2010年12月31日金曜日

扉にて

 ミレイの絵に、「はじめての説教」と「二度目の説教」がある。初めて教会の信徒席に座ることを許された、赤いコートの幼女が、厳粛な面持ち——それは彼女が持ちうる限りの厳粛さで——お説教を聞いている絵と、二度目の教会でのお説教で、ふと張りつめていた緊張を緩めて、身体をくにゃりと曲げて転寝している、二枚の絵。

 去年の暮れに、カテイノジジョウにかたがつき、今年は新しく始めるのだと思いながら、月日を過ごした。嘘のない日々を。笑われるとしても、自分を卑下することはなく、微笑み返すことの出来る日々を。その時には既に涙を失っていたので、随分気楽だった。もう泣く必要もないと言う事は、自己憐憫に浸りきって絞り出す哀しみもないはずだから、と(とは言え、十月に映画館で二時間ほど泣いたので、完璧に涙を失ったわけではなかったのだが)。それ以外には一切涙も滲まない生活をしているので、実際どうかは、まだよくわからないけれど、私は随分健康になったように思う。頭が健康でいられるというのは、とてもよい。

 今年は、私の「はじめての説教」だった。真っ直ぐと前だけを見て、声の聞こえる方へ耳を傾け、口を結び、全てをただ受け入れる、受け流すのではなく。それはとても気持ちのよいことで、今でもまだ少し、ぽうっとしている。初めての説教を聞いた後の彼女が、軽い興奮と安堵と、そして祝福に包まれているように。

 来年、と言ってももうあと僅かな時間しか今年は残っていないけれど、来年もまた同じようでありたい。いつでも初めてであるように、受け入れる余地を持ちながら、その光の道を歩いていけるように、謙虚でありたい。

 そしてまた、あなたたちに会いたい。

2010年12月28日火曜日

世界と私の二人組

 前提が必要だとすれば、山崎ナオコーラとは同世代である、という事、ほんの少し饒舌に、作家の言いたい事を直接主人公が代弁しているような部分が、物語の中で見られるという事。所謂ロストジェネレーション世代特有の、感情の揺られ方というか醒めかけた視線というか、そういうのは同世代たちが広い意味で共有していると思う。彼女の筆の運び方は、じっとりウェット過ぎもしないし、過剰に元気でもない。何かを熱く燃え上がらせる事よりも、自分の内側にまず、ぽつぽつと灯を点している方が、大事。

 『この世は二人組ではできあがらない』を読み終わった時に思ったのが、人と別れた時って信じられないほどの開放感を味わったっけ、という事だった。二人或いはそれ以上の、恋人または友人と過ごす時間が決して嫌いなわけじゃないのだが、「じゃあね、またね」と手を振り合った瞬間に、ゆるゆるとした何かで巻かれていたのが解ける、あの感覚。巻きついた何かは、トイレットペーパーのようにすぐ溶けるのだけれど、同じ空間同じ時間を過ごす間は溶かせない。ぺたりと濡れて身体中に貼り付いている。

 でもその巻きついたものの残りをひっぱりながら帰宅するのは、例えば好きな人の吸っていた煙草の煙に燻されたような感じで、心地よかったりもする。ふと着ていた服に移っていて、それに後から気がつくというところが、心地よいのだ。存在しているのに不在。会わない時間の方が、会っている間よりもより濃く相手を思うことが出来るから、その不在がより愛おしい。なので会っている最中ももちろん素晴らしい時間なのだけれど、その後余韻に浸りながら帰り道を歩いている時間も、素晴らしく気分が良い。

 社会に属する大抵の女性と男性は、ある程度の年齢に達したら結婚して新しい、ごく小さい家庭を持つべきだと言われていた時代(経済的な事はさておき、特に昭和の時代の話)に比べると、社会というよりも、世界の中で生きるということにおいては、今の時代の方が、温度の調節が出来るプールで泳いでいるような気がしてくる。結婚していない事、恋人がいない事を、正当化しても負け惜しみには聞こえにくくなった。私の母と同世代の女性たちは、経済観念的に自由が許され始めた頃だったけれど、学歴よりも、結婚している/していない事が、社会の中にいて振り分ける時に使われる物差しでもあった。

