ラベル フィラメント の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル フィラメント の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年8月1日日曜日

柘榴の半片

 一ヵ月前に僕たちは結婚した。簡素ではあるけれど妻の希望通りの小さなチャペルで結婚式を挙げ、盛大ではないけれど僕の希望したアットホームな披露宴を開いた。妻は美しかった。女神のように光り輝いて、女神よりもずっと幸せそうに微笑んだ。
 両親への花束贈呈のとき、義父は僕の肩に手を置いてゆっくりと頷く。僕もそれを見て同じように頷いた。けれど義母は僕を一瞥しただけですぐに視線を愛娘である妻に戻し、泣いてしまった。仕方がないね、と僕は気付かれないほど小さく肩をすくめる。もともと、僕は義母に好かれてはいない。娘を奪った不埒な男は恨まれるものだ、王子様でも乞食でも。例え神だとしても。

 僕はあの母親からは随分嫌われてしまった。四年をかけてゆっくりゆっくりと育った感情は、あの結婚式の日に爆発したことだろう。これまでずっと、一週間と離れたことのなかった娘が、家を出ていくのだ。遠い地へ旅立つのだ。男と、手に手を取って。振り向くこともなく。僕はそれが嬉しくてたまらない。横槍を入れてきたことも、かけられた様々な暴言も、今なら全て忘れられそうな気がする。むしろ感謝出来るかもしれない。

 一生の記念になる結婚式から四年前、小さなガーネットのリングとともに、僕は妻に結婚を前提とした付き合いを申し込んだ。つやつやとした、少女から女性への入り口にいた彼女によく映えるように選んだガーネットは、彼女の前ではくすんでしまうだろう。いや、贈り物用にとりぼんを箱にかけてもらって僕の手に渡された瞬間から、色褪せてしまったのが僕にはわかった。とは言えこういうことには形が必要だ。愛の形、美しさへの賛美の形、永遠の形。それらの容れ物としての何かが。当時僕はそれなりの企業に就職が決まったところで、彼女はまだ二十歳そこそこ。ニザンに言わせれば「一番美しいなんて言わせない」年頃だけれど、やっぱり、美しいのだ。若さという光が身体の内側から溢れ、老いを知らない肌を通して彼女自身が、光の中でもほのかに発光しているようだった。いや、光っていた。どこに居ても、僕は彼女を見つけることが出来るのだから。

 僕が妻を初めて見たのはサークルでだった。ただのんべんだらりと映画の話をしている、ありきたりの大学内サークル。それなりにサークル活動にも慣れ、満喫していた頃だった。そこに、彼女が来たのだ。その時から彼女は光を纏っていた。

 新入生歓迎のコンパで、始まって一時間足らずで妻は(当時はまだ挨拶程度しかしたことはなかったけれど)堂々と「母が心配しますので」と宣ったのだ。同じ新入生の女の子たちが揃って「もう少しいいじゃない、しらけちゃうわよ」と止めてはみても、彼女は首を縦に振るどころか素早く財布を出し、サークル部長に願い出て帰ってしまった。ある時など帰りが遅いことを心配した母親が、大学の門の前で待っていたこともあった。

 それでも彼女はサークル内でひどく浮くことはなかった。本当に忙しいときに、誰かがちくりと「門限」に対して苦言を呈することはあっても、それ以上は言わない。が悪く言われないように会話の中で僕はほんの少し、誘導していた。道しるべを変えて、旅人を迷わせるピクシーの気分だった。僅かな角度の差でその延長線上では大きな開きが出来るように、彼女ではなく彼女の母が「あり得ない」存在なのだという話に変わっていく。そして彼女は心から同情されるのだ。

 やがて周りからゆっくりとゼリーが固まるように、冬が始まる頃に僕たちは付き合い始めた。その頃から僕は彼女に対しても、少しずつ道しるべをずらすことにした。難しいことではない。ほんの少しのほころびが、糸を引っ張るとぱららっとほどけていくようなものだ。やがて彼女の「門限」も少しずつ緩み、彼女が母親とばかり行動する時間も減り始め、逆に僕との時間が増えていった。もういいだろう、と僕が決心したのもその頃のことで、内定をもらったことがアクセルを踏み込むきっかけになったというわけだ。

 初めの年には小さなリングを。
 次の年にはそれに似合う少し大ぶりのネックレスを。
 その次の年には、小さな耳たぶに釣り合うピアスを。
 そして結婚を決める直前には、婚約指輪とは別にもう一つリングを。
 全て、ガーネットで。
 
 ガーネットは柘榴石。柘榴が象徴する物は生命と出産、そしてそれらの副産物としての結婚。僕はガーネットに呪いをこめたのだ。彼女が母親から少しずつ遠く離れていけるように。冥界の王ハデスがペルセポネに、結婚を想起させる柘榴を食べさせて娶ったように。必ずあの母親を捨てて僕の元へ来るように、と。その為にも僕は海外への赴任のある企業を選んだのだ。やっと僕にも海外赴任が決まった。日本を、家を、あの母親を、物理的にも精神的にも置いていくのだ。黄泉の国へ下るような、ひやりとした悦楽。ため息がこぼれそうだ。梶井基次郎の言う「爽快な戦慄」とはこのことかもしれない。

 僕は四年の月日をかけて、四度のガーネットをもって君をペルセポネにしたのだよ。義母にとっての妻は太陽であり揺れる新芽であり澄んだ泉だったのだろうけれど、それは僕にとっても同じこと。僕の世界の中で彼女は太陽になり芽吹いた新芽になり、そして命を湛える泉になるのだから。例えその世界が黄泉の国だとしても。
「汝の唇は紅色のいとすじのごとく、その口は美はし。汝の頬はベールのうしろにありて、柘榴の半片に似たり」
 僕の呟きに君はにこりと首をかしげて笑う。さあその白い手で、僕の手を取っておくれ。いくつでも君に柘榴をあげよう。君は僕のペルセポネなのだ。

