2020年9月9日水曜日

くちびるよ語れ

 バブにほんのりとパウダーをはたいてあげる時、うすいまぶたにアイシャドウを塗る時、小さいくちびるにほんのりとグロスを塗ってあげる時……わたしは懐かしいデジャビュにおそわれる。いつのことかはもう思い出せないが、これは確かにわたしが知っている、かつてやったことがある動作だと気が付く。でも、すぐに現実に引き戻されてしまう。わたしの前で、そっと目をつぶっている小さいバブ。

 あの懐かしさに息が詰まりそうになる感情がなんだったのか、やっと思い出すことができたのは昨日のことだ。わたしはかつて、好きだった男の人にメイクをしたことがあった。出かけるかとなんとなく決めた日、わたしが小さい鏡の前でしていた化粧を、自分もしたいからやってみてほしいと望まれた時のこと。

「いいよ」と答えてわたしは彼の顔に、化粧水と乳液をつけ、下地を薄く伸ばした。ヒゲしか剃ったことがないであろう皮膚がわたしの前に突き出されている。長い間、夕方以降からしか出かけなかったせいだろうか白く、うっすら青みを帯びていて、煙草を吸っていた割にはかなり肌理が細かかったと思う。閉じた目には長い睫毛が揃っていて、薄い影を落としていた。いつだって彼は無防備だったが(でも、いつも閉じていた、無防備なのに少しだけ必ず距離があった。わたしたちはこの距離を肌で知っていたので、踏み込むことはしなかった)、この時ほどそうだった事はないと思う。

 ファンデーションを塗り広げ、パウダーで押さえてから、まぶたにはわたしがいつも使っていたアイシャドウを薄くはく。色は思い出せない。彼は目が大きくて二重だったから、わざわざアイラインを引くこともないだろうと思って、一段濃い色のアイシャドウだけを重ねた。ビューラーを使うか迷ったのは覚えているが、実際使ったかはもう思い出すことができない。でも多分使わなかったと思う。彼はそのままでもくるんとカールされたような、長い睫毛だったから。黒のマスカラをダマにならないように塗る時は、確か手が震えてしまったのではなかったか、なぜなら睫毛もとても美しかったから。

 化粧をされている間の彼は、本当に美しかった。目を閉じて、わたしが本当は四苦八苦しながら化粧をしているのに、完全にわたしに預けられていた。それまでにこんな風に無遠慮(だって顔に触れるのよ)に触ったことがあっただろうか?多分、なかった。顔に触れる以上のことをしておきながら、その頬を軽く抱くことはなかった。ほんの短い時間だったとはいえ、何もかもが無防備にそこにあった。そのまぶた、睫毛、濃い眉、つうっとした鼻筋、ほんの少しだけ開いていたくちびる、そこから覗く粒の大きい歯。どれも全てが完璧に彼だった。わたしが当時もっとロマンティストで、もっと他人に対して大胆であったなら、彼の顔のその全てに口づけの雨を降らせただろう!

 小心者のわたしは、とうとう彼への化粧を終えてしまった。「できた」と言うとゆっくりと目を開け、小さい鏡に映る自分の顔を角度を変えながら何度も覗き込んでいた。彼がその時何を言ったのかは、わたしの記憶にはもうない。一度で飽きたのか、わたしのメイクがそれほど劇的に顔を変えなかった事につまらなさを覚えたのか、それはもう永遠にわからない。わたしに残ったのは、美しい顔にそっと手を添えながら初めて他人にしたメイクの感触。それから強烈なデジャビュ。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...