 誰かと生きるというのではなく、世界の中で生きるという緩い広がりというのも、良いと思う。二人組、詰まる所夫婦、恋人同士、親友同士でのみ構成される世界は、色鮮やかで美しい。けれど熱帯植物の温室のように息苦しさもある。それは多分、向きと不向きであって、しないからおかしいというものでもない。

 一人でいる、と言ってもあくまで「みんなの中で」という前提があっての事だ。山崎ナオコーラという人は世界の流れの中できちんと同じ水であろうとしているようで、良いなと思う。ちゃんと流れを探そうとしているというところも。

2010年12月12日日曜日

パズル

 世界は美しく完成される為にあるパズルだったはずだった。箱を見ながら作りさえすれば、美しく完成するはずであって、完成しないのはまだ私が生きているからである。作成途中の私のパズルが美しく見えないのは私の尻が青い所為であって、世界の所為ではない。

 どのくらいまで出来上がったか、というのを俯瞰してみる事が出来ないでいる。近づいてピースをはめ込んでいるからではなく、寧ろモザイク模様のように出来上がっている場所と場所とが遠過ぎて、また繋がりがあるようには思えなくて、どうはめ込んでいけばいいのか迷っている。過去と現在の、現在と未来の、過去と未来の、繋がり方が滅茶苦茶なのだ。

 それぞれの「世界のパズル」を完成させる為にはこちら側も、「角が潰れているから」「見つからないピースがあるから」「不器用だし完成図を想像出来ないから」と思っていては完成しない。とは言っても相性もあるし、難度が技量よりも高かったりすると、やっぱり難しい。幼児が苛立って積み木を崩してしまうように、わーっとぐしゃぐしゃにしたくなる。そしてそういう場面に私は頻繁に立っている。

 必ず完成するパズルじゃないんだ、とは知らなかった。知っていたからといって上手く繋ぎ合わせていけたかというと、そうではないのだけれど、それなりに繋がっていくものだと思っていたからだ。いざ開けてみても、ピースが全部揃っているわけではなかった。紛れ込んでいたり角が潰れていたり、そもそも入っていなかったり。それでも大抵の場合はそこに欠けたピースがあるとして、繋げられたはずなのだ。「なんだかよくわからないけれど、同じ色っぽいから多分ここだ」とねじ込んだピースが、私のパズルには沢山あるはずだ。その所為で、どこかしかが歪んでいたり、俯瞰した時にどうにもおかしい繋がり方をした部分があったり、と。それはそれで面白くはあるだろう。結局過去は肯定する為にしか存在出来ない。否定をしてしまったら、現在の自分はどこに消えるのだろう。箱の中だろうか?

2010年12月1日水曜日

十一月の読書まとめ

 読んだ数についてはどうも思わないが、二冊、十一月にまつわる物語を再読出来たので良い月だった。一冊は『十一月の扉』、もう一冊は『ムーミン谷の十一月』。長々と読みかけては放置を繰り返したデュラスの『破壊しに、と彼女は言う』もやっと読めた。所々クククと笑いながら、しんみりとしながら読んだのは『わたしは英国王に給仕した』。私好みの、ちょっとしたロマンスありマジックリアリズムあり、そして三組の(一組は婆様、一組は中年、もう一組は少女)二人姉妹という憧れる血縁が出てきて、読み終わる時に軽やかな淋しさ——それは例えば旅行先で出会った気持ちの良い旅人のような、多分もう二度と会えないとわかっている相手へ「またいつか」と言って別れるような——を残していったのが『オーウェンズ家の魔女姉妹』。ふせんだらけで本の天からにょきにょきとキノコが生えているようになってしまったのが『昼の家、夜の家』。ティーン特有のひりひりした焦燥、疾走感で一気に読み終えてしまったのが『マチルダの小さな宇宙』。阿呆のように次へ次へとページを捲ってしまったのがフエンテス『アウラ・純な魂』、指先から首筋へさむけがつうっと這い上がった。爽やかな悪夢、という読み心地だったのは『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』。この作家の未翻訳がどんどん日本語に翻訳されますように!

