2018年3月22日木曜日

親愛なるわたしの世界の果て

物語が好きだ。他人の、架空の、本の中にだけある物語に 耽溺している間は、惨めな自分の人生を忘れられる。虚しい自分の生き様を、いっとき忘れさせてくれる。みすぼらしく貧しいわたしにとって物語は、魔法のマッチでもあり、何ガロンものすぐ酔える、火のようなジンでもあり、全身で受けているうちに体の境界が溶けていきそうになれる粉雪でもあり、またそれらに似た麻薬でもある。ほんものの魔法のマッチなど手に入るわけもなく、麻薬などまず惚けたように暮らしているわたしが目にする事はないだろう(『アンドロイドは羊の夢を見るか』のようなディストピア世界に明日、この町が変わったら手に入るかもしれない、まあそういうことは大抵は起こらない)。ジンどころか安酒一滴飲まなくなってしまったわたしにとっての物語は、境界線のようなものだ。現実からファンタジーの世界へ、行ってまた帰って来る為の。あるいは波打ち際で足首に戯れる波、または錨。物語も読まずにいまこの現実の、文化資本も果つる生活に耽っていたら、きっとわたしのこころだけが高く羽ばたいていってしまうだろう、それはそれで素晴らしい。そして二度と戻らない!

わたしは本を読むのが好きだと人に言うけれど、その時いつも自分のさもしさやわざとらしさ、みっともなさを感じ恥じている。自分自身の頭の悪さ、理解力の足らなさ、精神的な遅滞だけでなく、文化資本のない家庭で一から本を選ぶことは、濃霧の中を横断歩道を求めて彷徨うこととそう違いはないのだ。事実子供の頃は本はある日母親から気まぐれに手渡されるものであり、ねだって買ってもらうものでもなく、自分の家には本来ならないもので、小学校の図書室で借りることができた本を(今でも覚えている!ルイス・キャロルや江戸川乱歩にはここで出会ったのだ)、ばかの一つ覚えで繰り返し”文字を追っていた”。どれだけ読んだとしても何もわたしの中に残っていないのだ、これっぽっちも、あらすじすら危ういほどに。借り物の感性だったり、偽物の感傷だったり、即席の感情という、いくつもの美しい羽を手に入れて、とってつけたような感想を書いて自分を慰めていた、愚かで見栄っ張りのからす。自分の虚しさも、物語のフィルターを通して色とりどりの羽をくっつけた鴉でしかない、わたしという物語。恥ずかしさで燃えることが出来たら、わたしは一瞬にして消し炭だろうね?

それでも物語を求めてしまう。物語を読むことは物語の中の他人の生を、一時的/擬似的に生きることだからだ。自分が過ごせなかった時間を、あり得なかった過去を埋めるように、わたしは物語が欲しくてたまらない。指の隙間から全て流れ出ていった自分の人生よりも、物語の中の誰かの時間を過ごしていたい。逆に考えれば、自分の年齢に対して精神的な幼さがなくならない為だろうし、今にして思えば自分の時間を物語のなかの(他者の)時間にわざと預け続けてきたから、わたしはその分の生をすっ飛ばしているのかもしれない、とも思う。物語という強いものに甘えている。本を読むことも生きていることも、わたしにはそう大差はないのだ。それを笑う人はたくさんいたし、今でも笑われているのだと思う。それでぜんぜん構わない。ずっと笑っていればいい。わたしにそれが届きさえしなければいい。だから、何者でもなく何もなし得ることのない者に、物語は残しておいて欲しい。それこそがわたしの、みすぼらしい遺骨の為の骨壷になるだろう。

2018年3月19日月曜日

ヒッチハイク・ガイド付き

夜に車で田舎町の広い通り(一応は国道なのだ)を走るのは本当は好きだ、小さな町の車道は割合、広々していて心もとなくなるけれどそれは車の外にいたらであって、車の中なら安全で安心だからだ。もちろんそんな事を考えるのは、ほんの一瞬より長い間ーー恋に落ちる間とでも言うんでしょう?ーーだけのことだけれど。冬へ向かう頃、雨の降る夜に車に乗ると、まるきり宇宙船の脱出ポッドに乗り込んだようで、少し心細く同時に深い安心を、運転席に座る度に味わっていた。運転席に座ってエンジンをかけると、わたしの全ての運命を託した一人乗り用の宇宙船ポッドが、宇宙空間へ射出されて漂っていく気分。スリーツーワンゼロ!その日は霧雨で、フロントガラスには常に細かい水滴が吹き付けられていた。街灯に照らされると霧雨はどれも銀色に輝き始め、それは本当に宇宙船の窓から見る星々のようだったんだ。

春へ向かう頃(それは今なのだけれど)宇宙船の脱出ポッドだった車は、清潔で孤独な寒さが溶けてしまった外気の中では潜水艦へ変わってしまったみたい。春の息苦しさは水のようだものね。未だメインタンク・ブローの命令は無し。ベント開きっぱなしで、わたしは春の水底へ沈んだまま進むことになるでしょう。今夜はそんな事を思いながら、車を運転していたの。相変わらず一人でね。

飛ぶのがこわい

雲間からいく筋もあたたかな光が注がれ、春の海はとうとう透明になってしまった。春が近づいたら、背中が破けて羽でも生えてきそうな気持ちにならない?わたしはいまその気持ちを嫌という程味わっている。肩甲骨と肩の間のひとつづき、その辺りがむずむずしていて不快だし憂鬱な気持ちがもう何日も続いている。地上三センチくらいで常に浮いていたい(そして雪の上に足跡を残さずに歩いていきたい)と願っているけれど、飛ぶのは絶対に嫌、飛ぶのはこわい。飛べば落ちる。今年もどうか飛ばずに地上にとどまっていなくてはと思う。でもそのための確かな舫い綱は、今のところ見つかってはいないのだ。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...