2011年1月28日金曜日

司るもの

 嘔吐されたような散らばり方をした本、本、本。その中に私はいる。私は、本棚に対して無限を期待している。だから本棚に本を収納出来なくなると、どうして出来ないのか、しばし悩む。あちらを抜きこちらを詰めるとそちらはむりむりと押し出されるようになる。隙間を作るのは嫌いなので、パズルのように組み替える。しかし入らない。入らないのでその辺に積む。小さい塔が幾つも部屋の中に乱立し、その内私、あるいは子供が躓いて崩れる。そしてまた、積む。それを繰り返しているうちにだんだん、気がつく。ああ、本棚にはもう入らないんだな。

 引っ越し前夜——あれは大学を卒業する日——簡易な本棚からそのまま抜き出して段ボールに詰め込めば良いのに、詰められなくなって、本棚から全ての本を抜き出して、その真ん中に座って夜明けを待った。同じ事を二回、繰り返した。本のまっただ中にいる。それはそれで満足する事だった。手伝いにきてくれた人は唖然としていた。

 綺麗だった。本棚から吐き出された全ての本が、表紙を上に向けていて、鮮やかで。するすると撫でながらこれはあの本屋で買った本、これはどこの古本屋で見つけて小躍りした本、あれは、これは、これも……と思い出に耽るのは気持ちのよい事だった。思い出せる限りのそれらの思い出を、一晩という短い時間ではあったけれど、並べて虫干ししたようなものだ。出し切る、と言う事は良い意味でしかない。

 その本も、今は随分入れ替わった。離れていった本の行方はわからない。上手くすれば誰かの本棚に在るか、古本屋の本棚に、値段を付けられて並んでいるか。下手をすればもう別の紙に変わっているか、それとも灰になっているか。握り続けた本だけが残っている。どうやっても落とせない、身体につく最低限の肉のように、骨にぴたりとはり付いている(と思わなければ、やっていけない)。

 真夜中の本棚は呼吸する。それを知っているのは、その本棚を支配しているつもりの私だけ。心地よいことだ。司書にはなれなかったが、自分の本棚を持ち、その本棚を私の法則通りに管理している、という事は。私の要求で私は本棚から数冊本を抜く。そして私が読む。読み終わったら私が本を元に戻す。整頓する。

 私という図書室の司書は私。私の本棚の前で、私は何度も司書になる。

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