2021年3月9日火曜日

明け烏コットに並ぶみどりごの泣き声止まぬマリアらの国

たまに夜中遅くまで起きていたり、電気を消し忘れて寝てしまった事に気付いたりすると、産前産後に総合病院の産科に入院していた頃のことを思い出す。こうこうとついた電灯の下で、おかあさんたちが円形に座って赤ん坊にお乳をやっていた、授乳室のこと。

生まれたての赤ん坊だから時間に関係なくふにゃふにゃとお乳を欲しがる。その都度行っていたわけではないけれど、夜中は病室で区切られたカーテンの中にいると世界に取り残された気分がして、それで授乳室まで赤ん坊を寝かしているコットをコロコロ押してそこに行った。

授乳室は大体いつも四、五人の赤ん坊とそのおかあさんたちが集まる。眠りながら乳を吸う赤ん坊のほおをつついて、赤ん坊にとって不慣れな授乳をしている。そこでは誰もがただの生まれたてのおかあさんだった。

誰の顔も晴れやかで、美しかった。産後の興奮などでつやつやと光っていた。初子でぎこちない手つき、既にきょうだいがいて、思い出しながらの手慣れた手つき。でもそれは全て母の手つきにわたしには映った。溢れてくる保護欲の、(それがあるとしたら)母性本能のほとばしる手つきだった。彼女たちは疲れているようでもどこか誇らしげで、同時に慈愛に満ちているように見えたから、授乳室は聖母マリアたちの国のようだと思ったものだった。

もう思い出せないほど遠い昔のような気がするし、同時につい昨日のような気もする。ふわふわのおまんじゅうみたいにつぶれてしまいそうな新生児を抱いていたまよなか、この先この子に起こるかもしれない事について、モヤモヤしていたから(だっていのちを産んでしまったから。せめて幸せであってほしかったし、それでも迎えるだろう不幸を思うと辛かったから)不安に乗っ取られそうになったけれど、それはそれで幸せだった。

何もしたいと思わなかった。本も他人も家族すらどうでもよかった。ただこの小さな赤ん坊を抱いてずっと見ていたかった。柔らかなほおを撫で、小さな手に指を掴ませて、乳を含ませたまま、そのままどこかへ沈んでしまいたかった。いのちそのものである赤ん坊を抱いたまま、夜に、朝日の中に、夏の中に、溶けていきたかった。

溶けなかったわたしたちは、すっかり熱もさめ、別々の人として暮らしている。あの頃のわたしのような状態を愛と呼んでいいのかはわからない。ただ湧き上がる泉そのものだった。

2020年8月1日土曜日

フェアリーサークル

    多分わたしは、多分ではなくもうずっと、処女でなくなったあの日あの時間からずっと、男の体を持って生まれ、女を抱くことができる男がずっと嫌いで、特に一夜でもベッドを共にできるような相手(というとても限定的な“男”。わたしを対等の人間として見ていない“男”。男といういきもの全てというわけではない、多分)を汚してやりたくてたまらなかったのだろうし、その相手はわたしと同等の生物ではなくて下等だと思いこみたかったのだと思う。関係を切るためにもそれを使うことがあった。最後の「贈り物」代わり。たっぷりとお土産を持たせた良い気分にしてあげるのだから、二度と関わらないで、これ以上あなたと関わるとわたしが「けがれる」。

 なぜそこまで過去に関係のあった男たちを嫌うことができるのかというと、わたしは一度も彼らに「同意」したことがなかったからだ。同意したのは、「この関係は必ず切る」と決意したもう一人のわたしだったからだ。彼らの性欲や征服欲が、まったく無価値だからだ。わたしの仕草や声の調子が全て“彼らが望む女と思われる姿を、わたしが演じていたもの”だと見抜かず、せっせと唯一の目的に向かって運動する間抜けだからだ。笑みをたたえて黙って肉に徹してくれればまだ……それはわたしが人を愛さないからだし、愛されたことがなかったからだし、愛を理解しないからかもしれない。でもそうだとしても、彼らはわたしを利用するのだからおあいこだ。もっと酷い目にあってもらってもいいくらいだとも思えてくる。だって男は男というだけで既に許されてるのだもの。女は違う。聖書でもそう。女であるだけで、いつも罰を受けているみたいだった、若い頃は特に。

 男にも女にもなりたくなかったのに、わたしを都合よく使おうとする男はいつも、わたしに女を求める。

 わたしに対して一度でも馬っ気を出した者は、表面ではそう扱わなくても、全てわたしの中で目の前で消えて欲しい人リスト入りした。この先関わることがあるとして(決してないが)、どんなに善きことを成したとしても、どんなに人のために尽くすことがあったとしても、わたしを踏んだことはかわらないから、そのリストからは外すことはない。どんなに立派になろうがどんなに落ちぶれようが、わたしと関係のあった彼らは等しく無価値だからだ。

「ぼく本当はそんな性欲ないんだよ」と言いながらいそいそとシャワーに向かう男の背中はみんな同じだった。白けきったわたしはベッドから後ろ姿に心の中で中指を立てていた。あつかましい割には貧乏性な性欲を持つ彼らは大抵マッチョではなく、けれどセックスの場面で男として扱われる事には渇望していた、とわたしは考えている。そういう望みを持つ男の、希望を、隠しきれずに沸き立った欲望を、全部めちゃくちゃにしてやりたかった。お前の欲望など価値のかけらもない、醜く滑稽な己自身が映っている鏡を、今ここでお前に見せてやりたいとどんなに望んだことか。

 まるで、自分はそれを望んだ事は一度もないが「せっかくおねだりされているのだから、してあげる」という態度をとる男たちの言う事も顔つきも、時代が変わっても出身地が違っていても年齢が上がっていっても、ほとんど一緒だった。彼らはどこで繋がっているのだろう、雨の後に現れるキノコの輪のようじゃない?

