よく晴れて暖かい秋の日の午後、夏の名残を思わせる強い日差しは、それはそれはノスタルジックだ。この日差しの事をよく知っているし、同じ季節を数え切れないくらい過ごしている気がする。同じくらいノスタルジーを掻き立てる日差しに、「日曜日の午後三時半、粉っぽい金色の午後の光」がある。初めてその感情に向き合ったのはまだ年齢が一桁の頃だったと思う。一人で遊ぶのにも飽きたし家族と何か話すのも億劫で、こっそりと上がった二階の部屋いっぱいに金色の西日が差し込んでいた時のこと。日の光は手を替え品を替え、わたしを惑わし、わたしを乱し、記憶を狂わせていく。
途中まで再生したテープを巻き戻し、任意で止めた所から再生するように、わたしが記憶した秋がわたしに繰り返し語られている。インディアン・サマーというより『エンジン・サマー』。エンジン・サマー以前はこの物狂おしいデジャビュとノスタルジーの光をなんと呼んでいたのだろう。陽の光はいつも幻燈のようだ、ありえなかった未来や存在しない過去を脳内に照らし出す。わたしはわたしの中に映し出された幻燈をぼんやりと見て、空白の過去を待ち望み未来を懐かしむのだ。
西日が差す度に生きていることさえももう懐かしい、懐かしくてたまらない。誰でもない誰かをぎゅっと抱きしめたくなる。まだこちら側に残っているのか、本当は向こう岸に行ってしまったわたしの記憶だけがわたしを思い出しているのじゃないのかと、確かめたくなって。
0 件のコメント:
コメントを投稿