Monday's child is fair of face,
Tuesday's child is full of grace,
Wednesday's child is full of woe,
Thursday's child has far to go,
Friday's child is loving and giving,
Saturday's child works hard for a living,
And the child that is born on the Sabbath day
Is bonny and blithe, and good and gay.
うつくしいのは げつようびのこども
ひんのいいのは かようびのこども
べそをかくのは すいようびのこども
たびにでるのは もくようびのこども
ほれっぽいのは きんようびのこども
くろうするのは どようびのこども
かわいく あかるく きだてのいいのは
おやすみのひに うまれたこども
私のプスティニア、こどもはげつようびうまれ、その名に恥じないうつくしいこども。保育所に勇敢に通う。この世に生まれて三年目、だから四年前の事はまったく知らない。それはそれで不思議ではある。本人は居なかったのに過去(私という生みの親)が在る、ということ。それは私も同じ事だ。四年前は、私が赤子を抱くなど、考えた事はなかった。
子どもを産むということを、私は憎悪していた。出産そのものではなく、それに付随する幸せを、憧れるあまりに憎悪していた。縁遠いのだ。誰も私のような女を妻には娶るまい(実際一瞬だけしか娶られなかった)。幸せに縁を切られているのは薄々承知している。生きにくさを誰に伝えてよいかもわからず、またそれを伝える人もいない。お腹の大きな女性を見る度に、微笑ましさと同時に羨ましさでわめきたいくらいに、身体の内側から溢れるごちゃごちゃの感情。乾いているようでいながら、その嫉妬とも憧憬ともとれる私の感情。彼女たちははち切れそうなお腹を抱えて輝かんばかりなのに、私は醜く卑しい感情を孕んでいる。これほど醜い女が子を孕むなど、あり得ない。それは地獄に堕ちた亡者が天国に憧れて身を焦がすほど烏滸がましい。私はそう言い聞かせ、憧れを深く心に押し込めた。誰が、一体誰が、私を大事にしたいと思うのか。自分自身すら大事にしたことがないというのに?
子どもを愛せるのかということ以前に、自分の身体の中に自分とは別の人間が出来つつある、ということに慣れず、だから胎児がエイリアンであってもおかしくないような気がしていた。私を食い破って出てくればいい、その方がまだ私が私のままの精神の均衡を保てるだろう、とも。
しかし、こどもは生まれた——いつの間にか人間の形を取るようになり、人間になった。私の祈りでもあるこども。私の幸せはお前の幸せではなく、またお前の幸せはお前だけのもの。さあ、歩いていくのだ、私などに何を言われなくとも、どこまででも。美しく、べそっかきの、旅に出る私のこども。
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