 性欲はないと既にごまかしている限定的な“彼ら”には、疲れさせられるだけ。いったい何に、誰に、申し開いているのだろう、どうして言い訳や理屈をつけるのだろう、わたしに対して?違うわね。自分自身が属しているつもりの、他の男たちに対して?きっとそう。自分自身の欲求に素直になればいいのに!認められたいのはわたしからの「あなたこそが女を抱ける男である」ではなく、女を抱く身体を持った他の男たちからの承認ではなくて?どっちみちわたしは彼らを見下すことは変わらないけれど。彼らはとてもよく似ていた。言う事もする事も手順も、後ろ姿も笑い方も。キノコのようによく似ていた。


(三年ほど前、ずっとずっと怒っていたことに気づいた時に連続投稿したツイートを、少し整えました)

2019年1月3日木曜日

洪水を待つノアの箱舟(過去日記からの転載)

「20090107」
 暖かな昼下がり(それはサンルームのような洋間で、南向きだから冬でもたくさん陽が入る)、一人で子どもを抱いていると、或いはやっと寝付いた子どもをそっとベッドに降ろして毛布をかけてやると、宇宙から地球から重力から見放されたような、でも、逆に宇宙からまじまじと覗きこまれているような気分になる。宇宙においていかれたこどものような、頼りなげなあぶなげな。もちろん宇宙から覗かれたこともなければ置いていかれたことなどないはずだし、今はもういい年の大人なのに、それら穏やかな感情のふるえにすぐに応対できずに言葉通りに立ちつくしてしまう。 

 身体の隙間にすうっと空気が入ってきて、その隙間から身体の内側をゆっくりと押し広げられたようにぽかんとした気持ちになる。一日の内の、もの悲しそうな日の入り間近ではなく、家々が俯いて眠る厳かな夜明けでもない。充足した昼下がりを狙って“それ”は起きる。ざわざわとした、髪の毛がぱりぱりと帯電しつつあるように、晴れているのに西の空には不穏な雲が湧いているように、じわじわと周りを固めてからゆっくりと一呑みにするのだ。

 あ、と思う。いけない。でもそう思った瞬間は身体がもう傾いでいる。自転車で転ぶ瞬間のように、「あ」と思ったときすでに世界が回転して止められないのと同じ。子どもの頃は世界が広すぎて、ただそれだけで絶望出来てしまった。今は逆で自分の身体が、自分には大きすぎて身動きが取れなくてガリバーになってしまったのだ。へたへたと座り込んで頭を抱える。

 時間が煮こごりのようにぷりぷりと固まった部屋の窓から外をただ眺めて、きゅうっと奥歯を噛む。神様が起こした大洪水をなんとかやり過ごそうとじっと外を伺っているノア達は、どんな風に沢山の夜と暗い昼を過ごしたのだろう。膝を抱えて?手に手を取って?ざわめき出す動物たちをどうやって宥めたのだろう。鞭を使って?伝染してやがて絶望にまで成長する“不安”のなかで?それとも――恐ろしさに震えながら、本当に雨が止んで水が引くのかと、疑いに踏みつぶされそうになるこころをどうやって奮い立たせていたのだろう。

 一体私はどこへ行く為に方舟に乗り込んだのだろう。乗り込んだからには進むしかない。まだ水位は低いけれどもう海へ出てしまった。子どもは私という方舟からゆっくりと降りて次は、世界という方舟に乗る。私と子どもを乗せた方舟の、辿り着く先はどこだろう?そこは明るいところだろうか?鳩がオリーブをくわえてかえって来れるような場所だろうか?私が捧げられるものは私しかないけれど、それでも虹はかかるだろうか?私は、私は――。それでも多分洪水を待っている。いっそ洪水が起きればいいのだ、雨など止む必要はないのだと思いながら待っている。ここなら大丈夫、雨の間は大丈夫。何故なら方舟だから。

2018年12月31日月曜日

西日のノスタルジア(過去日記からの転載)

「20080831」
 ずっと自分が不幸だと思っていたし、仮に幸せになったとしたら、その幸せに胡座をかいてもっと大きな幸せを、最上の幸せをとどんどん高望みをして、足下を見なくなって結局転がり落ちる、わたしはタロットカードの愚者の逆位置になるだろう。今目の前にあること以外の何も考えたくないし最低限するべきこと以外何もしたくない。なにも。ただ窓際に座って西日を見ていたい。

 西日が駆り立てるのはノスタルジア。子供だった頃でさえも「全てが懐かしい」と思わせる傾きかけた金色の光は、穏やかな海を金色に染めているだろう。西日はいつもわたしにある感情を抱かせる。その感情には名前をつけ難い。名前のない感情としか言葉にならないししようがないのだ。切ないと言えば確かに切ないけれど、それはもっと暖かみのある切なさで、物悲しいといえば物悲しいのだけれど、柔らかな愛しさを内包した物悲しさで、幽かにもの狂おしい。みぞおちの辺りをきゅっと優しく掴まれた気がする。ずっと昔からこの感情をわたしは知っていたし、これから先もずっと、忘れることはない。西日が差す度に「生きていることさえももう懐かしい」と思うのだ。

 わたしは「懐かしい」と金色の光の中で娘を抱く度に思う。この子がまだこの世界に出現する以前のことを、わたしの中でゆるやかに成長していた頃を、重くなったお腹を抱えて日々、この世の終わりのように泣きながら過ごしていた頃を。ほんの二ヵ月前のことが随分遠い過去のようだ。寝顔には過去から繋がっている未来が見える。まだ未確定な未来。未だ来ていない時間。

2018年2月19日月曜日

その年のクリスマスは

2017.12.24

 待降節に入った日から、「今年はどうあっても、クリスマスミサに与らねばならない」という気持ちが日々募っていた。この日はほんらいなら二つの意味で記念すべきお誕生日なのだ!まだわかいばか者としてふらふらしていた頃に与ったクリスマスミサを、わたしは今も新鮮な気持ちで思い出す。週に一度聖書勉強会に出席していながら、愛のことも神様のことも永遠のこともちっともわからなかったし、わからないくせにわかったような気分を時々感じていた頃のこと。

