2011年12月18日日曜日

星柄の丸天井

 振り向いてばかりいる。子供の手を引いて保育所に向かう時。子供を保育士に託して仕事場へ向かう時。手を振り払って歩きたがった子供を歩かせた時。離乳食を台所で作っていた時。いつもそこには自分自身の歩みで揺れる、柔らかな髪の毛があった。湿った手のひら、うっすら膜の張った、みずいろのひとみ。そのみずいろはいつか濁るだろうか。

 あの子は私の前を歩くようになるだろう、そうして私を振り向く事もあるだろう(多分、或いは私の希望として)。夢はなく、けれど「昨日」それ自身はあった。昨日の顔を真正面から見つめた。昨日の顔はもう闇に塗れていて、どんな表情をしているのかわからない。「昨日」は「今日」に乗っ取られ、「今日」は「明日」に喰われていく。ランゴリアーズのように、振り向いても無、前を見ても無。

 うたごえ、諦め、報告、怒り、それら沢山の言動や感情はまた、子供の後ろをついて歩く。いつかは振り向いて気がつくだろう彼等を、あの子はいつ認知するだろう。私はそれらはマーレイの亡霊がつけていた太い鎖のようなものだと思っている。同じように子供の事もまた。どこにも行かない代わりに鎖を得たというのに、それでもまだ遠くを憧れて恋ていつか行けるものだと阿呆のように信じて……。けれども振り向いてばかりいる、鎖の音を半ば心地よく聞きながら。

 「今日」の内に「昨日」を振り向いてみても、「昨日」にも「そのまた昨日」にも、私は引っ掻き疵一つつけられなかった。その頬を撫でる事もなかった。「昨日」を見た私と同じように、私は誰かに見つけてほしかったし、また私が持つ何かを誰かに見つけてもらいたかった。虫のいい話……。こんな風に鎖をつけている女を引き揚げるには、神様くらいでなくちゃならないだろうにね?

 生者ばかりが歩き回っているここはとても怖い場所だ、そこで流されずに立っている為には、狂気を持っていなければ、きっと、のみ込まれていく。半分はでも、のみ込まれてしまいたいとも思う。この巻いた鎖とともに私も怖さと溶け合えば、何も怖くないはずだからだ。スノードームの外側は安全なのと同じで。

 安息日は暮れた。私はのみ込まれずにまた「昨日」を振り返って見るだろう。

2011年8月19日金曜日

ヤー、プチーツァ

 夜、少し散歩に出た。この頃不機嫌な娘の手を引いて、本当なら「夜は寝なさい」と言うべきところを言わずに、ほんの少しの散歩に出た。小さいとは言え、赤ん坊の頃から比べれば随分としっかり肉のついた、肉の奥に骨の出来た手を、二人ともきゅうっと握って、一段一段階段を下りる。かぽおん、かぽんと彼女の長靴は音を立てる。ほんの五分だけの二人の家出。ゆるい夜の気配をふんだんに含んだ風は、多分これは何かが発現する前の兆候で、実際数時間の後に雨が降り出した。雨は海から始まり山が覆われて、そして家々に降った。

 こんな風に夜の散歩をした事が、何度もあった。彼女とではなくてその当時付き合っていた男の人と、宛も無くふらっと歩き出し、そしてまたふらっと部屋へ戻った。手を繋いでいたときもあったし、一本のマフラーを二人でわけっこして歩いた事もあった(これは、首筋に風が入るのであんまりロマンチックではない)。とっぷりと酔って歩いた事もあったし、今夜のようにぬるい風の中を歩いて、アイスクリームを買って食べた事もあった。星を見た日もあったし、ただ夜露の降りた芝生を踏みに行っただけの日もあった。懐かしい、彼女のいない日の思い出。

 この頃彼女はなんだか発電している。ぴりぴりしていて身体に余った電気が、私に向かって放出される。きゅっと眉を上げて鼻の頭に皺を寄せることもある。ぴしゃん、と柔らかい手のひらがぶつけられることもある。多分、保育所で意に添わない事がいくつもあったのだろうし、それを自分の中で処理しきれないのだ。生まれて三年では、まだね。その十倍生きている私も出来ないのだから、仕方ない。わかってはいる。でももどかしい、それをぱっぱっと箒ではらってやりたいと思うが、上手くはいかない。出来るとして、ちりとりを構えるくらいか。

