2018年2月19日月曜日

その年のクリスマスは

2017.12.24

 待降節に入った日から、「今年はどうあっても、クリスマスミサに与らねばならない」という気持ちが日々募っていた。この日はほんらいなら二つの意味で記念すべきお誕生日なのだ!まだわかいばか者としてふらふらしていた頃に与ったクリスマスミサを、わたしは今も新鮮な気持ちで思い出す。週に一度聖書勉強会に出席していながら、愛のことも神様のことも永遠のこともちっともわからなかったし、わからないくせにわかったような気分を時々感じていた頃のこと。

 その年の12月24日の夜7時、ヘッドライトとテールライトが明るい通りを尻目に、わたしは一目散に河原町教会を目指して走っていた。陽は落ちて空は青黒く、呼吸をするたび冷たい空気が肺を通って、それは冬が全身に巡っているようでもあった。西洞院に住んでいた頃のことだ。あの頃はどこへ行くにも大抵徒歩だった。いつもの通りだらだらと歩いていたのだけれど、部屋を出る頃にぐずぐずし過ぎたせいで気付いた時は七時数分前。どのみち遅刻することは決まっているようなものだったが、走らずにいられない時というものは、体力もなく足も遅いわたしにも存在するのだった。

 たくさんの人で溢れていた聖堂にこそこそと入り込んで聖歌を歌い、祝福を授けてくださる方の列(もう片方は聖体拝領の列)に並んで祝福をいただいてから、人の流れに沿って聖堂を出る。出入り口では紙を巻いて簡素な風除けにした背の低い蝋燭が一人一本配られた。前庭でしばらく待つようにとアナウンスがあり、吹き付ける寒風の中はやる気持ちを足踏みに変えて待っていると、隣の人の蝋燭からわたしの持った蝋燭へ火を移された。わたしもまた反対側の隣の人へ火を移す。小さく灯った光がひとびとの顔を美しく照らす。笑みをたたえて輝いていた。蝋燭から蝋燭へと光が分け合われ、その小さな火がどんなにあたたかな、明るい光かを初めて知った夜だった。

2017.12.25

 月曜日で仕事は休みではなかったのだけれど、急遽半休をとって教会へ行くことにした。わたしの住む町は東西に長いので、教会がふたつあって司祭様はひとり。普段の御ミサも時間をずらして行われている。クリスマスから元旦にかけての教会行事案内は数日前にポストに届いていたが、封を切ったのはつい二日ほど前の朝の事。納戸のような部屋へ上がる寒い階段に置きっ放しにしていたので、封筒も案内もしっとりと冷たくなっていた。イブの御ミサは行ったことがない方の教会で行われる事になっていたので、少し迷ったが結局は行かなかった。しばらく通っていた方の教会の御ミサは翌日の朝の予定で、もう何年も離れていたのだし、このまま…と思わないでもなかったが、明け方ごろに目が覚めた時にどうしても御ミサに与るべきだと思ったのだ。夜はまだ明けきっていなくてロールカーテンの隙間から見えた世界は青く沈んでいた。星は見えず世界で音を立てているのは、やみ時を逸したような雨だけだった。

 扉の前で一瞬ひるみ、やっぱり帰ろうかと思いはしたが、聖堂に入れば思い煩うこともなくなってしまった。心を過ぎる憂いごとは流星雨のように降り続くにしても、交わした約束を思い出しさえすれば勇敢な気持ちになったし、また心強く歩けそうな気もした。行かない理由はわたし自身の暗さでしかなかった。仕事先に向かう途中、少し長いトンネルを走りながら今日の司祭様の説教を、河原町教会で分け合われた蝋燭の火のことを思い出していた。小さくても光は暗闇の中で輝いている。いまわたしの前を走る車もまた、薄暗いトンネルを半円に照らしながら、ヘッドライトとほぼ同時に進んでいく。闇を割って光と共に進むひとを後ろから見ると、このように見えるのだろうか?わたしもまた後から来るひとから見れば光と共に歩んでいるのだろうか?

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...