2010年7月21日水曜日

ここではない、どこか遠くの、

 梅雨が明けてからすっかり夏の夜だ。窓を開けて風を入れているので、エアコンのない部屋でもじゅうぶんに涼しい。しなを作った夜風が吹いていて、マコンドに降った雨のようにずっと続きそうな雨もすっかり止んでいて、十年前から晴れしかなかったような日の夜の風が入ってくる。蛙の声はもう聞こえなくて虫の声がしていて。恨み抜いた地元の、懐かしい夏の夜だ。

 隙あらば「私のほんとうの両親は外国に住んでいて、仕方なく私をいまの父母に託したのだ」「だからいつか私は迎えが来る」「その人は気高く美しい」などと考える、どこにでもいるつまらない子どもだった。自分の凡庸さに嫌気が差したのは、だから随分早かった。特別な何かを妄想することはあったが、特別な何かになれるとは思えなかった。ただただ「ほんとうの私」でいたかった。年をじゅんじゅんに重ねていけば、ちゃんとした大人になるのだと。そうして大人になった時にはきっと外国に住むつもりでいた。横には優しい旦那様がいて、私はハーフの子どもをたくさん産んで、広くはなくても気持ちのよいアパルトマンで。

 とにかく地元は出たかった。出れば世界が変わるともずっと無邪気に思っていた。高校生になってもなりたいのは「大人」であり、「ほんとうの自分」だった。それがずっと小さい頃からの憧れだった。どうして私はここに立っているのだろう、どうして私は別の誰かではなくて私なのだろう、もしかして私はずっと夢を見ているのかもしれない……。なんとか受かった大学に通うようになっても、当り前だが変わらなかった。変わるはずがなかった。環境をどれだけ変えても、阿呆のような情熱で一心に「ほんとうの私」を探しているのでは、変わる事も出来なかった。変わる事が出来なかったら、「ほんとうの私」はいなかったという事になる。

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 このところずっと、生まれた国とは全く違う言語で書かれている物語ばかりを読んでいる。特に英語圏で英語を第二の言語として使っている作家が書く、翻訳の物語ばかりを。気になっているのはインドやイラン系の作家達で好んでそれらを借りたりしながら読んでいる。当り前なのだけれど、彼彼女たちの教育水準は高い。それはこの際どうでもいい。 
 面白い事に、彼彼女らは母国に戻っても、「もう」アメリカ人或いはイギリス人 と見られ、新たに生活している国では「まだ」インド人或いはイラン人というように、どちらに行っても異邦人だということ。どちらの国にいても周りが「もう」「まだ」染まらせてくれないのだ。
 彼彼女らは今いる国でしか、多分もう生きていかないつもりでいると思う。著者達の持つ「二つの国に存在」し、また「二つの国に存在していない」という危うさが気に入っている。特に彼彼女らの心がいつも現在と過去に同時に出現していて、いつもどこかを目指している感じがあるように思うからだ。
 そういう遠い目をしている物語に、私がずっと昔から探しているような「どこでもない場所への憧れ」と合流出来そうな場所があるんじゃないかと思っている。

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 私は今、出たくて仕方がなかった地元に住んでいる。結局、人は一度、生まれ育った場所に戻るのだろうか。そこで暮すにせよ暮さないにせよ、そうやって過去の自分と現在の自分とを同時に存在させて、どちらかを選ぶしかないのだろうか。沐浴した赤子を抱くように許した過去をすべて胸にかき抱き、慈しむしかないのだろうか。

 ここではないどこかはいつまでも探し続けると思う。だからこそ私はどこに行っても、借りた椅子を汚さないように座っているのだろう。座っていいのかよくないのか、周りをじろじろと眺めながら端っこの方にお尻をちょんと乗せるように。そうではなくて、ほんものの、ほんとうの私だけの椅子のような場所を探し続けると思う。許せるほど過去は美しくなく、愛せるほど私はものわかりがよくはない。ずっと昔から憧れ続けた場所に、私の椅子があるのか、私はそれを確かめなければならない。ここではないどこか遠くが、ほんとうに遠くにあるのか、それとも私のすぐ側にあるのかを、私は探し続けるのだ。支流が一本に繋がる場所を。見つかった時に物語は生まれるか、それとも永遠に眠るか。どちらにしても安らぎの場所だ。

2010年7月10日土曜日

お久しぶりね

子どもが昼寝をしている間は、私の自由時間だ。好きな事だけをする。好きではないがしなくてはならない事をする。好き嫌い抜きでするべき事をする。熱を少しずつ放射しながら眠る子どもの傍を離れて、あれこれする。そう言う時は完全に一人で、自分の身が二つに分かれてから味わう事が少なくなった、「かんぺきなひとり」になる。

まだ二歳手前な所為か、起きた時に機嫌がいいということは少ない。大抵、家の中の離れた場所でなにやかやとしている時に呼ばれる。「起きたー!」などというように。

いそいそと私は子どもの傍にすっ飛んでいく。そういう時に子どもの顔をまじまじと見ると、なんだか眠る前とは少し別人のような顔をしている。だから私はいつも、「お久しぶりねえ」と声をかけてしまうのだ。