 親は全く、使い物にならないな、と思い、ああ、でも同じような事を母も思ったのだろうか、と考える。あの人は何もしないタイプではあるが、まあ考える事くらいはしただろうか(私はそういう幻想を抱かせて欲しいものなのだ、いつまでも。絶対的な母なる存在を憧れ続けている、大文字のMで始まるマザー・コンプレックスにとっては)。それが彼女の足下から昇る、かぽおん、かぽんという音と相まって、入れ子の小箱に母が、母の母、私の祖母が、祖母の母が、私が、娘が、娘がいつか生むかもしれない子供が、収まっていく。

2011年8月15日月曜日

言葉を持ってあの門をくぐり抜けろ

 まったく、いやらしい事です。人に頼りたい、と思います。くるしいから助けて欲しいと思う時も。そのやり方は今でも分らない為に、人を突き放したくなります。既に、突き放しています。関わりたくないという防御は最大の暴力でしょうね。

 でも、「今、ここ」にいる以上、言葉以外には頼るものがありません。伝えるにも、言葉でしか出来ない、いや言葉になら出来る、というように。言葉を持たない者は言葉に復讐される……復讐されるのが怖いのではなく、言葉を持たない者になるのが怖いのです。

 淋しくはありません、私は言葉を持たない者になるくらいなら、いっそ、死を選びたい。そのくらいには物語も、本も、言葉によって生命を与えられた者を信じたいと思います。残念な事にしがらみのある身では、死は選べませんから、精神的な、僅かの期間の死でしょうけれど。

 愛する兄弟姉妹の皆様、どうか言葉をお捨てにならず、いつまでも美しく尖り続ける水晶として育んでいて下さい。そして“めでたし、めでたし”であなたの物語を締めくくって下さい。私は私の物語を書き続けていくことにします。私が言葉を持って真珠の門を通るまでは。

2011年8月10日水曜日

これが私の一週間の仕事です

 八月一日月曜日
 月曜日なので食器の洗い物もどっさり。毎月書類が集まらない為に発送が遅れるので、また今月もか、と懸念していたが書類を揃えて送付、一安心。後からの修整は幾らか効く事と、処理の速度が上がってきた事を自画自賛し、定時に退勤、保育所に迎えに行く。今週いっぱいは水遊びを休ませる予定。昼休みの読書に河出書房『風と共に去りぬ』二巻。アシュレとスカーレットの抱擁まで。

 八月二日火曜日
 ゴミの日。そろそろFAXや郵送で請求書が届きだす。請求書は最終チェックとコピーの必要があるが、いつも担当者が遅いので先にコピーし、チェックできるところはしてしまう。担当者が遅いと事務員のするべき仕事も遅くなる。しかし暢気な担当者である。やきもきしている。突発緊急の仕事が舞い込む。洗い物さえなければ、と何十回目かに思う。『高丘親王航海記』少し。定時にて退勤、保育所にお迎え。

 八月三日水曜日
 定時退社の日。請求書が少しずつ進みだすと同時に歯が痛む。経理から「データは五日厳守」のお達しが届く。部署内は私のみがピリピリしている。来客多し。昼休みを三分の二返上して処理、潔く定時退勤、お迎え。年長児がお泊まり保育らしく、保育所内にはカレーの匂い。夜、スタージョン『夢見る宝石』読み始める。

 

 八月四日木曜日
 肩凝りなのか歯が酷く浮くように痛む。手持ちの痛み止めが切れたので、事務所の常備薬で凌ぐ。一件分処理漏れがあった書類を、構内を駆け巡って捺印してもらい無事に提出、その結果の明細書が届く。算をあわせる為に昼休みは返上、あれこれ電卓を叩きっぱなし。アドレナリンは空腹と共に放出される。提出の為の書類を揃え始める。やきもきするのも馬鹿馬鹿しいので定時退勤、お迎え。退勤前にのみ洗い物、あとは放置。寝る前に『ラヴクラフト全集2』「クトゥルフの呼び声」。オーロラ状の流れ星の夢を見た。