いつか読んだ本の記憶
2010年11月
アイテム数:17
ローカル・ガールズ
アリス・ホフマン
読了日:11月05日

舞い落ちる村
谷崎 由依
読了日:11月07日

静子の日常
井上 荒野
読了日:11月07日

海炭市叙景 (小学館文庫)
佐藤 泰志
読了日:11月14日

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)
オルガ トカルチュク
読了日:11月16日

マチルダの小さな宇宙
ヴィクター ロダート,Victor Lodato
読了日:11月16日

市立第二中学校2年C組
椰月 美智子
読了日:11月18日

記憶の小瓶
高楼 方子
読了日:11月18日

わたしが棄てた女 (講談社文庫 え 1-4)
遠藤 周作
読了日:11月22日

ムーミン谷の十一月 (講談社文庫 や 16-8)
トーベ・ヤンソン
読了日:11月24日

フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)
カルロス フエンテス
読了日:11月25日

黒いハンカチ (創元推理文庫)
小沼 丹
読了日:11月25日

破壊しに、と彼女は言う (河出文庫)
マルグリット デュラス
読了日:11月27日

失われた絵 (1981年) (河出文庫)
高橋 たか子
読了日:11月28日

オーウェンズ家の魔女姉妹
アリス・ホフマン
読了日:11月30日

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2010年11月4日木曜日

はてしないものがたり

 物語のように生きたかった。本を開き物語の扉を開けるように始まり、そしてまた本を閉じる時のようにゆったりとした気分でいのちを終える。私という物語はありふれてはいるが、それもそれで良し、世界という図書館に最期に収めてもらえたら、と。私は世界に期待しすぎている。

 浮ついた生き方をしてきたので、どういうことが地に根を張った生き方なのかよくわからない。私は私として生きるのが初めてなので、何もかもが経験不足で周りの人達のように「こういう場合にはこうすればよい」「こういう場面になった時にはこう躱せばよい」という事が今ひとつわからない。だから毎回体当たりをして試すようにばかりして、ドアをこじ開けていたようにも思う。「一つ一つ、人よりも試さなければわからないのよ」を錦の御旗にして。甲冑を着込んで大きな音を立てて歩き、周りも構わず「酒はないのか」と大声を張り上げる、無礼な兵士みたい。人一倍努力を嫌い、人一倍名誉を欲しがる、嫌ったらしい兵士みたい。

 四半世紀を生きて過ごした頃、もう物語のようには生きられない、とわかった。わかってしまった。うすうすは気がついていたけれど、それが形になるのが怖かった。だから先延ばしにし続けて来た。会う人たちには享楽ぶって、無頼ぶってばかりいるしか、もう出来なかった。けれど生きるという事は生活する事でもあった。私に生活は向かない、などと精神だけ貴族ぶってもいられなくなってしまった。もちろん本物の貴族ではないので猿真似でしかないのだが。今でも精神だけでも貴族ぶりたいとは思う。朝食室でスウプをひと匙吸って「あ……」と、か細く叫んでみたい。

 でももう物語のようには生きられない。子どもがいる。子どもは生きて存在している。身勝手に終わらせてしまえるほど、私は身軽ではなくなってしまった。どうして今ここで本を閉じられないんだろう、と何度思った事だろう。あの日に閉じてしまいたかった。閉じるつもりだったのに結局閉じられないまま、私はまた明日も私という死ぬまで終わらない物語を書き続け、読み続ける。神が私を生から分つ日まで。

