2018年12月31日月曜日

西日のノスタルジア(過去日記からの転載)

「20080831」
 ずっと自分が不幸だと思っていたし、仮に幸せになったとしたら、その幸せに胡座をかいてもっと大きな幸せを、最上の幸せをとどんどん高望みをして、足下を見なくなって結局転がり落ちる、わたしはタロットカードの愚者の逆位置になるだろう。今目の前にあること以外の何も考えたくないし最低限するべきこと以外何もしたくない。なにも。ただ窓際に座って西日を見ていたい。

 西日が駆り立てるのはノスタルジア。子供だった頃でさえも「全てが懐かしい」と思わせる傾きかけた金色の光は、穏やかな海を金色に染めているだろう。西日はいつもわたしにある感情を抱かせる。その感情には名前をつけ難い。名前のない感情としか言葉にならないししようがないのだ。切ないと言えば確かに切ないけれど、それはもっと暖かみのある切なさで、物悲しいといえば物悲しいのだけれど、柔らかな愛しさを内包した物悲しさで、幽かにもの狂おしい。みぞおちの辺りをきゅっと優しく掴まれた気がする。ずっと昔からこの感情をわたしは知っていたし、これから先もずっと、忘れることはない。西日が差す度に「生きていることさえももう懐かしい」と思うのだ。

 わたしは「懐かしい」と金色の光の中で娘を抱く度に思う。この子がまだこの世界に出現する以前のことを、わたしの中でゆるやかに成長していた頃を、重くなったお腹を抱えて日々、この世の終わりのように泣きながら過ごしていた頃を。ほんの二ヵ月前のことが随分遠い過去のようだ。寝顔には過去から繋がっている未来が見える。まだ未確定な未来。未だ来ていない時間。

2018年12月30日日曜日

風はそこにとどまり、葦を揺らすことはなかった

 二週間に一度、図書館へ行く。図書館では本を借りる。新しく入った小説やエッセイ類に限らず、例えば岩波ジュニア新書で気になったタイトル、360番台、児童向けの図鑑、もちろん児童書からも選ぶ。興味の対象が短期間で切り替わるので、拾い読んだり、初めての分野なら、児童向けが良い。カラー絵や図が多く、言葉が平易なのに、大人向けより理解しやすい。

 本棚をじっくり眺めて本を選び、選んだ本を持って家まで帰ることができるのは、この町では図書館くらいだ。町の本屋は小さく、ショッピングセンター内の一角にある本屋は、さらに小さい(それでも、コミックス以外の新刊もないわけではないけれど、話題の本以外は扱いは小さかったり、なかったりする)ので、例えば仕事の後にふらっと立ち寄るにしても、今日は何を選ぼうか、あの本は入荷されたかと胸が高鳴る事はほとんどない。どうせ、ない。そう思ったら節穴の目玉も濁るのだ。町の本屋なんて取り寄せてもらった本を受け取りに行く場所、でもそれならネットで探した方が早いし便利だ……なんだったら古本で買うのでもいい……とこころねまで濁った考え方をする。まあそのくらいには貧民だから、新刊本なんて贅沢の極み、だからこそ欲しい本が欲しい。

 本や物語を読むのは好きだからだし、「物語を読むこと」に言葉以上のものは求めていない。わたしに何か良きものが(或いはまたよくはないものが)もたらされる、なんてことは一切ないことも、もう知っている。もし良きものがもたらされるのだとしたら、読めることそのもの、それ以上の報酬があるだろうか?読み終わった本について、感想をまとめられるくらいの技量がついていればいいのかもしれないけれど、それだって「読む事ができる事」のおまけのおまけのおまけだと思う。

 あの人が読むからわたしも読もうというのも、もうずっとしていない。「あの人が読んだ本」からは「あの人」以上に良きものを、わたしでは見出せないだろう。気に入りの書評家はいるので、彼彼女の書評から気になったものを選ぶ。読書のスタイルについて体系だっていないだとか、理解度が低いだとか、そういうものからは離れたい。自分自身にもなんの発展も期待していないし、わたしはこのまま朽ちるだけ。だからただ、死ぬまでの時間を使って、物語を渡り歩いていられたらそれでいい。飛び石みたいに。

 ずっと一人で本を読んできたし、本を……物語を読んで自分の思ったことをぽつぽつとネット上に残したりしてきた。誰かが読むことを期待していない、とは言わないけれど誰も読まなくても、わたしが読むから形に残している。わたしはわたしの1番の読者であり、理解者であり、他人だからだ。そうっとしておいてほしい。「ここはわたしの夢なのだから」。
But I, being poor, have only my dreams;
 I have spread my dreams under your feet;
 Tread softly because you tread on my dreams.