 その年の12月24日の夜7時、ヘッドライトとテールライトが明るい通りを尻目に、わたしは一目散に河原町教会を目指して走っていた。陽は落ちて空は青黒く、呼吸をするたび冷たい空気が肺を通って、それは冬が全身に巡っているようでもあった。西洞院に住んでいた頃のことだ。あの頃はどこへ行くにも大抵徒歩だった。いつもの通りだらだらと歩いていたのだけれど、部屋を出る頃にぐずぐずし過ぎたせいで気付いた時は七時数分前。どのみち遅刻することは決まっているようなものだったが、走らずにいられない時というものは、体力もなく足も遅いわたしにも存在するのだった。

 たくさんの人で溢れていた聖堂にこそこそと入り込んで聖歌を歌い、祝福を授けてくださる方の列(もう片方は聖体拝領の列)に並んで祝福をいただいてから、人の流れに沿って聖堂を出る。出入り口では紙を巻いて簡素な風除けにした背の低い蝋燭が一人一本配られた。前庭でしばらく待つようにとアナウンスがあり、吹き付ける寒風の中はやる気持ちを足踏みに変えて待っていると、隣の人の蝋燭からわたしの持った蝋燭へ火を移された。わたしもまた反対側の隣の人へ火を移す。小さく灯った光がひとびとの顔を美しく照らす。笑みをたたえて輝いていた。蝋燭から蝋燭へと光が分け合われ、その小さな火がどんなにあたたかな、明るい光かを初めて知った夜だった。

2017.12.25

 月曜日で仕事は休みではなかったのだけれど、急遽半休をとって教会へ行くことにした。わたしの住む町は東西に長いので、教会がふたつあって司祭様はひとり。普段の御ミサも時間をずらして行われている。クリスマスから元旦にかけての教会行事案内は数日前にポストに届いていたが、封を切ったのはつい二日ほど前の朝の事。納戸のような部屋へ上がる寒い階段に置きっ放しにしていたので、封筒も案内もしっとりと冷たくなっていた。イブの御ミサは行ったことがない方の教会で行われる事になっていたので、少し迷ったが結局は行かなかった。しばらく通っていた方の教会の御ミサは翌日の朝の予定で、もう何年も離れていたのだし、このまま…と思わないでもなかったが、明け方ごろに目が覚めた時にどうしても御ミサに与るべきだと思ったのだ。夜はまだ明けきっていなくてロールカーテンの隙間から見えた世界は青く沈んでいた。星は見えず世界で音を立てているのは、やみ時を逸したような雨だけだった。

 扉の前で一瞬ひるみ、やっぱり帰ろうかと思いはしたが、聖堂に入れば思い煩うこともなくなってしまった。心を過ぎる憂いごとは流星雨のように降り続くにしても、交わした約束を思い出しさえすれば勇敢な気持ちになったし、また心強く歩けそうな気もした。行かない理由はわたし自身の暗さでしかなかった。仕事先に向かう途中、少し長いトンネルを走りながら今日の司祭様の説教を、河原町教会で分け合われた蝋燭の火のことを思い出していた。小さくても光は暗闇の中で輝いている。いまわたしの前を走る車もまた、薄暗いトンネルを半円に照らしながら、ヘッドライトとほぼ同時に進んでいく。闇を割って光と共に進むひとを後ろから見ると、このように見えるのだろうか?わたしもまた後から来るひとから見れば光と共に歩んでいるのだろうか?

2017年5月13日土曜日

(覆された宝石)五月の冠

 五月。鬱蒼と茂った(と、形容してもいいほどに育った)木香薔薇が次々と開いていくので、爽やかな甘さが庭に揺蕩っている。白い木香薔薇なので、空気の澄んだ時間に、特によく香る気がする。植えた二年目までは伸びるばかりで花をつけなかったが、さらに次の年から濃い緑の茂みに星が灯ったように咲き始めた。今では満天の星空と言ってもいい。花は今しかないのだと湧いて咲きこぼれていく。朝、ああ次はこれが開くのだなと思っていた蕾は、夕、もう既に中心を黒ずませている。それが本当に朝見かけた蕾だったら、ではあるけれど。やわらかい残り香の中でいつも、わたしは木香薔薇の時に追いつけないままだ。

 今日は過去にわたしが想像した「未来のとある日」でもあり、未来のわたしが思い出している「とある過去の日」でもある。こころだけが軽々と、時を超越して未来と過去を行き来してしまう。じゅうねんを生き延びて次のじゅうねんへと、区切ってみたその日のことを、わたしはもう覚えていない。どれも同じように、輝きに溢れた重くだるい五月だったし、これからもそうだろう。五月は読書は絶対にはかどらないし、はかどらなくてもいいと思っている。そして今ちょうどよい本を借りていて、ただぼんやりとした重い時の流れの中で文字を追いかけている。クロウリーの『リトル、ビッグ』はいつまでも読み続けていられる、小さな魔法の大きな物語だ。

 冬の終わり、路肩に雪が残っていた時にグレイッシュだった風は、とうとう透明になった。草むらを抜ける五月の風は細い糸のようになって、わたしを季節に縫い止める。
 (覆された宝石)のように輝く光は全てのいきものへの贈り物、毎日が戴冠式のようだ。華やかで美しく、騒がしいのに厳か。本当はいないのに、どこかにはいる誰かの大きな手から、見えない季節の冠をわたしもかぶせられているのだろうか。

2017年4月5日水曜日

第十二レース(場外馬券売り場)

「なんというかエキセントリックで」
 エキセントリック!今時その言葉を使ってわたしという一人を定義しようとするなんて、わたしの方が驚きだ。わたしに向かって真摯な態度を取ろうとしているのはわかった。何を言いたいつもりなのか、もじもじではあるがゆっくりと言葉を選ぶその態度こそがわたしを、苛立たせる。面白いことを言うのね、わたしは初めて、あなたの冗談で笑えそうだ、心から。是非その続きを聞かせてくださらない。

「……御し難い」
 自分は騎手で、わたしは馬だという意味でいいのだろうか?わたしたちは楽しく走るコンビでありたいと願っていた。だからこそわたしはあなたに騎手であって欲しがったことは一度もないし、あなたもそれを知っていたはずだと思ったのだけれど。よしんばわたしが才能のない暴れ馬だとしても、あなたは、まったく無能とは言わないけれど優秀な騎手ではない。優秀な騎手ほど、馬にお任せ、馬七、人三、あわせて十。走る馬は走るし、走らない馬は何をしても走らない。才能のない暴れ馬を御せるのは(しかし勝ちは難しい)、現役なら東西で約二名しか思い付かない。まさかとは思うのだけれど、あなたは自分がその騎手たちに並んでいるとでも言うのだろうか?