2010年11月1日月曜日

十月の読書まとめ

 十月のうちに『10月はたそがれの国』ほか、ブラッドベリを再読しようと思っていたが、思ったよりも足早に、十月が裾を翻して行ってしまった。

いつか読んだ本の記憶
2010年10月
アイテム数:11
リオノーラの肖像 (文春文庫)
ロバート ゴダード
読了日:10月01日

バベットの晩餐会
イサク ディーネセン
読了日:10月03日

通話 (EXLIBRIS)
ロベルト ボラーニョ
読了日:10月06日

駱駝はまだ眠っている
砂岸 あろ
読了日:10月07日

床下の小人たち (岩波 世界児童文学集)
メアリー ノートン
読了日:10月14日

遠い女―ラテンアメリカ短篇集 (文学の冒険シリーズ)
フリオ コルタサル,オクタビオ パス,カルロス フェンテス,フリオ・ラモン リベイロ,アルフォンソ レイエス
読了日:10月16日

イースターエッグに降る雪
ジュディ バドニッツ
読了日:10月22日

岸辺の旅
湯本 香樹実
読了日:10月24日

悪人
吉田 修一
読了日:10月29日

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2010年10月30日土曜日

びいだま/びいどろ

 この間の日曜日に、京都へ出かけた。京都へ行ったのは実は一年ぶりであったけれど、その時は岡崎の美術館に直行して、また駅へ直帰したので市内を歩いたりもしなかった。だから変わりつつある京都駅と変わらない京都に、少し戸惑った。何年ぶりだろう、私がトウキョウへ出たのは確か四年前の夏の終わり。私が地元に戻ったのは、二年前。まったく京都に干渉しなかった。

 山形にいるという友人——お互いがお互いを友人と認識していると、ここでは仮定する——が京都に遊びに行くという知らせを受けたのは、まだ夏の暑い盛りのことだった。私たちは京都で出会った。六年か七年前、三条烏丸のスターバックスで。あの頃私は四条に住んでいて、馬鹿なことばかり繰り返していた。それが馬鹿なことだと知らなかったからだ。駄目な女である私が好きになる駄目な男達を、だから彼は(覚えているかはさておき)大体全員話で聞いて知っていることになる。

 私たちが一番よく会うのは京阪淀の駅にある京都競馬場でだった。私が京阪で、彼が確か近鉄から京阪に乗り換えて、競馬場でちょくちょく会った。私が先にほろ酔いだったこともある。ある日待ち合わせ場所で立って、一応新聞を開きながら待っていた。春と呼ぶにはまだ早い日曜日の昼下がりのこと。話しかけてくるおじさん達に、仕事で覚えた口角をくいっとあげる笑い方を顔に貼って応じていた。なかなか現れないのでどうしたものかと思っていたら、おじさん達がいなくなってから彼が現れてひと言「(おじさん達に)めちゃくちゃ馴染んでたぞ……」。

 私たちは、男女間の友情がうまく成立した友達だったと思う。例えば恋人や配偶者にされれば怒り狂うようなことでも、友達だから狂わない。恋人や配偶者にされて嬉しいことを、友達にされたらそれはそれで嬉しくなる。一緒にいれば楽しいし、一緒に出かけて別れた後も淋しくない。「これをしないで、あれもしないで」といちいち目くじらを立てることもない、友達だから。例えば恋人同士なら会えばセックスするだろう。けれど友達だからしない。例えば友達から桐野夏生を勧められたらぜひ読むが、これが配偶者や恋人から勧められたら勘ぐっているだろう。その程度のことだが、友達なら深読みすることもなく受け取れるのだ。

 あの頃と違うのは、私には子どもが一人いて地元を死ぬまで出る事はないということ。あの頃は薄汚れていた京阪淀駅が、いくらか綺麗に手入れがされていたこと。よく馴染んでいた名前の馬たちはほとんど引退していて、母になり父になり、または永い眠りにつき、この日走っていた馬たちはその子ども達で、世代交代しているいうこと。時間は一定方向へしか進まない。私も彼もその流れに、乗るより他はないということ。私たちの友人関係も、いずれ彼に(或いは私に)訪れるかもしれないささいなきっかけで終わるということ。終わらないものはない。あのマコンドに降り続けた雨も止んだし、ノアを押し出した洪水も四十日と四十夜で、オリーブの枝をくわえて鳩が舟に戻ったのだから。

