2010年10月30日土曜日

びいだま/びいどろ

 この間の日曜日に、京都へ出かけた。京都へ行ったのは実は一年ぶりであったけれど、その時は岡崎の美術館に直行して、また駅へ直帰したので市内を歩いたりもしなかった。だから変わりつつある京都駅と変わらない京都に、少し戸惑った。何年ぶりだろう、私がトウキョウへ出たのは確か四年前の夏の終わり。私が地元に戻ったのは、二年前。まったく京都に干渉しなかった。

 山形にいるという友人——お互いがお互いを友人と認識していると、ここでは仮定する——が京都に遊びに行くという知らせを受けたのは、まだ夏の暑い盛りのことだった。私たちは京都で出会った。六年か七年前、三条烏丸のスターバックスで。あの頃私は四条に住んでいて、馬鹿なことばかり繰り返していた。それが馬鹿なことだと知らなかったからだ。駄目な女である私が好きになる駄目な男達を、だから彼は(覚えているかはさておき)大体全員話で聞いて知っていることになる。

 私たちが一番よく会うのは京阪淀の駅にある京都競馬場でだった。私が京阪で、彼が確か近鉄から京阪に乗り換えて、競馬場でちょくちょく会った。私が先にほろ酔いだったこともある。ある日待ち合わせ場所で立って、一応新聞を開きながら待っていた。春と呼ぶにはまだ早い日曜日の昼下がりのこと。話しかけてくるおじさん達に、仕事で覚えた口角をくいっとあげる笑い方を顔に貼って応じていた。なかなか現れないのでどうしたものかと思っていたら、おじさん達がいなくなってから彼が現れてひと言「(おじさん達に)めちゃくちゃ馴染んでたぞ……」。

 私たちは、男女間の友情がうまく成立した友達だったと思う。例えば恋人や配偶者にされれば怒り狂うようなことでも、友達だから狂わない。恋人や配偶者にされて嬉しいことを、友達にされたらそれはそれで嬉しくなる。一緒にいれば楽しいし、一緒に出かけて別れた後も淋しくない。「これをしないで、あれもしないで」といちいち目くじらを立てることもない、友達だから。例えば恋人同士なら会えばセックスするだろう。けれど友達だからしない。例えば友達から桐野夏生を勧められたらぜひ読むが、これが配偶者や恋人から勧められたら勘ぐっているだろう。その程度のことだが、友達なら深読みすることもなく受け取れるのだ。

 あの頃と違うのは、私には子どもが一人いて地元を死ぬまで出る事はないということ。あの頃は薄汚れていた京阪淀駅が、いくらか綺麗に手入れがされていたこと。よく馴染んでいた名前の馬たちはほとんど引退していて、母になり父になり、または永い眠りにつき、この日走っていた馬たちはその子ども達で、世代交代しているいうこと。時間は一定方向へしか進まない。私も彼もその流れに、乗るより他はないということ。私たちの友人関係も、いずれ彼に(或いは私に)訪れるかもしれないささいなきっかけで終わるということ。終わらないものはない。あのマコンドに降り続けた雨も止んだし、ノアを押し出した洪水も四十日と四十夜で、オリーブの枝をくわえて鳩が舟に戻ったのだから。

 その日までは、私は彼と友達でいたい。願わくば、私が映画館で滂沱たる涙を気付いていないでいてくれんことを。もう、会うことはできないのだろうから。私たちは別々のビイ玉なの。ぶつかればはじけ合う。一つに溶け合うことは決してあり得ない。そういう、友達なのでしょう?

2010年10月24日日曜日

草の子

 百人くらい子どもが産みたい、と思っていた。そして産めるんじゃないかとも思っていた。だんだん身体の仕組みを知るにつれて、さすがに百人は無理だとわかったが、十人くらいなら、体力と経済力と精神力が許せば、産めるのかも知れないな、と思っていた。野球チームを作りたかったわけではないが、トラップ一家に憧れていたのかと言われれば、否定はしない。あんな風にたくさんの子ども達が、広い庭や広いお屋敷の中でくすくす笑いながら、歌いながら、時にはぽろぽろとお菓子をこぼしながら笑ったり、誰かが涙を流しても、それを慰め合えるのなら、とても素敵だろう。誰かと秘密を共有し合ったり、こっそりと悪戯の相談をしたり、喧嘩の仲裁をし合ったり、騒がしくてもそれは心地よい騒がしさだろう。だから沢山子どもが欲しかった。

 私には弟が一人いる。私たちがきょうだいになった途端、私たちはお互いに「ウマが合わない」と気がついた。とにかく寄ると触ると喧嘩する。喧嘩の種がなければお互いで作ったし、弟は泣き真似が異様に上手かったので、私が手を出した所為もあるのだがよく怒られた。お互いが成人してからも、同じ屋根の下に三日以上一緒にいると、どちらともなく避け始める。多分家族でなかったらまず一緒にはいられなかったのだと、わかり合っていた。だから余計に弟ではないきょうだいに憧れた。沢山きょうだいがいたら、その内の誰かとは気が合うかもしれない、と。自分の母親にはこれ以上のきょうだいは出来ないだろうと思っていたから、それなら私が産めばいいのだ、と。

 だから沢山産もうと思っていた。どっしりと落ちついたお母さんになって、沢山の子ども達と一緒に散歩したり歌ったりご飯を食べたり、夜は部屋一杯に並べられたベッドで皆が寝静まる頃にそっと、一人一人のおでこに、くちづけをしたかった。例えばミムラのお母さんのように。例えばふわふわしっぽ*のように(そういえば、どちらにも父親の影がほとんどない。そして私もそれを考えた事が無い。いつも私の中では父親的な者には顔が無い、ムーミンパパくらいしか)。