 こういうことを言いたがる相手は、わたしの正面にいながら必ず視線を外す。今わたしが正面からあなたを見つめている態度に対して、まるで狂った馬がいて、その馬は蹄で地面を掻き、突進しようとしている、目を合わせると隙を生む、と思っているように見える。それも間違っているとは言わないけれど。何故ならわたしはいつも黙って行うから。手元のストローの袋を所在無げにもてあそび、汗をかき始めたアイスコーヒーのグラスを傾け、唇を湿らして次の語が出てくるのをあなた自身も待っている。それがあなたの誠実さだ。わたしはいつまでも過去にこだわっていて、奔放でしかいられないわけではない。それはあなたがわたしをそう定義した瞬間からであり、あなたの中での小さな変化であり、常に黙って”受け入れている”ように映っていたわたしの中では、だいたいいつも何も変わっていない。

 いつあなたが(強いて言うなら凡庸で、派手な勝ち鞍もないが落馬もしない)騎手になって鞭をくれ、いつわたしが(出走ゲートに派手に体当たりし、レースをかき乱す)暴れ馬になったのだろう。今日はわたしたち二人の引退レースになるとでもいうの?わたしたちはいつも二頭の裸馬だったというのに。そして並びながら前に後ろに走っていたのに。(了/編集4.7)

2013年3月11日月曜日

灯台守

 三月、生温く艶かしい風が頬を撫で上げるように吹く。蛇口から迸る水は温んだ。山から漂うのは生臭い生の匂いばかりだ、視界は安っぽくがさがさと音を立てる裏地に似た薄物で覆われてしまい、享楽に耽っている最中の部屋を覗き見しているようで居心地が悪い。居心地の悪さの為なのか俯いてばかり居る。北風は行ってしまっただろう、清潔で埃っぽく決然とした雪はもう降らないのだ、しばらくは。また溶け残ってしまったのだ。

 明るい春の日と白い花曇の日々、消えた晩春。同じ名前の月を、広がる楕円軌道の年の中で繰り返しながら、結局はある年の春へ焦点を合わせている。残ってしまったのだ、と思うようになったのはあの十年前のことだろうか、それとももっと昔、或いは最近のことか。反物をするすると広げるように、生きていけば生きていくほど続く時間の中に差した待ち針は、どれがどれなのか誰が(私が?)何の為に差したのか曖昧になっていき、今はどこにいるのやら。

 雪の道を風を切って歩いていたのに、同じ距離を歩くのにも数度立ち止まる。幾つかがずれている、例えば歩調、例えば歩幅、例えば歩数。身体の中心にある(ある、と思われる)芯のような核のような、冷たく確固としたものが蕩け出していく。その程度の軟弱さでありながら、決して決壊しない身体という枠の内側で、たぷんたぷんと揺らしながら生きる。空っぽなはずの身体なのになんと重いこと。右に左に、脚を踏み出す度に揺れて船酔い、やはり私は船乗りではなく、愛を持たない灯台守で居たらよい。朽ちるまで佇んでいたらよいのだ。光も闇もなく、ただ立っていればいい。死ぬまでこの町を出ないと分ったのだから。

2012年6月10日日曜日

真夜中にバッハ

 彼に会った時、私はまだある呉服会社で事務員をしていたので、彼とだけ会う時に限らず人と会うのはいつも、仕事が終わってからだった。事務の仕事と銘打ってあるにも関わらず、基本的な事務の他にほんの少しデザインを弄ったり、展示会で使用する金糸銀糸の織り込まれた帯や絵羽(と呼ばれていたが実際は、試着が出来るようにごく簡単な仮縫いがしてある、仕立てていないが切ってはある反物)、ぎゅっと巻かれた重い反物、小物を出荷したり、何でもする仕事だったし営業兼スタイリストたちが社に戻るのは定時を過ぎてからだったので、結局定時などあるようでない、労働基準法などまったく無視された職場だったから、早くて20時、遅ければ24時をまわってからやっと帰宅を許される。それから人に会うのだった。

 彼は大抵昼間は眠っていた、と思う。そうでなければ絵を描いていた、と思う。或いはつまらなさそうに薬を飲んでいたか。もしそれもしていなかったら煙草を吸っていただろうし、詩を書いていただろうし、時折自分の楽器を触っていただろう。長く続けたバイオリンか、気紛れに始めたベースか、電子ピアノか。薄い楽譜は沢山あったが、大抵はバイオリンの教本だったように、今では思われる。彼はまるで野良猫のようだった。大きくて澄んだ瞳をしていて、髪の毛はふわふわと逆立っていた。ガリガリに痩せていて、時折たっぷり食べる。違うのは、腕の太い傷跡は喧嘩でついたものではなかったところだろうか。

「いる?おいでよ」とメールが携帯電話に入れば、私は飼いならされた犬のように駆けた。時には私も背中に、初心者用のバイオリンのセットを背負って、走っていった。夜の四条通りは薄明るく観光客は皆、ホテルで次の日のルートを確認しているような時間に、外を出歩いているのは、遊び慣れていない学生たちか、金はあっても遊び飽きた若い男女たちばかりだった。彼等がフラフラ歩くのを横目に見ながらバイオリンケースをごとごと揺らして、アパートまで出向いた。