 八月五日金曜日
 ゴミの日。あまりに歯の痛みが酷いため、市販のロキソニンを持参し何度も飲む。親知らずが生えかけていたのを目視して、二度目の切開手術の事を考えている。今日の正午がデータ締め切りなのでがつがつと働く。算は全て合った。データ確定させて送信、肩の荷が下りる。請求書他書類をひとまとめにして宅急便で送付完了。残業はこの世で一番嫌いな仕事(だったら休日出勤の方がましだ、延長保育させなくていいから)なので悠々洗い物、定時で退勤。保育所にお迎えに行くと、クラスでも可愛い男児と二人で並んで座って遊んでいた。「なかよしなの!」の言葉に保育所に入所できてよかったと心底思う。夜更かしして『夢見る宝石』少し。

 八月六日土曜日
 休日。他の休日出勤者の手配は済んでいるのでゆったり起きる。歯医者の予約日だと思っていたが実は休みだった。側にある公園でひと遊びして、買い物。ロキソニンを追加購入。おさまりつつあるがまだ痛みは重い。昼、水遊び用のゴムたらいを出して二人で遊ぶ。『夢見る宝石』を手に取る前に撃沈。

 八月七日日曜日
 休日。明日はまた出勤かと思うと朝から憂鬱になる。本当に仕事が嫌いなんだな。生えかけの親知らずの腫れは峠を越した。まだ早い朝の内から水遊びをしたがるのを宥めて、すっかり気温が上がってからまたたらいで行水。昨年毎日のようにビニールプールで遊ばせた事を思い出す。水遊び着が少し小さくなったような気がする。子供が遅い昼寝をしている内に『夢見る宝石』読了。手の内で転がしているうちにほんのり熱を帯びた結晶のような物語。

2011年7月25日月曜日

うつくしく、べそっかきで、たびにでる私のこども

 Monday's child is fair of face,
 Tuesday's child is full of grace,
 Wednesday's child is full of woe,
 Thursday's child has far to go,
 Friday's child is loving and giving,
 Saturday's child works hard for a living,
 And the child that is born on the Sabbath day
 Is bonny and blithe, and good and gay.

 うつくしいのは げつようびのこども
 ひんのいいのは かようびのこども
 べそをかくのは すいようびのこども
 たびにでるのは もくようびのこども
 ほれっぽいのは きんようびのこども
 くろうするのは どようびのこども
 かわいく あかるく きだてのいいのは
 おやすみのひに うまれたこども

 私のプスティニア、こどもはげつようびうまれ、その名に恥じないうつくしいこども。保育所に勇敢に通う。この世に生まれて三年目、だから四年前の事はまったく知らない。それはそれで不思議ではある。本人は居なかったのに過去(私という生みの親)が在る、ということ。それは私も同じ事だ。四年前は、私が赤子を抱くなど、考えた事はなかった。

 子どもを産むということを、私は憎悪していた。出産そのものではなく、それに付随する幸せを、憧れるあまりに憎悪していた。縁遠いのだ。誰も私のような女を妻には娶るまい(実際一瞬だけしか娶られなかった)。幸せに縁を切られているのは薄々承知している。生きにくさを誰に伝えてよいかもわからず、またそれを伝える人もいない。お腹の大きな女性を見る度に、微笑ましさと同時に羨ましさでわめきたいくらいに、身体の内側から溢れるごちゃごちゃの感情。乾いているようでいながら、その嫉妬とも憧憬ともとれる私の感情。彼女たちははち切れそうなお腹を抱えて輝かんばかりなのに、私は醜く卑しい感情を孕んでいる。これほど醜い女が子を孕むなど、あり得ない。それは地獄に堕ちた亡者が天国に憧れて身を焦がすほど烏滸がましい。私はそう言い聞かせ、憧れを深く心に押し込めた。誰が、一体誰が、私を大事にしたいと思うのか。自分自身すら大事にしたことがないというのに?

