頭の鉢を持っている。その鉢で鶏頭は赤に、橙に、色とりどりに咲き誇る。いつまでも私が覚えている限り、風にその花を揺らされて咲き続ける。

2010年6月2日水曜日

5月の読書メーターまとめ

 2010年5月の読書メーター
読んだ本の数:12冊
読んだページ数:4097ページ

■思春期病棟の少女たち
いつかは読むだろうと思っていた。もう少女ではなくなったけれど。ぷちぷち途切れる文章は茹で過ぎたスパゲッティのよう。自分が立っている世界との折り合いがつけられなかった、どこにでもいるありふれた少女たちの精神病棟を、作家になった著者が中年になって振り返っている。退院する少女もいるし自ら死の世界へ飛び込む少女も、もっと遠くの心の世界へ行ってしまう少女もそこではありふれた「少女」でいられたのだろう。世界とは離された場所にいたとしても、著者と著者の友人達がいたそこは、眩しい青春の光に照らされたものだったと思いたい。
読了日:05月31日 著者:スザンナ ケイセン
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/6295205

■グアヴァ園は大騒ぎ (新潮クレスト・ブックス)
コミカルな中にかすかな哀しみの漂う、けれどそれは人生或いは世界が回っていく中ではちっとも大した事ではない、と思わせてくれる、ふわふわしたつかみ所のない夢のような一冊だった。主人公サンパトの母クルフィの料理と食事について取り憑かれている様の記述がたまらなく面白い。私はインドについてはこれまで断片的に繋いできたイメージの中の「インド」しか知らないが、土ぼこりの中に浮かぶ色彩を想像するのは楽しかった。自分を取り巻く世界から逃亡したくなったらまた読みたい。
読了日:05月29日 著者:キラン デサイ
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/6266523

■小さきものたちの神
「歴史のにおい。風にのってくる古いバラのような。」所々で思い出すように繰り返されるこの言葉は、語り手であるラヘルとその双子の兄エスタパンの歴史そのもの、過去の匂いだろう。思い出す度に鼻先をかすめる過去の匂い。懐かしさと同時に二度と戻らない過去の思い出。忘れようと努めても決して消えない過去の。子どもだったラヘルの視点から描かれるインドは自然の色彩に、歴史に、綿々と続いてきたカースト制度に、ラヘル自身の無限の想像力に溢れている。詩のような文章の流れは川のようだ。
読了日:05月26日 著者:アルンダティ ロイ
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/6229151

■喪失の響き (ハヤカワepiブック・プラネット)
読了日:05月25日 著者:キラン・デサイ
http://book.akahoshitakuya.com/b/4152089059

■ママ・グランデの葬儀 (集英社文庫 40-A)
読了日:05月22日 著者:ガルシア・マルケス
http://book.akahoshitakuya.com/b/4087600793

■停電の夜に (新潮文庫)
読了日:05月15日 著者:ジュンパ ラヒリ
http://book.akahoshitakuya.com/b/4102142118

■時は夜 (現代のロシア文学)
気持ちが暗澹とする。もう搾りきった生クリームの絞り袋を、しつこくのしてどうにか一粒の白い淡雪を落とそうとするような、必死だけれど後から空しさばかりが襲ってくるような、気持ちの遣りどころがどこにもない。書き手である「私」の娘が送りつけた短い叫び声がずっと続く。貧しいということが蝕んでいくものは愛、健康、未来、希望、何もかもだ。物語の全背景はぼうっと映るだけだが、所々語り手の「私」がズーム・インして叫ぶ。そしてその叫びにスポットライトが当たる。誰も彼もの自分勝手さとそれに苛立つ「私」が殴りつけてくるような物語
読了日:05月13日 著者:ペトルシェフスカヤ
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/6073015

■ミーナの行進 (中公文庫)
小川洋子はいつでも何かを、登場人物たちに失わせる。例えばそれはもののなまえや人という、些細だけれどかけがえのない、途方もない痛みと喪失感を伴うものばかり。それでいて甘い閉塞感が漂うのが「小川洋子節」だと思っていた。特に大きなお屋敷全体がその閉塞さを醸し出す場所になるのか、とも。けれど、病弱でお屋敷に住んでいる従妹・ミーナこそ死の途方も無さをはっきりと身体に纏わせているとはいえ、とても清々した少女だった。それは関西弁の砕けた会話がそう思わせるのかもしれないが、これまでのように喪失の残虐さが無く、むしろ砂のようにさらさらと美しく、「少女」を失わせていったと思う。
読了日:05月11日 著者:小川 洋子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/6060055

■ジャスミン (文春文庫)
読了日:05月11日 著者:辻原 登
http://book.akahoshitakuya.com/b/4167316102

■海辺でロング・ディスタンス (角川文庫)
川島さんの本はだいたいどれも読んでいるのだが、今回は他のどれよりも流されている感が強い。セックスの後の汗やジョグの後の汗の匂いが薄い気がする。それと登場人物が散逸していて(ネグリジェババアについてもう少しあるのかと思った)まとまりが少なく、読みづらかったのが残念。
読了日:05月06日 著者:川島 誠
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5994822
■石のハート 新潮クレストブックス
読了日:05月04日 著者:レナーテ・ドレスタイン
http://book.akahoshitakuya.com/b/4105900307

■カッコーの巣の上で
読了日:05月02日 著者:ケン キージー
http://book.akahoshitakuya.com/b/4572008531


▼読書メーター
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その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...