 特に何をするわけでもなかった。彼の持っている漫画を読んだり、風呂に入ったり、身体に絵を描いてもらったり、二人とも気侭に夜を過した。彼の気が向けばバイオリンを弾いてくれたし、私に少し教えてもくれた。身に付かなかったがエレクトーンを習っていたので、楽譜は読めたし正しい音は分る(が、バイオリンでは正しいAもなかなか出せなかった、それでも続けたかったのは働いている理由が生活の他に必要だったからだ)。すぐに出来るようになるよと教えてくれたのが、バッハのメヌエットト長調BWV.Anh.114だったので狂ったようにそればかり弾いた。弦を押さえた指に正しい音は留まらず、外れて、溢れて流れてしまうけれど。

 やっと捕まえた音でも次の指も必ず正しい音を摘めるわけではない、ごく初心者の私に、彼は根気よくはなかったが、同じバイオリンからまったく違う音が出てくるのが面白くて、何度も強請って弾いてもらう。たどたどしく私は彼の音を追いかけてまた調子っぱずれの音を弓から弦から放出する。それの繰り返しだった。それでもそれがとても楽しかった。ビブラートさえできなかったが、真夜中であること、楽譜を読むこと、バッハであることが。(バッハだって真夜中にはレッスンをしなかっただろう!)

 彼はもう居ないし、私ももうバイオリンを何年も触らないでいる。きっとひどい音がするだろう、音叉での調音もしていないままだ。彼に合わせて夜中をいつも、駆けて、歩いて、明け方に転寝して、それでちょうど良かった。狂い始めた音は、今はもうすっかり狂っていて、そして私はその狂った音に慣れてしまった。それとも、あの頃の音は狂っていたのか、今が正しい音なのか。どちらにしても、もう真夜中にバッハは弾かない。

2011年7月25日月曜日

うつくしく、べそっかきで、たびにでる私のこども

 Monday's child is fair of face,
 Tuesday's child is full of grace,
 Wednesday's child is full of woe,
 Thursday's child has far to go,
 Friday's child is loving and giving,
 Saturday's child works hard for a living,
 And the child that is born on the Sabbath day
 Is bonny and blithe, and good and gay.

 うつくしいのは げつようびのこども
 ひんのいいのは かようびのこども
 べそをかくのは すいようびのこども
 たびにでるのは もくようびのこども
 ほれっぽいのは きんようびのこども
 くろうするのは どようびのこども
 かわいく あかるく きだてのいいのは
 おやすみのひに うまれたこども

 私のプスティニア、こどもはげつようびうまれ、その名に恥じないうつくしいこども。保育所に勇敢に通う。この世に生まれて三年目、だから四年前の事はまったく知らない。それはそれで不思議ではある。本人は居なかったのに過去(私という生みの親)が在る、ということ。それは私も同じ事だ。四年前は、私が赤子を抱くなど、考えた事はなかった。

 子どもを産むということを、私は憎悪していた。出産そのものではなく、それに付随する幸せを、憧れるあまりに憎悪していた。縁遠いのだ。誰も私のような女を妻には娶るまい(実際一瞬だけしか娶られなかった)。幸せに縁を切られているのは薄々承知している。生きにくさを誰に伝えてよいかもわからず、またそれを伝える人もいない。お腹の大きな女性を見る度に、微笑ましさと同時に羨ましさでわめきたいくらいに、身体の内側から溢れるごちゃごちゃの感情。乾いているようでいながら、その嫉妬とも憧憬ともとれる私の感情。彼女たちははち切れそうなお腹を抱えて輝かんばかりなのに、私は醜く卑しい感情を孕んでいる。これほど醜い女が子を孕むなど、あり得ない。それは地獄に堕ちた亡者が天国に憧れて身を焦がすほど烏滸がましい。私はそう言い聞かせ、憧れを深く心に押し込めた。誰が、一体誰が、私を大事にしたいと思うのか。自分自身すら大事にしたことがないというのに?

 子どもを愛せるのかということ以前に、自分の身体の中に自分とは別の人間が出来つつある、ということに慣れず、だから胎児がエイリアンであってもおかしくないような気がしていた。私を食い破って出てくればいい、その方がまだ私が私のままの精神の均衡を保てるだろう、とも。

 しかし、こどもは生まれた——いつの間にか人間の形を取るようになり、人間になった。私の祈りでもあるこども。私の幸せはお前の幸せではなく、またお前の幸せはお前だけのもの。さあ、歩いていくのだ、私などに何を言われなくとも、どこまででも。美しく、べそっかきの、旅に出る私のこども。

2011年5月23日月曜日

「マルガリタはラテン語で真珠の事ですよ」と神父さまは仰った。

 私の洗礼名は「コルトナのマルガリタ」で、乙女殉教者の聖マルガリタとは別の女性だ。わざわざそのメジャーな聖人の名前を選ばなかったのは、その頃、私は“幸せな”妊婦になる事はないだろうと思っていたからだ(乙女殉教者マルガリタは妊婦の守護者でもある)。実際幸せな妊婦にはなれなかった。それを悔いているわけではない。私がその時、神様を忘れた事を悔いてはいるが。もう一人のマルガリタは放蕩者、娼婦だった。幼いうちに実母と死に別れ、実家を飛び出るまでは継母に虐げられる。城主の妾として数年過ごし、その間に子どもも産んでいる。城主が殺されると再び実家に戻るが実父からも継母からも酷く拒否された。彼女が最後に助けを求めたのはコルトナの町の修道院で、そこで初めて受け入れられ、神に仕えともに生きる悦びを知る……。

 何処ででも、泥水を舐めても生きていけるんじゃないかと思っていた。実際はでも、何に受け入れられたいのかも知らないまま、日々ふらふらと生きていただけ。高潔なふりをしていただけ。いい加減、何処に行っても「ここじゃない」、「これは間違っている!」と思いたくなかった。「間違っている」というのは、私が決して幸せになれない事ではなくて、私が、「間違っている」と思う事が間違っている、という事。ブラッドベリやカーヴァーのようには辻褄が合っていないという事。