 「カテイノジジョウ」とやらで、この先子どもを持つということは、今いる一人娘の他には多分ない。実際にはそんな経済力も無いので、産めるはずも無いのだから夢物語どころか、眠る時に見る夢のようなものだ。家族でも相性があるのだと知った今ではそんな乱暴な事は望めないし、そもそも「カテイノジジョウ」なのだから。それでも時折はぼんやりと思う。百人の子ども達のことを。どっしりとしたお母さんになった私のことを。地面からにょきにょきと生えてくる沢山の子ども達のことを。


*『ふわふわしっぽと小さな金のくつ』

デュ・ボウズ ヘイワード
PARCO出版
発売日:1993-08

「イースター(復活祭)」ってしってますか?春分の最初の満月の後の日曜日がその日に当たり、キリスト教信者は罪を告解し、聖体拝領を受ける日でもあります。それまで教会に通い、勉強をしてこの日に信者になることを許されたりします。
カラフルに飾られたり隠されたイースターエッグや玉子を模したチョコレートは、その前日にうさぎが運ぶという言い伝えががあり、生命の象徴です。
さて、そんなイースターエッグですが、おかあさんうさぎがイースターバニーに選ばれました!おかあさんうさぎは大事な玉子を届けることが出来るのかしら?

2010年10月3日日曜日

私の中の谷に来る冬

 九月の間には、自分が思うような“読書”が出来たように思う。彼岸を過ぎてからではあったけれど過ごしやすい気候になり、身体中から流れていく汗の不快さも和らいだし、何よりも冬の準備として物語を溜め込もうとしていた。冬ごもりの準備と言えば、『ムーミン谷の冬』*で彼らがどっさりと松葉をお腹に詰め込んで冬を迎えるのだが、ああいう感じに自分が冬になっても乗り越えられるように、本を、物語を溜め込みたくなる。

 自分が冬になるというのは、本も読みたくないという時だ。「私がこの本を読んだからといって、どうなるというのだろう。藁で出来たこの頭に理解出来るというのか」という虚しさで荒れているときだ。書きかけで放置している小説の続きを書いてみてもつまらないし、読みなおしてみてもやはりつまらないし、それ以前に自分が書くものを信じられなくなっている時だ(これはよく起こることだから、やり過ごすのにそんなに辛くはない)。読んだところで私は賢くはならないし、それについて素晴らしい感想があるわけでもない。考える練習をずっと放棄し続けてきたので、考えようにもどこから始めればいいのかわからない。着眼点も、まあ無い。幾重にも重なる十二単のように、これらを引き摺っている。それはとても哀しいことだ。

 実際に来る冬で、自分が冬になるわけではないのだけれど、時折物語を疑ってしまうことがある。読むだけでもいいのか、私が読んでもいいのか、もっと他の、物語を心から求めている人が読むべきなのではないかと、愚かな疑いではあるのだけれど、私としては真剣である。自分が読んでいい物語などないのではないかと一瞬でも思ったら、泣けないほどに虚しくなる。

 九月に読んだ物語の中で特別に良かった、物語を読む人にはどうか読まれていますようにと願った本は、ロデリック・タウンリーの『記憶の国の王女』だ。とてもやさしい語り口で、平易な文体で綴られている。ただこれほど「絶対に読んでみて欲しい、そうでなければ、粗筋だけを伝えることはばかばかしい」と思う物語も、そうないと思う。物語と、物語を読んだものだけが持つ力というものは、実際存在すると思う。そうでなければならないし、そうあってほしい。物語が物語としてこれから先も生きていく為に。


記憶の国の王女
ロデリック タウンリー
読了日:09月27日

 これまで幾つも本を所持してきたし、またそれと同じくらいは手放してきた。けれど、たとえ手放したとしても、嫌いになって手放したわけではなかった。そして信じていた。今でも信じていたいと願っている。それを、物語に伝える術がないと言う事が、本当に悔しい。

 *『ムーミン谷の冬』トーベ・ヤンソン 山室静訳 講談社文庫

2010年10月1日金曜日

九月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年09月
アイテム数:16
ガラスの宮殿 (新潮クレスト・ブックス)
アミタヴ ゴーシュ
読了日:09月02日

青い野を歩く (エクス・リブリス)
クレア キーガン
読了日:09月05日

赤い薔薇ソースの伝説
ラウラ エスキヴェル
読了日:09月08日

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)
アティーク ラヒーミー
読了日:09月11日

血族 (文春文庫 や 3-4)
山口 瞳
読了日:09月12日

マグレブ、誘惑として
小川 国夫
読了日:09月14日

天使の運命 上
イサベル・アジェンデ
読了日:09月18日

天使の運命 下
イサベル・アジェンデ
読了日:09月19日

ウォーターランド (新潮クレスト・ブックス)
グレアム・スウィフト
読了日:09月20日

綺譚集
津原 泰水
読了日:09月22日

図書館警察 (Four past midnight (2))
スティーヴン キング
読了日:09月23日

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)
桜庭 一樹
読了日:09月25日

記憶の国の王女
ロデリック タウンリー
読了日:09月27日

幸福な食卓 (講談社文庫)
瀬尾 まいこ
読了日:09月27日

そんな日の雨傘に (エクス・リブリス)
ヴィルヘルム ゲナツィーノ
読了日:09月30日

powered by ブクログ

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...