2022年3月15日火曜日

星の響きのストラテラ

 薬を飲むようになってから、わたしを苛む強い劣等感から半分ほど解放された。ずっと頭の中はうるさかった(世界はうるさく気を散らせるほど眩しく、時に信じられないほど素晴らしく没入させ、最高で最悪だった)。それに、孤独はわたしのいい友だったことに気づいた。一人でいてもびくびくしなくなったから。

 レンタルの延滞をしなくて済むし、片付けようと思いついきながら何もできないままで夜を迎えない。何かを探す時に部屋を丸ごとひっくり返すような大騒ぎをしなくて済むようになった。手からものが消えなくなった。それはものとして手にきちんと握られている。すべき事としなくていい事について頭に整頓用の小箱ができた。誰でも持っているらしいが、わたしの小箱はどうもひと種類しかなかったように思う。完全に区分が出来るようになったわけではないが、それらの困りごとは一応「性格」の範囲内に収まったように思う。

 でも、落ち着いて世界を見渡した時……あれほどうるさく迫ってきていた世界は凪ぎ、積むだけ積んだ高くやかましい理想は音を立てずに静かに崩れた。餌をねだる雛のようだったわたしの欲はそれなりに満たされたのか、囀るのを止めた。煌めきを持っていた何もかもから鮮やかさが薄れた。

 とても寂しいと思う。何もかもが欲しかった頃に時々戻りたくなる。どっちみち何も手にすることはできないけれど、深い憧れを持って目に映る全てのものを見ていたあの頃を懐かしく思う。手放したものは輝かしい、いつだってそれは本当。アリスが次々と摘んだニオイイグサと同じだ。遠くにあるニオイイグサの方が、今摘んだニオイイグサより美しく揺れるのと同じ。決して手に入らないのに、それでも望むことを諦めず追える。そういう心というかまなこというか、感知する部分に薄い雲がかかるような、そういう薬をそれでもわたしは選んだ。その方が生きていくのに楽だから。より視力に合った眼鏡を選ぶように、より運転しやすい車を選ぶように(何故ならここは大人一人に一台車がないと、身動きできない田舎町だからだ)、ストラテラを選んだ。

 星の響きに似た薬を、わたしは毎日限度いっぱい飲む。その度に星の響きは拡散して、柔らかい羽二重の着物のようにわたしを守る。身体から魂だけが飛び出していかないように、粉々に砕け散らないように、もし飛び出しても戻ってこれるように。これは帰り道を見失わないための光る石。

2022年3月6日日曜日

エメラルドの都

 「図書館に何かはある」という期待というか安心感というものは、司書課程をとるまでは全くなかった。「図書館は本を貸してくれるらしい・宿題をするテーブルもあるらしい」程度で、子供の頃はほとんど、母の都合もあったから利用することはできなかったから、まったく何も思っていなかった。

 産後にこの町に出戻った時に、諸々の手続きを終えた後に向かったのは、利用者カードを作るためのカウンターだった。もしかしたら娘を連れて親子で本を借りる日が来るかもしれない(できればそうなってほしい)と思ったから。

 娘がある学年に上がった時、「調べ物学習」が宿題にプラスされるようになった。テーマを決めて模造紙に調べた成果を見やすくわかりやすく書き出すという宿題で、娘の興味というか宿題に使えそうな資料を全く持っていないわたしは、慌てて週末に娘を連れて図書館に駆け込んだのだった。

 とりあえずは辞典で調べてみて、検索機の示した分類番号からあたりをつけて児童向けの棚を探したが、数が多かったり逆に一切ないという事もあり、自力では時間がかかり過ぎる。この調べ物の宿題は順番に回ってくる(しかも複数回)と聞いていたので、平日の昼間を資料探しに使えないわたしは週末を待って、娘を連れてカウンターに相談に行った。この図書館のカウンターでは、司書課程の課題でもお世話になったのだけど、ぼんやりとした、子供の頭の中のテーマをスッと汲み取り、「これとこれとこれはどうでしょう」「これも関連ありますね」と資料を出してくれた司書さんにはずいぶん助けていただいた。

 わたしが「そうなってほしい」と思うほどには、娘は本に興味がない。それはそれでかまわないのだけど、なんでもネットで調べたら出てくると思っているところはちょっと危ういのかもしれないと時々思う。でもわたしも大学に入るまでは図書館のことを建物としてしか認識していなかったから、今は何も言わないでおこうと思っている。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...