2017年9月24日日曜日

Le murmure

 例えばGoogle(でなくてもいいし、そうであってもいい)がインターネットにアクセスするそれぞれのユーザーごとにカスタマイズした「SNS」に人々がアクセスしているだけで、本当はフォロワーもフォロイーも存在していなくて、画面をひたすら眺めながら自分だけが発言し、存在しないフォロワーとフォロイーに話しかけているならそれでもいいのに、と思う。なんというか空想上のSFぽくて。でもあまり人と関わらずにポチポチとキーを打っているだけのわたしには、もしそうであってもあまり変わらないのだろう、きっと。わたしの呟きは他の誰でもないわたしに宛てているのだと思う。(数に入っていないと気がつくより、初めから数の中に入らないでいた方が消費も搾取もされない。)

2017年9月22日金曜日

(北風と一緒にいれば寒くなんかないのよ)

太陽は雲と靄の向こうで光っていて、山からは靄が立ち上っている。白くて明るい、冷たい朝にわたしも起きる。窓の外には五線譜の音符に似た電線のつばめ、運転席から横目で見えるかさかさに乾いて風に巻き上げられる枯葉、これらは皆秋だ。冬ほどぶ厚くないぽってりとした雲、その向こうに光があるのがよく分かる。薄明るい季節が始まった。この辺りは冬になると晴れる事がほとんどない。もったりと厚くて重い綿のような、ホワイト多めのグレイッシュな雲で空が覆われていくのだ。秋とは、雨と雪に降り籠められている、白い季節の前触れ。

2017年9月12日火曜日

爪を折った録音テープ(セロハンテープで修復済み)

  その人が完全に世界から失われたとわたしが知った日のことを、この数日間はずっとリプレイしていた。脚色しながら繰り返したので、もうオリジナルの過去はないだろう。オーバーダビングと言うのだろうか?繰り返し録音/録画して、テープそのものが劣化し始めているところにさらに劣化の追い込みをかけるように、二倍速三倍速で録音/録画していくように幾度も。

  わたしはいろいろなことを思い出しながら新しく上書きして、ダビングしたテープのような怪しいサブリミナル効果付きの記憶を得る。マッドビデオ。記憶のリソースの為に「誰か」と「会った」過去にも、新しく別の過去を上書きして、「誰にも」「会っていない」事にする。なのに残しておきたい記憶ほど粗くおぼろげになっていくのは何故なのだろう?

 わたしは過去を忘れたかった。わたしは過去に慰められたかった。わたしは過去を愛したかったし、過去に愛されていたと思いたかった。でもそうではないから、わたしはあり得なかった未来の為にあり得ない過去を新しく作っている。わたしの過去はこうして失われていくのだろう。やがてフィクションの過去だけが残る。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...