 子どもを愛せるのかということ以前に、自分の身体の中に自分とは別の人間が出来つつある、ということに慣れず、だから胎児がエイリアンであってもおかしくないような気がしていた。私を食い破って出てくればいい、その方がまだ私が私のままの精神の均衡を保てるだろう、とも。

 しかし、こどもは生まれた——いつの間にか人間の形を取るようになり、人間になった。私の祈りでもあるこども。私の幸せはお前の幸せではなく、またお前の幸せはお前だけのもの。さあ、歩いていくのだ、私などに何を言われなくとも、どこまででも。美しく、べそっかきの、旅に出る私のこども。

2011年6月19日日曜日

憧れの嵐が丘

 嵐が丘に憧れ続けている。荒野というところや、嵐が丘に憧れている。いつ頃からだったかは曖昧でよく覚えていない。そもそも、覚えておく必要がなかったのだけれど、私は「孤独とは美しいものだ」 と早くから思っていたし、まだ思っている。孤独というものもひとを癒すのだとも。

 よりどころをうまく見つけられない子どもだった。変化は嫌いだし、馴染むのにも時間のかかるというやりにくさは今でもついて回っているが、あの頃に比べたら少しはましだ。それは現在「大人」「母親」という、子どもからすれば特権階級めいたものになったからだ。

 ぬいぐるみにそれを見いだすひともいるし、スポーツや芸術にそれを求めるひともいるというけれど、私がいちばん手っ取り早く手に入れられるやり方は、想像や妄想しかなかった。片田舎に住んでいて、通学するためには峠をひとつ、超えなければならない。だらだらと長い通学路をやり過ごすには、季節ごとに姿を変える自然だけでは足りない。だから、最終的に自分が閉じこもれる場所として、心の中に荒野を持つことにした。荒野という、その字面、イメージが、これ以上どこにも行けない、「行き止まりの甘い息苦しさ」や「遠くあくがれいずる魂」をよく現しているように思えた。

 そして、エミリの『嵐が丘』に出会う。私にとってその本は、まるで奇跡だった。魂の行方を見ているような、それぐらいの衝撃だった。メロドラマのような怠惰さを感じる暇もない。もはや「愛」ではなく「魂」の物語だった。「魂」というのは人の意志の及ばない部分にある。だからキャスリンは「あたしはヒースクリフです!」と叫べるのだ。堂々と。恐れもせず(そう、神をも!)、彼らは魂で共鳴し合い、また一つの魂を二つのからだで共有し合っていたようなものなのだ。そしてそれ故に、人間としての身体で持て余してしまった魂は「あくがれいずる」。荒野に吹く風そのものになったキャスリンやヒースクリフは、私の心の荒野でも自在に駆け回り、それ故私の荒野はどんどん美しく研ぎ澄まされた。その荒野は「孤独っぽさ」の象徴で、現実世界からの逃避先であり、自分だけの天国であり、また自身の墓でもあった。

 多分私は「孤独っぽさ」がすごく好きで、それはもちろん戻っていける場所があってこその「孤独っぽさ」が好きなのだけれど、それが凝縮されているような場 所が、荒野だった。小高い丘に教会があって、そこから少々離れたところにぽつーんと建っているような洋館(城)が自分の住む家だったら!と、よく想像していた、今も。そこから私を連れ出す人がいる、というのがそのストーリィの続きなのだけれど、当然、私はそれを断って一人静かに荒野にとどまる。そして毎日、同じ風景をくもったガラス越しに眺める。窓の外に広がっている「残酷なまでの変化の無さ」を慰めにして。

 心の中に誰も手出しできない荒野を持ったまま、少女はくたびれた女になった。ライナスの毛布のように、何処にでも私が在る限り、荒野は在り続ける。心配ない、いつでも、最初に荒野が在るし最期には荒野へ戻ることが出来るのだから。
 心の中に荒野があるのは、自分の精神的な健康上、無いよりもある方がよい。温かで安全な、自分専用の荒野。真珠の門でもあり、苔むした私の墓標。そこに生まれそこに死ぬ、何度も。それが出来る場所があると知っているのは、さいわいだ。

2011年5月30日月曜日

ファンタジエン

 七十八年九月の、ある日の夕方。みかん色の夕陽を、手術室に入る前に母は見た、と言った。だから名前は“茜”にしたかったんだけどね、といつも言う。母の出産日、私の誕生日の事は必ずそれが、一セット。その日その時間が、私と母の永遠の決別だった。私たち、ではなく、母と私。私は諸手をあげて世界へ出た。背骨を丸め、脚を腹にぴたりとつけた、死と生とのあわいで知った安心出来る姿勢から、文字通り切って開かれた世界へ。世界から拒まれる事も知らずに。世界を愛する事も知らずに。

