三月、生温く艶かしい風が頬を撫で上げるように吹く。蛇口から迸る水は温んだ。山から漂うのは生臭い生の匂いばかりだ、視界は安っぽくがさがさと音を立てる裏地に似た薄物で覆われてしまい、享楽に耽っている最中の部屋を覗き見しているようで居心地が悪い。居心地の悪さの為なのか俯いてばかり居る。北風は行ってしまっただろう、清潔で埃っぽく決然とした雪はもう降らないのだ、しばらくは。また溶け残ってしまったのだ。
明るい春の日と白い花曇の日々、消えた晩春。同じ名前の月を、広がる楕円軌道の年の中で繰り返しながら、結局はある年の春へ焦点を合わせている。残ってしまったのだ、と思うようになったのはあの十年前のことだろうか、それとももっと昔、或いは最近のことか。反物をするすると広げるように、生きていけば生きていくほど続く時間の中に差した待ち針は、どれがどれなのか誰が(私が?)何の為に差したのか曖昧になっていき、今はどこにいるのやら。
雪の道を風を切って歩いていたのに、同じ距離を歩くのにも数度立ち止まる。幾つかがずれている、例えば歩調、例えば歩幅、例えば歩数。身体の中心にある(ある、と思われる)芯のような核のような、冷たく確固としたものが蕩け出していく。その程度の軟弱さでありながら、決して決壊しない身体という枠の内側で、たぷんたぷんと揺らしながら生きる。空っぽなはずの身体なのになんと重いこと。右に左に、脚を踏み出す度に揺れて船酔い、やはり私は船乗りではなく、愛を持たない灯台守で居たらよい。朽ちるまで佇んでいたらよいのだ。光も闇もなく、ただ立っていればいい。死ぬまでこの町を出ないと分ったのだから。
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