2017年10月19日木曜日

プール・小景1

 スイミングプールのナイト会員になって四年ほど経つ。ナイト会員とは夕方のある時間からプール終業までの間、入水することができる会員のことで、昼間に入りたければデイ会員にならなければならない。もちろん両方の会員である人もいる。この時間には大抵、仕事や家事をひと段落させた人も来る。特定の誰かと熱心な会話はしないけれど、なんとなく顔見知りの人がいて、なんとなく隣で泳いでいる気配を感じながら、自分も黙々と泳ぐ。そういう風通しの良さを気に入っている。

 スイミングプールに通うようになってから、多い時で週に二、三度は泳ぎに行くようになったが、子供の頃はプールが嫌いだった。嫌いだから当然泳げないし、泳ごうという意思もなく、浮かんでいるだけだったし、可能な限りさぼった。とにかく水回りがだめだった。熱湯のような真水のシャワーも、腰から下をつける冷たくて臭い消毒液槽も、直射日光で焼けたアスファルトの上を裸足で、校庭にあるプールまで歩かされるのも、ひんやりと湿っていて苔むしている幅広の外階段も、濡れたコンクリートのプールサイドを歩くことも、股の間へ水着から伝っていく生温いプールの水も、どれもこれも恐怖だった。足から這い上がってわたしを侵食していきそうな、得体の知れない恐怖と対峙するのは、子供ごころにはたいそう負担だった。

 ある日、とうとつに平気になれる予感がしたので、スイミングプールの会員になることにした。スイミングプールに泳ぎに行けるようになった、ということはわたしにとって、深い峡谷にとうとう橋が架かったような、そういうことなのだった。

2017年10月18日水曜日

懐かしい未来・待ち遠しい過去

 よく晴れて暖かい秋の日の午後、夏の名残を思わせる強い日差しは、それはそれはノスタルジックだ。この日差しの事をよく知っているし、同じ季節を数え切れないくらい過ごしている気がする。同じくらいノスタルジーを掻き立てる日差しに、「日曜日の午後三時半、粉っぽい金色の午後の光」がある。初めてその感情に向き合ったのはまだ年齢が一桁の頃だったと思う。一人で遊ぶのにも飽きたし家族と何か話すのも億劫で、こっそりと上がった二階の部屋いっぱいに金色の西日が差し込んでいた時のこと。日の光は手を替え品を替え、わたしを惑わし、わたしを乱し、記憶を狂わせていく。

 途中まで再生したテープを巻き戻し、任意で止めた所から再生するように、わたしが記憶した秋がわたしに繰り返し語られている。インディアン・サマーというより『エンジン・サマー』。エンジン・サマー以前はこの物狂おしいデジャビュとノスタルジーの光をなんと呼んでいたのだろう。陽の光はいつも幻燈のようだ、ありえなかった未来や存在しない過去を脳内に照らし出す。わたしはわたしの中に映し出された幻燈をぼんやりと見て、空白の過去を待ち望み未来を懐かしむのだ。

 西日が差す度に生きていることさえももう懐かしい、懐かしくてたまらない。誰でもない誰かをぎゅっと抱きしめたくなる。まだこちら側に残っているのか、本当は向こう岸に行ってしまったわたしの記憶だけがわたしを思い出しているのじゃないのかと、確かめたくなって。

2017年10月16日月曜日

旅に出ない日

 あまりにも身体が重く、(これは肉が鉛になったようだ)と思っていたら寝坊した。身体が季節に追いつかないし、ついでに時間にも追いつかず遅刻をした。遅刻をしようと決めたら気が楽になって、のんびりパンなどを齧ったのだが、家を出る時間が近づいてくるととてつもなく辛い。まるで誰かの首に縄をかけるような、喩えるのもおぞましいような気持ちになってしまい、結局鉛のような肉体を引きずって出社した。

 

 週に五日くらいは八時間ずつ働くのだけれど、すごく時間の無駄をしているようで、事務所にいるといらいらする。いらいらするのでiPhoneでネットを彷徨う。リンクからリンクへ。ツイートから別のツイートへ。でもそのどれも、気が重くなるだけで本当はしたくないと思っている。今日は本が届いているはずだから、早く帰りたい。もちろん何も届かなくても早く帰りたい。

 雨がしばらく続いていて気温が下がった。朝夕に吐く息がほんのりと白い。山からは靄が立ちのぼり、空は明るい灰色、これはこの地方特有の現象だろう。ほっとする。寒い方がいくらかはましだ。特に雪が降ってくれれば勇気がわく。なぜならその雪をかき分けて進めばいいからだ。今年は雪が早く降ってほしい。

 果たして注文した古本は届いていたがまだ一頁も開いていない。本当はこんな時間まで、本も読まずに起きていたくないし、そっとしておかれたい。もちろんそうされてもいるのだが、まったく、足らないのだ。もっと深くそっとしておかれたい、わたしはもっと深く潜っていきたいと常に思う。泳いでいる時間はやや深く潜っていられるのだけれど、帰宅を急かされているような気も同時にする。この、時間には間に合っているのにまるきり遅刻しているような、焦りでもうずっとへとへとだ。

 もうずっとウェブでの日記を書いていないので、とりとめもないのだけれど、これはこのままにしておこうと思う。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...