 〇八年七月のある朝、私は一人の赤ん坊を産んだ。骨盤をめりめりと広げながら、ゆるやかに降りてくる胎児を押しとどめようとしながら、でも押し出そうとしていた。どうにかして!身体が割れる!それは嫌!分離する、やめて、淋しいから!けれど途端に分娩室の灯りが眩しくなって、目を開けたら、子どもは生まれていた。内側の私を引き摺って出てきた子どもは簡単に身体を拭かれて、それから泣いた。それが私の生んだ子どもとの、決別の日。私たちではなく、私と、娘。

 涙の谷を作った二つの山はいつも、マグマのように祈りと、怒りと、愛おしさと、哀しみを延々と沸き立たせていた。骨の内側の辺り、本当はそこに骨はないのだけれど、その辺りからぐつぐつと沸き、出口を求めて辿り、吹きこぼれる。熱くて痛い。赤ん坊は私と別の匂いがした。決別しているのだから当り前だが。甘く柔らかく、少し酸っぱい。そしてほんの少ししょっぱい。一日一日が、出会いの日で、別れの日。

 全く何の日でもない日に——それを、ハンプティ・ダンプティは誕生しない日と呼んでいたっけ——唐突に思い出す。いや違う、思い出す時はいつも、とうとつ。風の吹く日に思い出した事。あたしたちはえーえんにわかれた。

2011年5月29日日曜日

小鳥

 喉の奥で小鳥を閉じこめているような、そしてその喉で小鳥が飛び立とうともがいているような、そういう息苦しさ。行き苦しさ?生き苦しさ。喋っていても聞こえてくるのは、私の声なのに、私の声ではなく。瓶の内側から聞こえてくるような、くぐもっていて妙に丸みがかっていて、時折それが鋭く聞こえることもある。蓋が外れて瓶の口から漏れ出てきたような。

 どちらが私の声かは知らない。どちらとも私の声だから、私以外の人には、きっと分らない。でも、私の声って一体なんだろう?

 喉の奥の小鳥はいつか飛び立つ?私を置いて行ってしまう?行かないで!私の喉が潰れてしまってもいい、ここに居て、いつまでももがいていて。小鳥の声が、私の声。小鳥を失ったら、私も声を失うだろう。

2011年5月23日月曜日

「マルガリタはラテン語で真珠の事ですよ」と神父さまは仰った。

 私の洗礼名は「コルトナのマルガリタ」で、乙女殉教者の聖マルガリタとは別の女性だ。わざわざそのメジャーな聖人の名前を選ばなかったのは、その頃、私は“幸せな”妊婦になる事はないだろうと思っていたからだ(乙女殉教者マルガリタは妊婦の守護者でもある)。実際幸せな妊婦にはなれなかった。それを悔いているわけではない。私がその時、神様を忘れた事を悔いてはいるが。もう一人のマルガリタは放蕩者、娼婦だった。幼いうちに実母と死に別れ、実家を飛び出るまでは継母に虐げられる。城主の妾として数年過ごし、その間に子どもも産んでいる。城主が殺されると再び実家に戻るが実父からも継母からも酷く拒否された。彼女が最後に助けを求めたのはコルトナの町の修道院で、そこで初めて受け入れられ、神に仕えともに生きる悦びを知る……。

 何処ででも、泥水を舐めても生きていけるんじゃないかと思っていた。実際はでも、何に受け入れられたいのかも知らないまま、日々ふらふらと生きていただけ。高潔なふりをしていただけ。いい加減、何処に行っても「ここじゃない」、「これは間違っている!」と思いたくなかった。「間違っている」というのは、私が決して幸せになれない事ではなくて、私が、「間違っている」と思う事が間違っている、という事。ブラッドベリやカーヴァーのようには辻褄が合っていないという事。

 途切れ途切れに続けていた聖書の勉強に本腰を入れたのは、トウキョウへ上京してからの事だ。練馬区と杉並区と中野区が入り乱れる場所にあったその部屋は、下井草教会が随分近かった。千川通りをひょいと超え、左手側にコンビニエンスストア、右手側に畑を見ながら住宅地を進む。右に曲がると、ミントグリーンの尖塔、白い壁の教会が現れる。何とかなりそうなギリギリの家賃で、仲介業者からたった一軒だけ提示されたそのアパートの傍に、教会があるとは!きっとここが、私の探していた真珠の門だ。他の店を回る事もせずに、ほとんど即決で金を下ろしてその部屋を借りた。引越が落ち着くとすぐに教会へ出向いた。洗礼を、今度こそ受けると決めていた。

