天体については何も詳しくないが、星座に限らず星を探したり、星空を眺めるのは好きな方だと思う。でもほとんど、心を許す人くらいにしか言ったことはない。もちろん心を許す人はいないので、誰にも言わないで黙っている、星のように。
空気が少しずつ澄みはじめて、夜空が濃く美しくなる秋は、これから訪う冬を想起させる。いまだ来ない冬を待つ秋は、冬の次に好きだ。冬が好きになった理由の一つに「春は空が霞んでしまうけれど、冬は空気が澄んで星の瞬きまでよく見える」と、教えてくれた人がいたからだった。
今年は、とてもせいせいした事がいくつかあったので、絶対に一人で星を見るつもりだった。オリオン座流星群が悪天候で見られなくても毎年めぐる流星群はあるし、意気込むほどのものかと思われるとしても、一人で見たかった。
秋でも夜中は冷える。何年も着ていて身体によく馴染むボアのあるパーカー。薄手で軽いけれど風は通さないキルティングジャケット。だぶだぶのジーンズと来たる冬に備えて新調した裏起毛のスポーツスパッツ。ストールとウールの靴下、秋冬用のスニーカー。寝転がって見たいから地面に敷く段ボールと新聞紙(暖かい上に使った後は捨てられるのだ!)。それから、オリオンがのぼるまでは仮眠。月の入り辺りの時間にアラームを合わせたけれど結局、うとうとすらできなかった。そっと扉から抜け出して、闇に目を凝らす。夜が沈んでいるみたい。寝転んで星空を眺めていたら低い鼻先まで冷えてしまった。薄雲がかかっては散っていったけれど、オリオン座が天にゆっくりのぼっていく間に、大きいもの、尾を長く引くもの、輝きの強いものがいくつも見えた。
学生時代もこんな風に流星群のために、夜中に出歩いたことがある。わたしたちが生活していた学生アパートは住宅街にあって、その一帯は街灯もそれほど多くなく、夜は水底のように暗くなる。高いと言ってもせいぜい三階程度の建物しかないために、どこからでもうまく見えるからアパートの裏手の駐車場で見ようということになった。
その年は獅子座の流星群が極大と言われた年で、当時ままごとの恋をしていた人と待ち合わせた。はんてんにダッフルコートを重ね着してむくむくしていたのに、寒さは地面から、身体を伝って服の隙間から這い上がってくる。手袋は忘れたので手はポケットに突っ込んで、星を待った。まだ雪の降る前の京都、住宅街の中にある学生アパートの駐車場で、わたしたちはいくつも闇に閃く星を見た。ねえ三十三年後の今日に、わたしたちは一緒に星を見るの、と聞いたか聞かなかったか、どっちだったか、もう忘れてしまった。当時はまだ、恋なのか執着なのかは知らなかった。でも決して愛ではない事は知っていたと思う。
人と星を見ることはもう多分、この先ないだろうと思う。同時に人とは星を見たくないと思っている。わたしが好きなのは、愛しているのは、思い出でしかないから。星そのものはいつだって流れているのと同じように、わたしは常に記憶や思い出の中にいるからだ。思い出も記憶も持ったままだから、一人でいても何も淋しくはない。何も怖くはない。空を裂いてどこまでも翔ける流星みたいでしょう。それに今はおんぼろでも車があるので、星を見るためにひとりでも、勇敢な気持ちで出歩いていけるしね。
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