 その日までは、私は彼と友達でいたい。願わくば、私が映画館で滂沱たる涙を気付いていないでいてくれんことを。もう、会うことはできないのだろうから。私たちは別々のビイ玉なの。ぶつかればはじけ合う。一つに溶け合うことは決してあり得ない。そういう、友達なのでしょう?

2010年10月24日日曜日

草の子

 百人くらい子どもが産みたい、と思っていた。そして産めるんじゃないかとも思っていた。だんだん身体の仕組みを知るにつれて、さすがに百人は無理だとわかったが、十人くらいなら、体力と経済力と精神力が許せば、産めるのかも知れないな、と思っていた。野球チームを作りたかったわけではないが、トラップ一家に憧れていたのかと言われれば、否定はしない。あんな風にたくさんの子ども達が、広い庭や広いお屋敷の中でくすくす笑いながら、歌いながら、時にはぽろぽろとお菓子をこぼしながら笑ったり、誰かが涙を流しても、それを慰め合えるのなら、とても素敵だろう。誰かと秘密を共有し合ったり、こっそりと悪戯の相談をしたり、喧嘩の仲裁をし合ったり、騒がしくてもそれは心地よい騒がしさだろう。だから沢山子どもが欲しかった。

 私には弟が一人いる。私たちがきょうだいになった途端、私たちはお互いに「ウマが合わない」と気がついた。とにかく寄ると触ると喧嘩する。喧嘩の種がなければお互いで作ったし、弟は泣き真似が異様に上手かったので、私が手を出した所為もあるのだがよく怒られた。お互いが成人してからも、同じ屋根の下に三日以上一緒にいると、どちらともなく避け始める。多分家族でなかったらまず一緒にはいられなかったのだと、わかり合っていた。だから余計に弟ではないきょうだいに憧れた。沢山きょうだいがいたら、その内の誰かとは気が合うかもしれない、と。自分の母親にはこれ以上のきょうだいは出来ないだろうと思っていたから、それなら私が産めばいいのだ、と。

 だから沢山産もうと思っていた。どっしりと落ちついたお母さんになって、沢山の子ども達と一緒に散歩したり歌ったりご飯を食べたり、夜は部屋一杯に並べられたベッドで皆が寝静まる頃にそっと、一人一人のおでこに、くちづけをしたかった。例えばミムラのお母さんのように。例えばふわふわしっぽ*のように(そういえば、どちらにも父親の影がほとんどない。そして私もそれを考えた事が無い。いつも私の中では父親的な者には顔が無い、ムーミンパパくらいしか)。

 「カテイノジジョウ」とやらで、この先子どもを持つということは、今いる一人娘の他には多分ない。実際にはそんな経済力も無いので、産めるはずも無いのだから夢物語どころか、眠る時に見る夢のようなものだ。家族でも相性があるのだと知った今ではそんな乱暴な事は望めないし、そもそも「カテイノジジョウ」なのだから。それでも時折はぼんやりと思う。百人の子ども達のことを。どっしりとしたお母さんになった私のことを。地面からにょきにょきと生えてくる沢山の子ども達のことを。


*『ふわふわしっぽと小さな金のくつ』

デュ・ボウズ ヘイワード
PARCO出版
発売日:1993-08

「イースター(復活祭)」ってしってますか?春分の最初の満月の後の日曜日がその日に当たり、キリスト教信者は罪を告解し、聖体拝領を受ける日でもあります。それまで教会に通い、勉強をしてこの日に信者になることを許されたりします。
カラフルに飾られたり隠されたイースターエッグや玉子を模したチョコレートは、その前日にうさぎが運ぶという言い伝えががあり、生命の象徴です。
さて、そんなイースターエッグですが、おかあさんうさぎがイースターバニーに選ばれました!おかあさんうさぎは大事な玉子を届けることが出来るのかしら?