 降誕祭が近づくと、毎週水曜日の午後の教理問答もいよいよ終わり、洗礼式の為の代母も決まった。洗礼式の前に、数々の後悔も、希望の為に知った絶望もここで洗う為に、私の、もう一つの名前を決める。私は成人洗礼になるから、自分で選び自分で決めた。それが「マルガリタ」だった。長身で、淡いブルーグレイの瞳をした東欧出身の神父さまは、それを聞いて「とても良い名前を選びました。マルガリタはラテン語で真珠の事ですよ」と仰った。ミルク色に輝く真珠の核は、真珠層を持った貝には異物でしかない。けれど真珠層が幾重にも包み、元の異物ではなく真珠になりますね。そして私たちは真珠の門を通って天国へ行きます。後悔していることがある、哀しみを忘れられない、と初めに私に言ったあなたは、その名前を選びました、と。

2011年5月22日日曜日

基準の鳥

 エミリ・ディキンソンの歌の基準は、こまどり……。
 五月もるうるうと勢いづいている。晴れた日は草木が発する甘ったるい若葉の匂いで、息が詰まるほど。湿度は温度を友にして上昇し、二日後に大抵雨となって落下する。海に落下した彼らはまた大気に紛れ、草木に宿る。終わりのない永遠の運動だ。暑いだの蒸すだのと不平を、言うほどの事でもない、永遠に比べれば何だって瑣末な出来事。

 山も近く海も近い場所にある実家で暮していると、鳥たちが時間の基準になる。夜明け前に時鳥、朝いちばんは、燕。その次に烏と雀。明けきってしまえば、イソヒヨドリ、ヒヨドリ、セグロセキレイ、鳶。川まで出れば、そういえば鷺がいる。漁連の近くだと鴎、鳶。日暮れ前にまた燕と雀、そして夜。

 何を基準に生きていればいいのか、分らなくなった。鳥たちのように基準の歌を持たない私は、一日のうちにめまぐるしく変わる曖昧な基準の中で、息が上がってしまいそうだ。ああ、歌を忘れた金糸雀だったら、海に出て、忘れた歌も取り戻せるものを。

2011年4月10日日曜日

 

 愛しているものは、私が触れられないもの、そして永遠であるもの。それ以外のものは、たぶんたいして愛してはいないはずだ。それは愛していると思い込んでいるだけ、ただの盲信、見栄、執着。手ぶらでいるべきよ。転んだ時にすぐに立ち上がれるように。旅の準備は軽ければ軽いほどいい。もしも帰ってくるつもりなら。

2011年3月30日水曜日

東の空のひばり

 朝、書類を届けに別の棟へ移動中、鈴が笑い転げるような鳴き声を聴いた。ひばり。黄砂混じりの埃っぽい空の中で、孕んだ春ごと転げ回っている、軽く高い鳴き声。ひばり、ひばり。ひばりを見上げながら書類を持ち直し、人々の働く場所へ急ぐ。もしも書類を放り上げて走り出したら、どんなにか気持ちのいい事だろう!靴も脱いでアスファルトをただ駆けていけたなら、海に抱きとめられただろう。私が働いている場所は、海の、本当にすぐ傍だ。日によって、時間によって、海からの風が吹く。海からの風は甘い潮の匂いがしていて、その匂いとともに私は育ち、いずれ死ぬ。どうしてそれを早送りしてはいけない? 