 途切れ途切れに続けていた聖書の勉強に本腰を入れたのは、トウキョウへ上京してからの事だ。練馬区と杉並区と中野区が入り乱れる場所にあったその部屋は、下井草教会が随分近かった。千川通りをひょいと超え、左手側にコンビニエンスストア、右手側に畑を見ながら住宅地を進む。右に曲がると、ミントグリーンの尖塔、白い壁の教会が現れる。何とかなりそうなギリギリの家賃で、仲介業者からたった一軒だけ提示されたそのアパートの傍に、教会があるとは!きっとここが、私の探していた真珠の門だ。他の店を回る事もせずに、ほとんど即決で金を下ろしてその部屋を借りた。引越が落ち着くとすぐに教会へ出向いた。洗礼を、今度こそ受けると決めていた。

 降誕祭が近づくと、毎週水曜日の午後の教理問答もいよいよ終わり、洗礼式の為の代母も決まった。洗礼式の前に、数々の後悔も、希望の為に知った絶望もここで洗う為に、私の、もう一つの名前を決める。私は成人洗礼になるから、自分で選び自分で決めた。それが「マルガリタ」だった。長身で、淡いブルーグレイの瞳をした東欧出身の神父さまは、それを聞いて「とても良い名前を選びました。マルガリタはラテン語で真珠の事ですよ」と仰った。ミルク色に輝く真珠の核は、真珠層を持った貝には異物でしかない。けれど真珠層が幾重にも包み、元の異物ではなく真珠になりますね。そして私たちは真珠の門を通って天国へ行きます。後悔していることがある、哀しみを忘れられない、と初めに私に言ったあなたは、その名前を選びました、と。

2010年5月26日水曜日

Dance In The Turf 競馬場のはなし

東京優駿(とうきょうゆうしゅん)とは日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場の芝2400mで施行する競馬の重賞競走である。

一般的にはレース名の副称である日本ダービーの名で広く知られており、現在の日本の競馬においてその代名詞とも言える競走である。「競馬の祭典」という呼称もマスコミが広く用いている。

1932 年(昭和7年)にイギリスのクラシック競走であるダービーステークスを範して創設された、日本で最も古くから同一条件で開催されている競走の一つで、毎年5月末頃に開催され、春の皐月賞、秋の菊花賞とともに三冠競走を構成する。

出走資格は3歳の牡馬・牝馬の競走馬だけに与えられ、去勢された馬は出走権がない。

日本の3歳(旧4歳)馬の代表決定戦であり、日本の全てのホースマンが憧れる最高の舞台である。騎手にとっては本競走を制すと晴れてダービージョッキーの仲間入りを果たすことができる。

1973 年(昭和48年)までは日本国内の最高賞金額で、名実ともに日本最大最高の競走だった。[1]現在は、賞金額においては国際競走であるジャパンカップ、全ての馬に出走権のある有馬記念に次ぐ3番目となっている。格付においては、2010年から国際統一規格で最高格となるGIとなる予定である。

wikipedia 東京優駿

 ここ数日何だか落ち着かない、と感じていたのは、ダービー(東京優駿)が近づいてきたからで、何故そのダービーが近づいたごとき(ごとき、というのは語弊がある、何故ならダービーは多くの競馬ファンには心躍る競馬の祭典なのである。G1。グレードワン。毎年一万頭近い仔馬が生まれ、その中で中央競馬で活躍出来る馬はごく限られているのだ。活躍出来る、というのは賞金を稼いでこられる、という意味でもあるし、アイドルのように競馬のイメージホースになる馬になれる、ということでもある。)で心がざわついて仕方がないのか、というと、一人で初めて競馬場に行ったのがダービーだったからだ。

 当時京都市内に住んでいたので東京まで行けるほどの財力も瞬発力もなく、だから私は淀(京都競馬場/京阪電車淀駅は土日だけ人の乗降が驚くほど多くなる不思議な駅だ)のターフビジョンで観たのだけれども、どうしてか行こうという気になったのはその年の五月にKが亡くなったからで、ずっと「競馬場に行ってレース見よう!」と約束めいたことをしていたからだった。

 Kの西日本にあるご実家まで行ってお線香をあげてからは毎日が、どろどろと寝ているのか起きているのかよくわからない、ほとんど酩酊状態だった私をそこまで何とか引き揚げたのは、当時は競馬場だった。

 私とKといつも待ち合わせてごく僅かに競馬を楽しむのはいつも、祇園のWINSだった。
祇園のWINSという場所は少し変わった場所にある。投票券、という正式名称のつく馬券は、大抵百円から買える。どの組み合わせも百円から買っていいのだ。初めて買う人は大抵単勝、複勝という好きな馬一頭ずつ、なおかつ最低金額百円から買える馬券を買ったりする。ターフを駆ける天馬ディープインパクトが走っていた頃、沢山の人がディープインパクトと印字された馬券を買っただろう、あれと同じ買い方。
 でも祇園のWINSでは“しょば”代なのか、連勝単式、連勝複式の投票券を買うときは一組み合わせ千円から、といういっそ清々しいくらいの掛け金を要求される。当然見返りは大きいが、投資分も大きい。人が絶えるのは、全ての競馬番組が終わる夕方五時頃だった。それまではざわざわと人々が入れ替わり立ち替わる。

 それは花見小路をちょいと東に行ったところで、おおよそギャンブルにはそぐわない場所に建っている。すぐ近くには寺もあるような、ひっそりとした静かな場所なのだ。その花見小路の曲がり角には土日におじさんたちがたむろしている小さい喫茶店がある。その喫茶店がひとつの目印でもあった。石畳で町屋づくりの建物が並ぶ小径だ。置屋もあるしとても入れそうにない敷居の高い小料理屋もある。たまにその小径を歩く外国人観光客がいる。その為なのか小さな甘味屋もある。

