2010年9月26日日曜日

ギムレット味の別れ

 ジンとライムジュースをシェイクしたカクテルをギムレットという。カッと喉に広がっていくジンの強さを味わうのなら、ストレートで飲むよりずっと美味しい。私はじゃぶじゃぶ飲みたいので、濃いめのジントニックが好きだけれど、美味しいジンがあるのなら多分、ギムレットにしてもらうのがいいと思う。

 ハードボイルドに生きたい、と強く思う。タフで優しいハードボイルド、つまりマーロウのように時折ウェットに流されそうになりながらも、踏みとどまれるくらいのハードボイルドさで。勿論人の親なので道徳は身につけておきたいけれど、そういうハードボイルドさではなくて、もっと根本的にハードボイルドに生きたい、母だからこそ。

「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」*とは、とても有名な一文で、出典を知らなくても聞いたことのある人はいるだろう。そしてこの一文を読む為だけでも、チャンドラーは読まれるべきである。

 たましいに重さがあるのなら、さよならの度にたましいも削られているだろうか。最期の息を吐いた後、人は21g分軽くなるという。もちろん、これは根拠の無い嘘っぱちであるが(そもそもたましいすら発見されていないのだ、この医療と科学が日進月歩している現代では!)、実際にたましいがあるとして、そしてそのたましいの重さが21gだとして、今私に残っているたましいの重さは一体どれくらいだろう?これからどれだけの人生が残っているかはわからないけれど、完璧に終えるまで残っていてくれるだろうか。これまでに幾つものさよならがあったはずだった。数に入らないようなほど些末な別れから、数にしては一つだとしても、とんでもなくごっそりと削られるほどの別れまで、生きている上で幾つか別れは経験しないではいられない。その度に私は少しずつ死んでいったのなら、今の私はいったいどれくらいの割合で——例えば生まれたばかりの赤ん坊に比べて——生きているというのだろう。

 人とさよならを何度繰り返しても、というより繰り返せば繰り返すほどに、僅かずつさよならへのハードルが下がっていくし、うしなうことに慣れていく。その都度新しい別れではあっても。初めてのさよならは、やっぱり私からだった。もう充分にお互いを殺し合った果てに、そこから飛び降りた。涙はもう出せなかったし出す必要もなかった。わずかに死んだはずなのに、それでも歩みは軽かった。それは多分21g分のたましいの内の、数に満たないほどの重さを失っていたからだ。ロマンチスト!それでも夢見ずにはいられない、早過ぎないギムレット。

 *『長いお別れ』(“The Long Goodbye”)ハヤカワミステリ文庫 清水俊二訳による。

2010年9月4日土曜日

Benediction

 色々な本を集めてきた。本というよりそれは物語への扉を、本という形にしただけなのではあるが、それでも随分沢山の本を集めるほどになったのは、二十歳を過ぎてからではなかったか。子どもの頃、あまり沢山の本は家になかった。限られた数しかなかったので、それらを繰り返し読んでいた。また小学校の図書室でーーそこは薄暗くねずみいろ(あれはグレイと言えるお上品さではなく、ねずみいろと言う少し下卑た色であった)のじゅうたんが敷かれた部屋で、土足禁止と赤いマジックで書かれた張り紙が扉に貼ってあった。ひとりにつきひとつの代本板を、まるで聖書を抱く修道女たちのように胸にして、足しげく通った。図書室にいるためだけにーー出会った『アリス』でさえ、私は親に買って欲しいと言えなかった。私には子どもの頃、本をねだるということは卑しい事ではないかと思っていたからだ。本は与えられるもの、私はそれを受ける者。そして本は永遠だとも思っていた。絶版もなく再販もない。図書室にある本は永遠に図書室にある。図書室にさえ行けばいつもある。“そこ”にあればずっと“そこ”にあり続けるのだと思っていたからだ。

 本はいつも親から与えられていた。適当に選んで適当に与えられてきた。それでじゅうぶんだった。子どもだった私の世界は今から見ればとても狭くて小さいものであったが、子どもの私にとっては広過ぎた。だからこそ、与えられた本だけで満足できた。狭いところにすっぽりと収まると安心するでしょう?それと同じ。

 大学に通い始めて仕送りを貰うようになって、初めて本は手に入れ続けなければそこにとどまり続けることがないのだと知った。手放してしまったらそこで、その本は永遠に失われるのだと知った。この手に掴み続けなければ、本はやがて私の手から離れて歩き出す。意思を持っていようと持っていまいとに関わらずに。本は読まれる人の元にしかいられない。私ではなく本に決定権があるのだった。例えば同じタイトル、同じ出版社、同じ価格、同じ装丁のものを後から買いなおしたとしても、それはもう私にとっては同じ本ではない。本を手放すということは、本の名前を失うということだ。一度でも手を離れてしまったら同じものにはなり得ない。数えるほどの引っ越しの中で私はいくつも本を古本屋に売って僅かにお金を手にしたが、それは本が私から離れる為に払われてきた手切れ金だったのだ。


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 ほんとうのものが欲しい。ほんとうのなまえを刻んだものが欲しい。ほんとうの名前が刻まれていると私にも見える二つの目が欲しい。私は本にとって通過点なのだ。どこか遠いところへ本が行く為の。だから私がどれだけ沢山の本を手に取ろうが所有しようが、また所有し続けようが、私は永遠に遠くへは行けないのではないか。


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 一つの本棚と、半分の本棚(もう一つの本棚は、子どもと共有しているので)、それと二つの段ボール、それほど大きくない革のトランクに収まるだけの本を私は今、所有してはいるが、その中のどの本のことも、私は理解してはいないとわかっている。もしもっと理解していればずっと遠くへ行けたのだろうけれど、私には理解出来るほどの知に祝福されてはいない。言い訳だと言われればそうだと答えられるほどに私は厚顔無恥である。これは扉である。誰の為でもない扉である。開かなければどこへも行かれない扉である。理解するべきものではなく、いっそ感じる為のものである。

 私はなにも変わってはいない。未だに胸に代本板を抱いて足早に廊下を、しめった図書室に向かう子どもだった私と、どこも変わりはない。失い続けた本の名前を取り戻したくて、私はまた本を集めるのだろう。今日もまた本を買った。そこにある名前を見たくて。きちんとした通過点になりたくて。

2010年9月1日水曜日

八月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年08月
アイテム数:8
乳と卵
川上 未映子
読了日:08月02日

ノーサンガー・アビー (ちくま文庫)
ジェイン オースティン
読了日:08月03日

ベアト・アンジェリコの翼あるもの
アントニオ タブッキ
読了日:08月06日

首鳴り姫
岡崎 祥久
読了日:08月18日

図書室からはじまる愛
パドマ ヴェンカトラマン
読了日:08月21日

高慢と偏見とゾンビ(二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ジェイン・オースティン,セス・グレアム=スミス
読了日:08月24日

ニューヨークに舞い降りた妖精たち
マーティン ミラー
読了日:08月27日

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八月に読んだ本の中で一番笑ったのはやっぱり『高慢と偏見とゾンビ』だろう。外国の、特に英米ヨーロッパ圏の人の、東洋的なイメージはあまり変わらないのが面白い。ゾンビは期待していたより少なかった。
一番キュートなのは『ニューヨークに舞い降りた妖精たち』。妖精のゲロは人間にはいい香りだなんて、ねえ!

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...