2010年10月3日日曜日

私の中の谷に来る冬

 九月の間には、自分が思うような“読書”が出来たように思う。彼岸を過ぎてからではあったけれど過ごしやすい気候になり、身体中から流れていく汗の不快さも和らいだし、何よりも冬の準備として物語を溜め込もうとしていた。冬ごもりの準備と言えば、『ムーミン谷の冬』*で彼らがどっさりと松葉をお腹に詰め込んで冬を迎えるのだが、ああいう感じに自分が冬になっても乗り越えられるように、本を、物語を溜め込みたくなる。

 自分が冬になるというのは、本も読みたくないという時だ。「私がこの本を読んだからといって、どうなるというのだろう。藁で出来たこの頭に理解出来るというのか」という虚しさで荒れているときだ。書きかけで放置している小説の続きを書いてみてもつまらないし、読みなおしてみてもやはりつまらないし、それ以前に自分が書くものを信じられなくなっている時だ(これはよく起こることだから、やり過ごすのにそんなに辛くはない)。読んだところで私は賢くはならないし、それについて素晴らしい感想があるわけでもない。考える練習をずっと放棄し続けてきたので、考えようにもどこから始めればいいのかわからない。着眼点も、まあ無い。幾重にも重なる十二単のように、これらを引き摺っている。それはとても哀しいことだ。

 実際に来る冬で、自分が冬になるわけではないのだけれど、時折物語を疑ってしまうことがある。読むだけでもいいのか、私が読んでもいいのか、もっと他の、物語を心から求めている人が読むべきなのではないかと、愚かな疑いではあるのだけれど、私としては真剣である。自分が読んでいい物語などないのではないかと一瞬でも思ったら、泣けないほどに虚しくなる。

 九月に読んだ物語の中で特別に良かった、物語を読む人にはどうか読まれていますようにと願った本は、ロデリック・タウンリーの『記憶の国の王女』だ。とてもやさしい語り口で、平易な文体で綴られている。ただこれほど「絶対に読んでみて欲しい、そうでなければ、粗筋だけを伝えることはばかばかしい」と思う物語も、そうないと思う。物語と、物語を読んだものだけが持つ力というものは、実際存在すると思う。そうでなければならないし、そうあってほしい。物語が物語としてこれから先も生きていく為に。


記憶の国の王女
ロデリック タウンリー
読了日:09月27日

 これまで幾つも本を所持してきたし、またそれと同じくらいは手放してきた。けれど、たとえ手放したとしても、嫌いになって手放したわけではなかった。そして信じていた。今でも信じていたいと願っている。それを、物語に伝える術がないと言う事が、本当に悔しい。

 *『ムーミン谷の冬』トーベ・ヤンソン 山室静訳 講談社文庫

2010年10月1日金曜日

九月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年09月
アイテム数:16
ガラスの宮殿 (新潮クレスト・ブックス)
アミタヴ ゴーシュ
読了日:09月02日