 そこは、ある種異界であり職業のるつぼめいた場所だった。ふらりと休憩時間にやってきた板前さんが、あの白いうわっぱりを着たままで煙草をくわえながら馬券を買っていたり、夜の街へこれから消えていくような若くて少し派手なお姉さんを連れた羽振りの良さそうなおじさんもいたし、でも一番多かったのはごく普通のおじさんばかり。たまに学生らしい若い人も連れ立っている。
買うレースもなくお金も使いたくなくてたまにぽつんと立っていると「次はな、これ。こいつが来るで。賭けてみ」と笑いながらおじさんに言われてその通りに賭けてみると本当に取れた馬券もあった。払い戻しが終わった頃にふらふら立っていると、また同じおじさんが札束をごそっとジャケットの胸ポケットに押し込んで「どや、来てたやろ」と笑っていた事も。

 もちろん毎週なんてとてもじゃないが行けなかったので大きめのレースのある時くらいだけだったけれど、そこはまるで京都であって京都ではない、一種の別世界だった。私はそこでちょくちょく大きなレースを見た。菊花賞、秋華賞、エリザベス女王杯、秋の天皇賞、ジャパンカップ、ジャパンカップダート、有馬記念、ジュベナイルフィリーズ、朝日杯。そしていくつもの小さな条件レース。帰る道すがらはいつも、「いつか競馬場に行こう」と二人の話が落ち着く。
 Kは「こんなん(WINS)とは全然ちゃうで」と言う。彼は地方競馬を見た事もあったらしい。こんな白っぽい、建物の中だけの狭い場所ではないのだと力説する。私は競馬場を想像してみた。けれどもどうにも上手く想像出来ない。JRAのサイトを見ても彼の話している「競馬場」とは上手く線で繋がらないのだ。その内に競馬場は私の憧れの場所になった。大抵の行ったことのない場所は、私にとってはいつも憧れの場所になるのだ。

 私には「いつか」で充分だった。果たされない約束がある方が未来が見えるようで、楽しかった。当然もうその恋は行き止りに近づいてはいたのだけれどーーそれでも充分だった。私は「いつか」を待っていた。待ってさえいれば必ず訪れてくれると、まるで王子様がお姫様を迎えに来るーーそして必ずハッピーエンドで閉じられるーー物語を読むように。自分から迎えに行けば良かったのに、「いつか」という響きに酔って甘えてしまった。
 Kが本当の本当にいなくなって、何をしても砂を掴んで投げているような気持ちでいた時に、ふと思い出したのがダービーだった。そうか、ダービーを観に行こうじゃないか。「いつか」を今にすればいいじゃないか、今更だけれど、Kはいないけれど、それでもやっぱり迎えに行こうじゃないか。
 身支度をして久しぶりにまともに外出したら、眩しかった。道路も、車も、信号機も、人の流れも。

 あの日ーー部屋に閉じこもろうと決めた日ーーはまだ春の名残があったのに季節はもう夏が羽化するのを待つばかりだ。蛹の中に閉じ込められるようなねばねばと纏わりつく湿度も、私にとっては懐かしくて新しい。ずっと部屋で泣いて寝て酒を飲んでばかりいた身体には少々辛かったけれど、その日のメインレースであるダービーを競馬場で観ようと淀へ向かった。Kが「こんなんとは全然ちゃうで」と顔を顰めながら話していた競馬場に、その思い出を持っていくのだ。その為には一人で行かなければならないし他言も無用だ。

 ダービーは府中の東京競馬場で行われるので、淀で観る、と言ってもターフビジョンでレースの様を観るだけだ。とは言っても年に数度ある祭典というかファンにとっては季節を知る儀式めいたものなので、人の出はまずまず多い。揉まれるほどではないけれどのんびりしていたら人とぶつかるくらいの人出ではあった。
 レースが始まる前に馬券を少し買って観客席に腰を下ろす。誰もが皆浮き足立っているのがわかる。時折苛立たしげに歩く人もいるが、大抵の人は楽しそうだった。いよいよレースが始まるとなると、ターフビジョンなのにファンファーレに合わせて手拍子も始まるしわあわあとお祭り騒ぎである。がっしゃんというゲートの開く音がして競走馬たちが飛び出す。それを観る人達はみな立ち上がっている(ターフビジョンで流されているだけの映像なのに!)。

 一頭の馬の鼻面がゴール板を横切ったところでレースは終わる。観客たちは景色が揺れるような歓声で皆思い思いに叫ぶ。私が主人公になる物語ならとりあえず主人公である私は涙を流すのだろうが、物語ではないし主人公でもないので涙は全く出なかった。それでよかった。あの場で泣けなくて本当によかった。

 久しぶりに外には出られたのだった。どういう切っ掛けであれ、Kのいない外に。

 これからはどこに行くにも一人で外に出る、それは恐ろしい事ではあった。けれどもよく考えれば私はいつも一人だった。誰といてさえ一人、けれど望んだ事だった。二人でいても、私(たち)は一人一人で歩いていたのだ。それを淋しく思った事はなかったのだから、何も哀しい事など、ない。

 日常は続く。私が生きている間はどんなに土嚢を積んだとしてもその流れには逆らう事も出来ないし、水の流れは止まることはない。
 Kはいない、私はいる。それだけ、ただそれだけ。
 お弔いなんかじゃ決してない。ただ行きたかっただけ。

 珍しくどこにもーー本屋にすらも!ーー寄り道をしないで帰宅して、ベッドに倒れ込んだ頃に緩やかに視界が滲んだが、久しぶりの化粧の所為だと立ち上がり、シャワーをすっかり浴びてから、眠った。何の夢も見ずに真っ暗な眠りの中に落ちた。くしゃくしゃに丸めて放り込んだ馬券の事も、わあわあと我を忘れるほどに叫んでいた人々の事も、盛り上がった筋肉を優雅に使って走る馬たちの事も思い出さずにただ、眠った。
 あれから何度かダービーを見た。同じように淀の競馬場で、ターフビジョンで。季節を知る為にも見たし純粋に好きな馬の応援の為にもだ。そして同じように眠った。違うのは「ねえ、今年のダービーはさ」と話しかける相手がKではない事だけだ。
 今年もまたダービーの季節が来た。けれども私は何の思いも持たずにそれを見る。それでいい、それくらいでちょうどいい。

滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...