子どもにとって眠りは、多分起きている世界とは断絶されている。ぽんと眠りの世界に投げ込まれ、そしてまたぽんと起きている世界に投げ込まれるように。うっとりとけれど乱暴な振り落とされ方で眠る。寝かしつけていると自身の限界まで目を開け続け、それからまぶたを可能な限り制御しようとしているけれども、いつも呆気なく、眠っていく。

起きた時にかのじょの世界はいつも一変している。見覚えのあるいつもの部屋、馴染みのある絵本、ちらかしたままのままごと道具。けれど同じ部屋の中で時間だけが確実に動き、部屋の中を攫っていくのだ。その度にかのじょはいちいち律儀に驚いているようにも見える。

そんなわけで私は「お久しぶりね」とかのじょを迎えるのだ。たった一人で眠りの国へ行ってたのね。お帰り、と。やがてその寝起きの「お久しぶりね」は学校からの帰宅を迎える時のことばになるかもしれないが、それまでは、母親ぶって寝起きを迎えようと思う。

6月の読書メーターまとめ

 2010年6月の読書メーター
読んだ本の数:9冊
読んだページ数:2126ページ

■おんな作家読本 明治生まれ篇
明治生まれの「おんな」の作家を取り上げた、うわさ話みたいに密やかに、慎ましやかな一冊。写真が少ないのが惜しい。かのじょ達の「お気に入り」や「遺品」などの写真もあり、そのそれぞれが大変にかあいらしい。一人の少女であり女であり、作家だったかのじょ達の日常を覗き見しているようで、楽しい。いつも本棚に置いて、「次は誰を読もう」と期待に胸を膨らませるためのチュウインガムになりそうだ。続刊も期待。
読了日:06月26日 著者:市川 慎子
おんな作家読本 明治生まれ篇


■柘榴のスープ
遠くアイルランドの地で「バビロン・カフェ」を始めたイラン人の三姉妹。混じり合う野菜や肉、ハーブの香りを想像しながら読んだ。時折無機物を擬人化させているところなどの表現が存外心地いい。耳をすませばとろとろと鍋の下でゆれる火の音やサモワールから注がれる湯が上げる蒸気の音まで聞こえてきそうだ。アイルランドの小さな田舎町ではさぞかしエキゾチックに映ったであろう三人が次第に食べ物を介しながら人々に迎え入れられる所はとても好き。イランでの三姉妹にまつわる過去は忌まわしいものもあったが清々しい物語だった。
読了日:06月21日 著者:マーシャ メヘラーン
柘榴のスープ


■クローディアの秘密・ほんとうはひとつの話 (カニグズバーグ作品集 1)
再(……)読。初めて読んだのは大学生の頃。「クローディアの秘密」もそうだが1960年代に出版されていただなんて、子どもだった人たち(そして子ども時代にそれらに触れた人たち)何と羨ましいことだろう!ミステリー仕掛けがある所もやはり良いし少女の成長譚と読める所も良い。「ほんとうはひとつの話」こちらは短編が四本。どれも子どもが成長しても持ち続ける秘密についての物語だ。
読了日:06月18日 著者:E.L. カニグズバーグ
クローディアの秘密・ほんとうはひとつの話 (カニグズバーグ作品集 1)


■東京島
人間が持つ嫌な部分をオーバーに引き出すのがとにかく上手い桐野夏生。現実の社会の中での物語だと彼女の特有の筆致で閉塞感がつきまとうのだが、逆に舞台が無人島であるせいでより開放的でもあった。なりふり構わず「生」に執着してつかみ取る(無人島で蜥蜴や蛇を捕まえるような)姿は、むき出しの人間のどん欲さが誇張してあるようでコミカルでもあった。
読了日:06月15日 著者:桐野 夏生
東京島

■街の座標
読了日:06月14日 著者:清水 博子
街の座標


■夜と灯りと (新潮クレスト・ブックス)
この乾いた寂寥感はなんなのだろう。そして物語の底辺を流れる虚しさは。ガリガリと身体を削られるようだ。登場人物たちの多くは乱暴で自堕落だけれど、それでもその傍にいつも、小さくても灯りがあってくればいい。自分の姿を見失わないように。
読了日:06月05日 著者:クレメンス マイヤー
夜と灯りと (新潮クレスト・ブックス)

■プレーンソング (中公文庫)
再……読。「特に何か目立った出来事が起こらない日常」が淡々と描かれているところが特別に好きだ。それとちょこちょこと出てくる競馬についても。競馬好きは大きなレースで季節を知る。体内時計のようなもので、それを主人公がちょくちょく目安にしているところなど。まるで流れている川のような、いつから始まっていつ終わっているかも川にとってはどちらでもいいように、穏やかに陽にきらめく水面を見て一日をすごすような物語だと思う。日々は、日々でありそれ以上のものではないのだな。
読了日:06月02日 著者:保坂 和志
プレーンソング (中公文庫)


■薔薇忌 (集英社文庫)
読了日:06月02日 著者:皆川 博子
薔薇忌 (集英社文庫)
薔薇忌の装丁はピンク地に緑色の花の絵なので持っているだけで気分が良い。

▼読書メーター
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本のタイトルはアマゾンに飛びます。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...