2010年9月4日土曜日

Benediction

 色々な本を集めてきた。本というよりそれは物語への扉を、本という形にしただけなのではあるが、それでも随分沢山の本を集めるほどになったのは、二十歳を過ぎてからではなかったか。子どもの頃、あまり沢山の本は家になかった。限られた数しかなかったので、それらを繰り返し読んでいた。また小学校の図書室でーーそこは薄暗くねずみいろ(あれはグレイと言えるお上品さではなく、ねずみいろと言う少し下卑た色であった)のじゅうたんが敷かれた部屋で、土足禁止と赤いマジックで書かれた張り紙が扉に貼ってあった。ひとりにつきひとつの代本板を、まるで聖書を抱く修道女たちのように胸にして、足しげく通った。図書室にいるためだけにーー出会った『アリス』でさえ、私は親に買って欲しいと言えなかった。私には子どもの頃、本をねだるということは卑しい事ではないかと思っていたからだ。本は与えられるもの、私はそれを受ける者。そして本は永遠だとも思っていた。絶版もなく再販もない。図書室にある本は永遠に図書室にある。図書室にさえ行けばいつもある。“そこ”にあればずっと“そこ”にあり続けるのだと思っていたからだ。

 本はいつも親から与えられていた。適当に選んで適当に与えられてきた。それでじゅうぶんだった。子どもだった私の世界は今から見ればとても狭くて小さいものであったが、子どもの私にとっては広過ぎた。だからこそ、与えられた本だけで満足できた。狭いところにすっぽりと収まると安心するでしょう?それと同じ。

 大学に通い始めて仕送りを貰うようになって、初めて本は手に入れ続けなければそこにとどまり続けることがないのだと知った。手放してしまったらそこで、その本は永遠に失われるのだと知った。この手に掴み続けなければ、本はやがて私の手から離れて歩き出す。意思を持っていようと持っていまいとに関わらずに。本は読まれる人の元にしかいられない。私ではなく本に決定権があるのだった。例えば同じタイトル、同じ出版社、同じ価格、同じ装丁のものを後から買いなおしたとしても、それはもう私にとっては同じ本ではない。本を手放すということは、本の名前を失うということだ。一度でも手を離れてしまったら同じものにはなり得ない。数えるほどの引っ越しの中で私はいくつも本を古本屋に売って僅かにお金を手にしたが、それは本が私から離れる為に払われてきた手切れ金だったのだ。


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 ほんとうのものが欲しい。ほんとうのなまえを刻んだものが欲しい。ほんとうの名前が刻まれていると私にも見える二つの目が欲しい。私は本にとって通過点なのだ。どこか遠いところへ本が行く為の。だから私がどれだけ沢山の本を手に取ろうが所有しようが、また所有し続けようが、私は永遠に遠くへは行けないのではないか。


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 一つの本棚と、半分の本棚(もう一つの本棚は、子どもと共有しているので)、それと二つの段ボール、それほど大きくない革のトランクに収まるだけの本を私は今、所有してはいるが、その中のどの本のことも、私は理解してはいないとわかっている。もしもっと理解していればずっと遠くへ行けたのだろうけれど、私には理解出来るほどの知に祝福されてはいない。言い訳だと言われればそうだと答えられるほどに私は厚顔無恥である。これは扉である。誰の為でもない扉である。開かなければどこへも行かれない扉である。理解するべきものではなく、いっそ感じる為のものである。

 私はなにも変わってはいない。未だに胸に代本板を抱いて足早に廊下を、しめった図書室に向かう子どもだった私と、どこも変わりはない。失い続けた本の名前を取り戻したくて、私はまた本を集めるのだろう。今日もまた本を買った。そこにある名前を見たくて。きちんとした通過点になりたくて。

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