――Aedh wishes for the Cloths of Heaven  William Butler Yeats

2018年12月11日火曜日

スノー・ドーム

 光に透かすとなんでもきれいになる。例えばそれは、窓から差し込んだ光の中で踊る誇り。古びた信徒席に射すステンドグラスの赤や青や黄色。アオスジアゲハの一筋の青。水晶に劣らない輝きを放つつらら。

 人間も例に漏れない。まだ白目が青味がかっているこどもたちの、光るうぶ毛。大人もそうかもしれないけれど、大人を光に透かしたことはないな。眩しいから/風が強いからそこに立っててとは言った事がある。もともとわたしは毛のある生き物がみんな苦手だし、大きいとなおの事、きらい。大人は毛がごわごわしているし、大きな声を出すし、身体の大きさを考えずに勝手に動き回る。力の入れ方もおかしい。だから光に透かそうとも思わないし、透かさないから綺麗だとも思わない。それに加えて、光の中で会う機会はそんなに多くはないのだった。その人としたい事がないから、会おうと考えつかない。
”大人というものは夜を分け合うものだ”と、誰かが言っていた気がする。同じ部屋で一緒にいながら別々のことをして、自由に呼吸をするのが好きだった。真夜中に川を見に行ったり、星を探しに行ったり、バイオリンを弾いたり。夜を分け合うってこういうことでしょう。そんな人に、大人になってから出会えるのかしら。もう一度出会う事があるのかしら。

2018年12月5日水曜日

流星による永遠

天体については何も詳しくないが、星座に限らず星を探したり、星空を眺めるのは好きな方だと思う。でもほとんど、心を許す人くらいにしか言ったことはない。もちろん心を許す人はいないので、誰にも言わないで黙っている、星のように。

 

空気が少しずつ澄みはじめて、夜空が濃く美しくなる秋は、これから訪う冬を想起させる。いまだ来ない冬を待つ秋は、冬の次に好きだ。冬が好きになった理由の一つに「春は空が霞んでしまうけれど、冬は空気が澄んで星の瞬きまでよく見える」と、教えてくれた人がいたからだった。
 今年は、とてもせいせいした事がいくつかあったので、絶対に一人で星を見るつもりだった。オリオン座流星群が悪天候で見られなくても毎年めぐる流星群はあるし、意気込むほどのものかと思われるとしても、一人で見たかった。


秋でも夜中は冷える。何年も着ていて身体によく馴染むボアのあるパーカー。薄手で軽いけれど風は通さないキルティングジャケット。だぶだぶのジーンズと来たる冬に備えて新調した裏起毛のスポーツスパッツ。ストールとウールの靴下、秋冬用のスニーカー。寝転がって見たいから地面に敷く段ボールと新聞紙(暖かい上に使った後は捨てられるのだ!)。それから、オリオンがのぼるまでは仮眠。月の入り辺りの時間にアラームを合わせたけれど結局、うとうとすらできなかった。そっと扉から抜け出して、闇に目を凝らす。夜が沈んでいるみたい。寝転んで星空を眺めていたら低い鼻先まで冷えてしまった。薄雲がかかっては散っていったけれど、オリオン座が天にゆっくりのぼっていく間に、大きいもの、尾を長く引くもの、輝きの強いものがいくつも見えた。


学生時代もこんな風に流星群のために、夜中に出歩いたことがある。わたしたちが生活していた学生アパートは住宅街にあって、その一帯は街灯もそれほど多くなく、夜は水底のように暗くなる。高いと言ってもせいぜい三階程度の建物しかないために、どこからでもうまく見えるからアパートの裏手の駐車場で見ようということになった。

その年は獅子座の流星群が極大と言われた年で、当時ままごとの恋をしていた人と待ち合わせた。はんてんにダッフルコートを重ね着してむくむくしていたのに、寒さは地面から、身体を伝って服の隙間から這い上がってくる。手袋は忘れたので手はポケットに突っ込んで、星を待った。まだ雪の降る前の京都、住宅街の中にある学生アパートの駐車場で、わたしたちはいくつも闇に閃く星を見た。ねえ三十三年後の今日に、わたしたちは一緒に星を見るの、と聞いたか聞かなかったか、どっちだったか、もう忘れてしまった。当時はまだ、恋なのか執着なのかは知らなかった。でも決して愛ではない事は知っていたと思う。


人と星を見ることはもう多分、この先ないだろうと思う。同時に人とは星を見たくないと思っている。わたしが好きなのは、愛しているのは、思い出でしかないから。星そのものはいつだって流れているのと同じように、わたしは常に記憶や思い出の中にいるからだ。思い出も記憶も持ったままだから、一人でいても何も淋しくはない。何も怖くはない。空を裂いてどこまでも翔ける流星みたいでしょう。それに今はおんぼろでも車があるので、星を見るためにひとりでも、勇敢な気持ちで出歩いていけるしね。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...