梅雨が明けてからすっかり夏の夜だ。窓を開けて風を入れているので、エアコンのない部屋でもじゅうぶんに涼しい。しなを作った夜風が吹いていて、マコンドに降った雨のようにずっと続きそうな雨もすっかり止んでいて、十年前から晴れしかなかったような日の夜の風が入ってくる。蛙の声はもう聞こえなくて虫の声がしていて。恨み抜いた地元の、懐かしい夏の夜だ。
隙あらば「私のほんとうの両親は外国に住んでいて、仕方なく私をいまの父母に託したのだ」「だからいつか私は迎えが来る」「その人は気高く美しい」などと考える、どこにでもいるつまらない子どもだった。自分の凡庸さに嫌気が差したのは、だから随分早かった。特別な何かを妄想することはあったが、特別な何かになれるとは思えなかった。ただただ「ほんとうの私」でいたかった。年をじゅんじゅんに重ねていけば、ちゃんとした大人になるのだと。そうして大人になった時にはきっと外国に住むつもりでいた。横には優しい旦那様がいて、私はハーフの子どもをたくさん産んで、広くはなくても気持ちのよいアパルトマンで。
とにかく地元は出たかった。出れば世界が変わるともずっと無邪気に思っていた。高校生になってもなりたいのは「大人」であり、「ほんとうの自分」だった。それがずっと小さい頃からの憧れだった。どうして私はここに立っているのだろう、どうして私は別の誰かではなくて私なのだろう、もしかして私はずっと夢を見ているのかもしれない……。なんとか受かった大学に通うようになっても、当り前だが変わらなかった。変わるはずがなかった。環境をどれだけ変えても、阿呆のような情熱で一心に「ほんとうの私」を探しているのでは、変わる事も出来なかった。変わる事が出来なかったら、「ほんとうの私」はいなかったという事になる。
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このところずっと、生まれた国とは全く違う言語で書かれている物語ばかりを読んでいる。特に英語圏で英語を第二の言語として使っている作家が書く、翻訳の物語ばかりを。気になっているのはインドやイラン系の作家達で好んでそれらを借りたりしながら読んでいる。当り前なのだけれど、彼彼女たちの教育水準は高い。それはこの際どうでもいい。
面白い事に、彼彼女らは母国に戻っても、「もう」アメリカ人或いはイギリス人 と見られ、新たに生活している国では「まだ」インド人或いはイラン人というように、どちらに行っても異邦人だということ。どちらの国にいても周りが「もう」「まだ」染まらせてくれないのだ。
彼彼女らは今いる国でしか、多分もう生きていかないつもりでいると思う。著者達の持つ「二つの国に存在」し、また「二つの国に存在していない」という危うさが気に入っている。特に彼彼女らの心がいつも現在と過去に同時に出現していて、いつもどこかを目指している感じがあるように思うからだ。
そういう遠い目をしている物語に、私がずっと昔から探しているような「どこでもない場所への憧れ」と合流出来そうな場所があるんじゃないかと思っている。
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私は今、出たくて仕方がなかった地元に住んでいる。結局、人は一度、生まれ育った場所に戻るのだろうか。そこで暮すにせよ暮さないにせよ、そうやって過去の自分と現在の自分とを同時に存在させて、どちらかを選ぶしかないのだろうか。沐浴した赤子を抱くように許した過去をすべて胸にかき抱き、慈しむしかないのだろうか。
ここではないどこかはいつまでも探し続けると思う。だからこそ私はどこに行っても、借りた椅子を汚さないように座っているのだろう。座っていいのかよくないのか、周りをじろじろと眺めながら端っこの方にお尻をちょんと乗せるように。そうではなくて、ほんものの、ほんとうの私だけの椅子のような場所を探し続けると思う。許せるほど過去は美しくなく、愛せるほど私はものわかりがよくはない。ずっと昔から憧れ続けた場所に、私の椅子があるのか、私はそれを確かめなければならない。ここではないどこか遠くが、ほんとうに遠くにあるのか、それとも私のすぐ側にあるのかを、私は探し続けるのだ。支流が一本に繋がる場所を。見つかった時に物語は生まれるか、それとも永遠に眠るか。どちらにしても安らぎの場所だ。
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