2017年5月13日土曜日

(覆された宝石)五月の冠

 五月。鬱蒼と茂った(と、形容してもいいほどに育った)木香薔薇が次々と開いていくので、爽やかな甘さが庭に揺蕩っている。白い木香薔薇なので、空気の澄んだ時間に、特によく香る気がする。植えた二年目までは伸びるばかりで花をつけなかったが、さらに次の年から濃い緑の茂みに星が灯ったように咲き始めた。今では満天の星空と言ってもいい。花は今しかないのだと湧いて咲きこぼれていく。朝、ああ次はこれが開くのだなと思っていた蕾は、夕、もう既に中心を黒ずませている。それが本当に朝見かけた蕾だったら、ではあるけれど。やわらかい残り香の中でいつも、わたしは木香薔薇の時に追いつけないままだ。

 今日は過去にわたしが想像した「未来のとある日」でもあり、未来のわたしが思い出している「とある過去の日」でもある。こころだけが軽々と、時を超越して未来と過去を行き来してしまう。じゅうねんを生き延びて次のじゅうねんへと、区切ってみたその日のことを、わたしはもう覚えていない。どれも同じように、輝きに溢れた重くだるい五月だったし、これからもそうだろう。五月は読書は絶対にはかどらないし、はかどらなくてもいいと思っている。そして今ちょうどよい本を借りていて、ただぼんやりとした重い時の流れの中で文字を追いかけている。クロウリーの『リトル、ビッグ』はいつまでも読み続けていられる、小さな魔法の大きな物語だ。

 冬の終わり、路肩に雪が残っていた時にグレイッシュだった風は、とうとう透明になった。草むらを抜ける五月の風は細い糸のようになって、わたしを季節に縫い止める。
 (覆された宝石)のように輝く光は全てのいきものへの贈り物、毎日が戴冠式のようだ。華やかで美しく、騒がしいのに厳か。本当はいないのに、どこかにはいる誰かの大きな手から、見えない季節の冠をわたしもかぶせられているのだろうか。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...