 時折、私たち——私と、娘の事だ——の繋いでいる見えないへその緒は、妊娠していた時、産み終えた時、元は一人だった身体を分けた一本の管を切られた時と比べると、どんどん太くなっていく。今では細いしめ縄ほどもあるような、そんな気がしてしまう。愛しているかと聞かれたら、愛していると答える事は出来る。手放せるかと問われたら、手放したくはないと答える事も出来る。でもその愛は、執着なのか本能なのか、保身の為なのかは、わからない。事務所の中に居る間は、あまり、思い出す事もない。保育所でそれなりに上手くやってはいるらしい。ひばりのように甲高く笑い転げ、うぐいすのようにいくらでも歌を歌う私の娘。

 本当のものが欲しかった私は、随分苦心して本当のものを手にした、と子どもを腹から押し出した時に思ったものだった。まさしく本物の命の塊。柔らか過ぎて玉子を抱くようにしか抱けなかった。私という殻を飛び出した娘は、転がる鈴の様に騒ぎながら歌いながら、身体を新しい肉で作り出している。遠く離れていく感じがする。一緒の身体に在った時でも淋しかったのに、既に生まれる前から離れていたと言うのに、今さら。

 まるく飛ぶひばりは、まるで私の娘のようだった。空をもう一度見上げたら、屋上に止まったひばりはひとしきり歌を披露し終わり、せわしなく飛んでいった。私の視界から離れ、また別の世界へ。結局私は靴も脱がず走りもしないで、書類を届ける為にドアを開けた。あのひばりは二度と戻らない。行ってしまった鳥は、二度と同じ鳥ではない。別に淋しくはない。でもまた取り残されている気がしてしまう。身勝手にも。

2011年3月27日日曜日

「言葉を持たないものは、言葉に復讐される」

 やめ時が分らないまま続けていたツイッターを、やめた。あの場所に居ると引っ掻き傷を付けるのにも、引っ掻き傷を付けられるのにも、慣れてしまう。慣れていくであろう自分を俯瞰する事、そのものが気持ちが悪かった。だから、別に何か嫌な事をした、されたわけではなくて、なんでもない、たんじゅんに自分だけの問題なのだった。めんどくせえ奴。

 もともと、私は言葉を持たないのだった。言いたい事も別にない。伝えたい事ならなおさら、ない。別に言っても言わなくても、どうでもいいことしか、ツイートした事はなかった。情報も持たないし、言葉も使っていながら弄ぶだけで、持っていない。だから、今、「言葉に復讐」されている。持たない者が持ったつもりで天を目指せば、当然鑞の羽で舞い上がったイカロスのように、あわれ、墜ちていく。そして私は、落ち続けている。

 タイトルにした一文は、私がかつて好きだった人が描いた(書いた)ノートで見つけた。もう絶対大丈夫です、と頭突きをせん勢いで医者に詰め寄って認められた退院という解放後、戻った部屋にあったのは、リュックサックに無造作に詰め込まれた靴下とTシャツと、真新しいのに丸まったノート、赤いボールペン、くちゃくちゃと丸め込まれた綿の、カジュアルなジャケットだった。ジャケットのポケットの中に手を突っ込むと、砂粒とレシートがあった。レシートには海沿いの町の名前が印刷されていて、それと指先に乗った砂粒だけが、彼が海沿いの町に行った後、ここにはいないという「現場不在証明」になった。

 ぱりぱりと頁を捲っていくと、あの一文が目に入った。そうして、わかった。彼はまだ(それは私の願いだった)居るけれど、既にもう行き止りへ行ったのだ。彼は絵と詩を描く人だった。彼の大きな瞳は世間を斜めから見ていたように思っていたけれど、本当は、彼は、真っ正面から見ていたのだと思う。眩しさに顔を顰めながら、それでも一心に向かい合っていた。今になって、そう思う。ふらりと立ち寄った私の部屋で、無様な蛙のようにひっくりかえっていた(と思われる)私を見て、辟易しただろう。病院にはなんとか、連れて行ってくれたようだった。あまり体力のない人だったのに、酷な事をしてしまった。

 あれは、なまぬるい春。薄曇りの空の事をよく覚えている春のことだった。退院した後、彼と会うことは全くなかった。会えたとしても、相手は会わなかっただろう。仮に相手にその気があっても、周りは私をうまく、でも確実に押しとどめたはずだ。次に会えたときは、彼は写真の中だった。唯一救われたのは、飛行機に乗る為に一緒に鹿児島まで行った事を、何度も話していたと言ってくれた、彼の家族の言葉だった。自分を責める事ほど、容易い事はない。責められるだけ責め抜いても、それはどこまでも自己弁護と自己憐憫でしかない。情けなくて恥ずかしくて、それなのにいくつか周到に用意してあったものは全部没収されてしまっていた。ただまんじりともせず朝を迎え夜を超え、部屋の中は煙草の煙で真っ白で、私が外出するのは煙草とアルコールの為だけになったが、それさえも彼の不在にかこつけているようで、恥ずかしくて頭を掻きむしった。

