2013年3月11日月曜日

灯台守

 三月、生温く艶かしい風が頬を撫で上げるように吹く。蛇口から迸る水は温んだ。山から漂うのは生臭い生の匂いばかりだ、視界は安っぽくがさがさと音を立てる裏地に似た薄物で覆われてしまい、享楽に耽っている最中の部屋を覗き見しているようで居心地が悪い。居心地の悪さの為なのか俯いてばかり居る。北風は行ってしまっただろう、清潔で埃っぽく決然とした雪はもう降らないのだ、しばらくは。また溶け残ってしまったのだ。

 明るい春の日と白い花曇の日々、消えた晩春。同じ名前の月を、広がる楕円軌道の年の中で繰り返しながら、結局はある年の春へ焦点を合わせている。残ってしまったのだ、と思うようになったのはあの十年前のことだろうか、それとももっと昔、或いは最近のことか。反物をするすると広げるように、生きていけば生きていくほど続く時間の中に差した待ち針は、どれがどれなのか誰が(私が?)何の為に差したのか曖昧になっていき、今はどこにいるのやら。

 雪の道を風を切って歩いていたのに、同じ距離を歩くのにも数度立ち止まる。幾つかがずれている、例えば歩調、例えば歩幅、例えば歩数。身体の中心にある(ある、と思われる)芯のような核のような、冷たく確固としたものが蕩け出していく。その程度の軟弱さでありながら、決して決壊しない身体という枠の内側で、たぷんたぷんと揺らしながら生きる。空っぽなはずの身体なのになんと重いこと。右に左に、脚を踏み出す度に揺れて船酔い、やはり私は船乗りではなく、愛を持たない灯台守で居たらよい。朽ちるまで佇んでいたらよいのだ。光も闇もなく、ただ立っていればいい。死ぬまでこの町を出ないと分ったのだから。

2013年1月2日水曜日

Regard du hiver まなざし

 私は私を繰り返しコピーしてきた、別れの度に粗くなり、ノイズにまみれながら、でも常に一つの別れを繰り返していた。繰り返している。繰り返していくだろう。たった一つの別れの言葉を誰にも言えないまま、崩れ落ちるまで繰り返す。「            」。今では別れの言葉も長く乱れて余分な情報が鎖のようについて垂れ、未来の私が確実にそれを読み取る事が出来るかはわからない、まだ今は未来ではないから。“今、今、今!”という風が吹きすさぶ嵐が丘で、私は嵐に見つめられている。

 嵐の中で聞こえるのは北風の歌……「私は貴方!貴方が私!」古びたベランダから手を伸ばして北風を——ひらめく薄物のような——掴もうとするのだが、金の輪を幾つも嵌めた私の指にも首にも、絡む事なく私を閉じこめる。ああ、私が私と約束する為の金の輪は、私の指に、首筋に、這って絡み付くように増えてしまった。こんなにも愛おしい世界との、永遠の婚姻の為にと選び続けた金の輪は、私を地に留めている、それが、孤独という事だ。

 私はいつもおまえの頬に口づけをする。返礼におまえは私の頬に口づけをする。

 すっかり、私は繰り返し書き続けてきたただ一つの別れの物語の、書き方を忘れてしまった。執念深く骸に取りすがり、肉が崩れ去った後の骨を腕に抱き続けていたというのに。その骨も既に砂になってしまった。うてなには砂は留まらない。

 指先からこぼれ落ちるのはもう、文字ではなくなってしまった。涙も涸れて血も濁り、滴り落ちるのは時だけだ……。別れの言葉は私から、それは風の音に紛れて誰にも聞こえないだろう。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...