青い野を歩く (エクス・リブリス)
クレア キーガン
読了日:09月05日

赤い薔薇ソースの伝説
ラウラ エスキヴェル
読了日:09月08日

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)
アティーク ラヒーミー
読了日:09月11日

血族 (文春文庫 や 3-4)
山口 瞳
読了日:09月12日

マグレブ、誘惑として
小川 国夫
読了日:09月14日

天使の運命 上
イサベル・アジェンデ
読了日:09月18日

天使の運命 下
イサベル・アジェンデ
読了日:09月19日

ウォーターランド (新潮クレスト・ブックス)
グレアム・スウィフト
読了日:09月20日

綺譚集
津原 泰水
読了日:09月22日

図書館警察 (Four past midnight (2))
スティーヴン キング
読了日:09月23日

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)
桜庭 一樹
読了日:09月25日

記憶の国の王女
ロデリック タウンリー
読了日:09月27日

幸福な食卓 (講談社文庫)
瀬尾 まいこ
読了日:09月27日

そんな日の雨傘に (エクス・リブリス)
ヴィルヘルム ゲナツィーノ
読了日:09月30日

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2010年9月26日日曜日

ギムレット味の別れ

 ジンとライムジュースをシェイクしたカクテルをギムレットという。カッと喉に広がっていくジンの強さを味わうのなら、ストレートで飲むよりずっと美味しい。私はじゃぶじゃぶ飲みたいので、濃いめのジントニックが好きだけれど、美味しいジンがあるのなら多分、ギムレットにしてもらうのがいいと思う。

 ハードボイルドに生きたい、と強く思う。タフで優しいハードボイルド、つまりマーロウのように時折ウェットに流されそうになりながらも、踏みとどまれるくらいのハードボイルドさで。勿論人の親なので道徳は身につけておきたいけれど、そういうハードボイルドさではなくて、もっと根本的にハードボイルドに生きたい、母だからこそ。

「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」*とは、とても有名な一文で、出典を知らなくても聞いたことのある人はいるだろう。そしてこの一文を読む為だけでも、チャンドラーは読まれるべきである。

 たましいに重さがあるのなら、さよならの度にたましいも削られているだろうか。最期の息を吐いた後、人は21g分軽くなるという。もちろん、これは根拠の無い嘘っぱちであるが(そもそもたましいすら発見されていないのだ、この医療と科学が日進月歩している現代では!)、実際にたましいがあるとして、そしてそのたましいの重さが21gだとして、今私に残っているたましいの重さは一体どれくらいだろう?これからどれだけの人生が残っているかはわからないけれど、完璧に終えるまで残っていてくれるだろうか。これまでに幾つものさよならがあったはずだった。数に入らないようなほど些末な別れから、数にしては一つだとしても、とんでもなくごっそりと削られるほどの別れまで、生きている上で幾つか別れは経験しないではいられない。その度に私は少しずつ死んでいったのなら、今の私はいったいどれくらいの割合で——例えば生まれたばかりの赤ん坊に比べて——生きているというのだろう。

 人とさよならを何度繰り返しても、というより繰り返せば繰り返すほどに、僅かずつさよならへのハードルが下がっていくし、うしなうことに慣れていく。その都度新しい別れではあっても。初めてのさよならは、やっぱり私からだった。もう充分にお互いを殺し合った果てに、そこから飛び降りた。涙はもう出せなかったし出す必要もなかった。わずかに死んだはずなのに、それでも歩みは軽かった。それは多分21g分のたましいの内の、数に満たないほどの重さを失っていたからだ。ロマンチスト!それでも夢見ずにはいられない、早過ぎないギムレット。

 *『長いお別れ』(“The Long Goodbye”)ハヤカワミステリ文庫 清水俊二訳による。

2010年9月4日土曜日

Benediction

 色々な本を集めてきた。本というよりそれは物語への扉を、本という形にしただけなのではあるが、それでも随分沢山の本を集めるほどになったのは、二十歳を過ぎてからではなかったか。子どもの頃、あまり沢山の本は家になかった。限られた数しかなかったので、それらを繰り返し読んでいた。また小学校の図書室でーーそこは薄暗くねずみいろ(あれはグレイと言えるお上品さではなく、ねずみいろと言う少し下卑た色であった)のじゅうたんが敷かれた部屋で、土足禁止と赤いマジックで書かれた張り紙が扉に貼ってあった。ひとりにつきひとつの代本板を、まるで聖書を抱く修道女たちのように胸にして、足しげく通った。図書室にいるためだけにーー出会った『アリス』でさえ、私は親に買って欲しいと言えなかった。私には子どもの頃、本をねだるということは卑しい事ではないかと思っていたからだ。本は与えられるもの、私はそれを受ける者。そして本は永遠だとも思っていた。絶版もなく再販もない。図書室にある本は永遠に図書室にある。図書室にさえ行けばいつもある。“そこ”にあればずっと“そこ”にあり続けるのだと思っていたからだ。

