2010年10月3日日曜日

私の中の谷に来る冬

 九月の間には、自分が思うような“読書”が出来たように思う。彼岸を過ぎてからではあったけれど過ごしやすい気候になり、身体中から流れていく汗の不快さも和らいだし、何よりも冬の準備として物語を溜め込もうとしていた。冬ごもりの準備と言えば、『ムーミン谷の冬』*で彼らがどっさりと松葉をお腹に詰め込んで冬を迎えるのだが、ああいう感じに自分が冬になっても乗り越えられるように、本を、物語を溜め込みたくなる。

 自分が冬になるというのは、本も読みたくないという時だ。「私がこの本を読んだからといって、どうなるというのだろう。藁で出来たこの頭に理解出来るというのか」という虚しさで荒れているときだ。書きかけで放置している小説の続きを書いてみてもつまらないし、読みなおしてみてもやはりつまらないし、それ以前に自分が書くものを信じられなくなっている時だ(これはよく起こることだから、やり過ごすのにそんなに辛くはない)。読んだところで私は賢くはならないし、それについて素晴らしい感想があるわけでもない。考える練習をずっと放棄し続けてきたので、考えようにもどこから始めればいいのかわからない。着眼点も、まあ無い。幾重にも重なる十二単のように、これらを引き摺っている。それはとても哀しいことだ。

 実際に来る冬で、自分が冬になるわけではないのだけれど、時折物語を疑ってしまうことがある。読むだけでもいいのか、私が読んでもいいのか、もっと他の、物語を心から求めている人が読むべきなのではないかと、愚かな疑いではあるのだけれど、私としては真剣である。自分が読んでいい物語などないのではないかと一瞬でも思ったら、泣けないほどに虚しくなる。

 九月に読んだ物語の中で特別に良かった、物語を読む人にはどうか読まれていますようにと願った本は、ロデリック・タウンリーの『記憶の国の王女』だ。とてもやさしい語り口で、平易な文体で綴られている。ただこれほど「絶対に読んでみて欲しい、そうでなければ、粗筋だけを伝えることはばかばかしい」と思う物語も、そうないと思う。物語と、物語を読んだものだけが持つ力というものは、実際存在すると思う。そうでなければならないし、そうあってほしい。物語が物語としてこれから先も生きていく為に。


記憶の国の王女
ロデリック タウンリー
読了日:09月27日

 これまで幾つも本を所持してきたし、またそれと同じくらいは手放してきた。けれど、たとえ手放したとしても、嫌いになって手放したわけではなかった。そして信じていた。今でも信じていたいと願っている。それを、物語に伝える術がないと言う事が、本当に悔しい。

 *『ムーミン谷の冬』トーベ・ヤンソン 山室静訳 講談社文庫

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