 あの日から今までどうやって歩いたかはよくわからない。多分道幅の広い方だけを選んで歩いていたんだと思う。それは、確かな破綻へ繋がった。どれだけ時間が経ったとしても、忘れたくない事は、私にもある。今こそ私は復讐されなければならない。どのようにして復讐されるかは、言葉が知っている。私はただ言葉の決めた事を受け入れるだけだ。

2011年1月28日金曜日

司るもの

 嘔吐されたような散らばり方をした本、本、本。その中に私はいる。私は、本棚に対して無限を期待している。だから本棚に本を収納出来なくなると、どうして出来ないのか、しばし悩む。あちらを抜きこちらを詰めるとそちらはむりむりと押し出されるようになる。隙間を作るのは嫌いなので、パズルのように組み替える。しかし入らない。入らないのでその辺に積む。小さい塔が幾つも部屋の中に乱立し、その内私、あるいは子供が躓いて崩れる。そしてまた、積む。それを繰り返しているうちにだんだん、気がつく。ああ、本棚にはもう入らないんだな。

 引っ越し前夜——あれは大学を卒業する日——簡易な本棚からそのまま抜き出して段ボールに詰め込めば良いのに、詰められなくなって、本棚から全ての本を抜き出して、その真ん中に座って夜明けを待った。同じ事を二回、繰り返した。本のまっただ中にいる。それはそれで満足する事だった。手伝いにきてくれた人は唖然としていた。

 綺麗だった。本棚から吐き出された全ての本が、表紙を上に向けていて、鮮やかで。するすると撫でながらこれはあの本屋で買った本、これはどこの古本屋で見つけて小躍りした本、あれは、これは、これも……と思い出に耽るのは気持ちのよい事だった。思い出せる限りのそれらの思い出を、一晩という短い時間ではあったけれど、並べて虫干ししたようなものだ。出し切る、と言う事は良い意味でしかない。

 その本も、今は随分入れ替わった。離れていった本の行方はわからない。上手くすれば誰かの本棚に在るか、古本屋の本棚に、値段を付けられて並んでいるか。下手をすればもう別の紙に変わっているか、それとも灰になっているか。握り続けた本だけが残っている。どうやっても落とせない、身体につく最低限の肉のように、骨にぴたりとはり付いている(と思わなければ、やっていけない)。

 真夜中の本棚は呼吸する。それを知っているのは、その本棚を支配しているつもりの私だけ。心地よいことだ。司書にはなれなかったが、自分の本棚を持ち、その本棚を私の法則通りに管理している、という事は。私の要求で私は本棚から数冊本を抜く。そして私が読む。読み終わったら私が本を元に戻す。整頓する。

 私という図書室の司書は私。私の本棚の前で、私は何度も司書になる。

2011年1月11日火曜日

十二月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年12月
アイテム数:9
春に葬られた光 (ヴィレッジブックス)
ローラ カジシュキー
読了日:12月02日

ラブリー・ボーン
アリス・シーボルド
読了日:12月03日

海と毒薬 (新潮文庫)
遠藤 周作
読了日:12月08日

抱擁、あるいはライスには塩を
江國 香織
読了日:12月11日

この世は二人組ではできあがらない
山崎 ナオコーラ
読了日:12月13日

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー
読了日:12月17日

アドヴェント・カレンダー―24日間の不思議な旅
ヨースタイン ゴルデル
読了日:12月24日

幾度目かの最期 (講談社文芸文庫)
久坂 葉子
読了日:12月24日

ノエルカ
マウゴジャタ ムシェロヴィチ
読了日:12月31日

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十二月の終わり、全くの終わりの日に読み終わった『ノエルカ』、とても良かった!それと『アドヴェント・カレンダー』。クリスマスの日を、キリスト教圏の人たちが大事にしていることが、とてもよく分る。『抱擁、あるいはライスには塩を』は、いずれまた別のエントリで触れたい。私の中の江國香織作品で久しぶりに良い読後感だった(彼女の新刊を買ったのは久しぶりのこと)。血の繋がりと言う不可思議ででもおかしみのある物語だ。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...