 本はいつも親から与えられていた。適当に選んで適当に与えられてきた。それでじゅうぶんだった。子どもだった私の世界は今から見ればとても狭くて小さいものであったが、子どもの私にとっては広過ぎた。だからこそ、与えられた本だけで満足できた。狭いところにすっぽりと収まると安心するでしょう?それと同じ。

 大学に通い始めて仕送りを貰うようになって、初めて本は手に入れ続けなければそこにとどまり続けることがないのだと知った。手放してしまったらそこで、その本は永遠に失われるのだと知った。この手に掴み続けなければ、本はやがて私の手から離れて歩き出す。意思を持っていようと持っていまいとに関わらずに。本は読まれる人の元にしかいられない。私ではなく本に決定権があるのだった。例えば同じタイトル、同じ出版社、同じ価格、同じ装丁のものを後から買いなおしたとしても、それはもう私にとっては同じ本ではない。本を手放すということは、本の名前を失うということだ。一度でも手を離れてしまったら同じものにはなり得ない。数えるほどの引っ越しの中で私はいくつも本を古本屋に売って僅かにお金を手にしたが、それは本が私から離れる為に払われてきた手切れ金だったのだ。


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 ほんとうのものが欲しい。ほんとうのなまえを刻んだものが欲しい。ほんとうの名前が刻まれていると私にも見える二つの目が欲しい。私は本にとって通過点なのだ。どこか遠いところへ本が行く為の。だから私がどれだけ沢山の本を手に取ろうが所有しようが、また所有し続けようが、私は永遠に遠くへは行けないのではないか。


===================

 一つの本棚と、半分の本棚(もう一つの本棚は、子どもと共有しているので)、それと二つの段ボール、それほど大きくない革のトランクに収まるだけの本を私は今、所有してはいるが、その中のどの本のことも、私は理解してはいないとわかっている。もしもっと理解していればずっと遠くへ行けたのだろうけれど、私には理解出来るほどの知に祝福されてはいない。言い訳だと言われればそうだと答えられるほどに私は厚顔無恥である。これは扉である。誰の為でもない扉である。開かなければどこへも行かれない扉である。理解するべきものではなく、いっそ感じる為のものである。

 私はなにも変わってはいない。未だに胸に代本板を抱いて足早に廊下を、しめった図書室に向かう子どもだった私と、どこも変わりはない。失い続けた本の名前を取り戻したくて、私はまた本を集めるのだろう。今日もまた本を買った。そこにある名前を見たくて。きちんとした通過点になりたくて。

2010年9月1日水曜日

八月の読書まとめ

いつか読んだ本の記憶
2010年08月
アイテム数:8
乳と卵
川上 未映子
読了日:08月02日

ノーサンガー・アビー (ちくま文庫)
ジェイン オースティン
読了日:08月03日

ベアト・アンジェリコの翼あるもの
アントニオ タブッキ
読了日:08月06日

首鳴り姫
岡崎 祥久
読了日:08月18日

図書室からはじまる愛
パドマ ヴェンカトラマン
読了日:08月21日

高慢と偏見とゾンビ(二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ジェイン・オースティン,セス・グレアム=スミス
読了日:08月24日

ニューヨークに舞い降りた妖精たち
マーティン ミラー
読了日:08月27日

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八月に読んだ本の中で一番笑ったのはやっぱり『高慢と偏見とゾンビ』だろう。外国の、特に英米ヨーロッパ圏の人の、東洋的なイメージはあまり変わらないのが面白い。ゾンビは期待していたより少なかった。
一番キュートなのは『ニューヨークに舞い降りた妖精たち』。妖精のゲロは人間にはいい香りだなんて、ねえ!

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...