2010年11月4日木曜日

はてしないものがたり

 物語のように生きたかった。本を開き物語の扉を開けるように始まり、そしてまた本を閉じる時のようにゆったりとした気分でいのちを終える。私という物語はありふれてはいるが、それもそれで良し、世界という図書館に最期に収めてもらえたら、と。私は世界に期待しすぎている。

 浮ついた生き方をしてきたので、どういうことが地に根を張った生き方なのかよくわからない。私は私として生きるのが初めてなので、何もかもが経験不足で周りの人達のように「こういう場合にはこうすればよい」「こういう場面になった時にはこう躱せばよい」という事が今ひとつわからない。だから毎回体当たりをして試すようにばかりして、ドアをこじ開けていたようにも思う。「一つ一つ、人よりも試さなければわからないのよ」を錦の御旗にして。甲冑を着込んで大きな音を立てて歩き、周りも構わず「酒はないのか」と大声を張り上げる、無礼な兵士みたい。人一倍努力を嫌い、人一倍名誉を欲しがる、嫌ったらしい兵士みたい。

 四半世紀を生きて過ごした頃、もう物語のようには生きられない、とわかった。わかってしまった。うすうすは気がついていたけれど、それが形になるのが怖かった。だから先延ばしにし続けて来た。会う人たちには享楽ぶって、無頼ぶってばかりいるしか、もう出来なかった。けれど生きるという事は生活する事でもあった。私に生活は向かない、などと精神だけ貴族ぶってもいられなくなってしまった。もちろん本物の貴族ではないので猿真似でしかないのだが。今でも精神だけでも貴族ぶりたいとは思う。朝食室でスウプをひと匙吸って「あ……」と、か細く叫んでみたい。

 でももう物語のようには生きられない。子どもがいる。子どもは生きて存在している。身勝手に終わらせてしまえるほど、私は身軽ではなくなってしまった。どうして今ここで本を閉じられないんだろう、と何度思った事だろう。あの日に閉じてしまいたかった。閉じるつもりだったのに結局閉じられないまま、私はまた明日も私という死ぬまで終わらない物語を書き続け、読み続ける。神が私を生から分つ日まで。

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