2021年8月10日火曜日

書くこと、書かないこと、或いは煙草の効能について

 今年の五月はある人と別れて十七回目の五月だった。節目のような切りのいい年ではない。でも、もうそろそろやめなくてはならないとずっと思っていた事がわたしにはあった。ある人との思い出をどのような形であれ書くことは、わたしにとっては記憶の補強だとずっと思っていたが、本当はそうではなかったことに、気づいていながら目を背けていたからだ。記憶の補強のつもりで、記憶のオリジナルテープに何度も映像を録画し続け、オリジナルの記憶にノイズを混じらせる行為だった、と今では思う。いや、それには十年前には気づいていたと思う。何故なら古いTwitterのログにそれ──「記憶のオリジナルテープ」や「繰り返しダビングを続けたノイズ混じりの記憶」──について書いていたことがあるからだ。

 ある人の事を書かないと決めるのは、ある人との永遠の別れにこだわり続けていたわたしにとっては、とても難しい事だった。だらだらとウェブ日記で……Twitterで……何かしら彼にまつわるわたしの記憶を書き続けていたからだ。それをもう行わないのは禁煙に等しいほど、それほど「彼の思い出を語ること」に依存していたと思う。わたしは人と深く知り合うことを嫌っていたから、それでも自分の、みっともない意地、プライドの切れ端のような壁を超えてきた人はとても少なかったから、彼との思い出に浸ることがわたしの孤独を癒してくれたからだ。

 喫煙は薬物による依存症であって、何かの手助けなしに達成し続けることは難しい。ふとした時、ほんの一本吸いたい、一本なら大丈夫、だってわたしはいつだって禁煙を始めることができるのだからと心が揺らぎ、一本の煙草に火をつけてゆっくりと煙をふかす。口中にまろやかに広がっていく煙は鼻腔を突き抜けて脳天へ達する。その快感たるや!ニコチンのみが与えることができる快楽。そして一箱全て吸い切ってしまうのだ。そのスピードは本数が進むほど速くなる。煙草はわたしにとっていつも慰めだった。長い夜を一人で過ごすための友でもあった。それは全て錯覚、依存が見せる優しい夢でしかなかったが、それに縋りたくなるほどには、わたしは孤独だった。彼を失った後のわたしにとって彼との思い出は、喫煙を上回るほどに孤独を癒やし、またそれを加速させた。孤独ではない状態がどんなものだったのか、回想に浸りきったわたしにはもう思い出せなかった。

 今読んでいるナタリー・ゴールドバーグの『書ける人になる!』には、「物書きは結局、自分のこだわりについて書くことになるものだ。自分にまとわりついて離れないこと、どうしても忘れられないこと、自分の中にあって解き放たれるのを待っている物語……。(中略)また、大きなこだわりにはパワーがある。文章を書いているうちに、あなたは何度も何度もそこに戻ってくる。」とある。

 でも、そこまでこだわるにはわたしと彼は遠いのだ、きょうだいでもない、幼馴染でもない、ごく短い青春のいっときを過ごしただけの恋人……こだわるには彼とわたしは無縁すぎるのだ。どれだけ彼との思い出に立ち戻ってしまうとしても、もう書けないのだ。わたしが彼との思い出に縋る時、記憶を書こうとする時、それは彼を消費することと同じだからだ。彼の思い出にこだわり続けることが逆にわたしを何も書けなくさせているのかもしれない。書いてはいけないような気がしながら、罪悪感を常に持ちながら、「これ以上は彼を消費していることと変わりがないのだ」と自分を軽蔑しながら書くことに、どんな意味があるのだろう。だったら既にやめた喫煙を再開して、鈍る思考を首の上に乗せて、ただ時を消費している方がずっとましな気がする。だって書くことはもう一度人生のいっときを過ごす事だから、わたしは思い出すことで何度も彼を「うしなう」。これ以上は失い続けたくない。

 手許にライターはある、でも煙草はない。だから今日も彼の事を思い出しながら、思い出という都合のいい快楽物質に浸りながら、時を過ごしている。

2021年8月1日日曜日

柘榴の半片

 一ヵ月前に僕たちは結婚した。簡素ではあるけれど妻の希望通りの小さなチャペルで結婚式を挙げ、盛大ではないけれど僕の希望したアットホームな披露宴を開いた。妻は美しかった。女神のように光り輝いて、女神よりもずっと幸せそうに微笑んだ。
 両親への花束贈呈のとき、義父は僕の肩に手を置いてゆっくりと頷く。僕もそれを見て同じように頷いた。けれど義母は僕を一瞥しただけですぐに視線を愛娘である妻に戻し、泣いてしまった。仕方がないね、と僕は気付かれないほど小さく肩をすくめる。もともと、僕は義母に好かれてはいない。娘を奪った不埒な男は恨まれるものだ、王子様でも乞食でも。例え神だとしても。

 僕はあの母親からは随分嫌われてしまった。四年をかけてゆっくりゆっくりと育った感情は、あの結婚式の日に爆発したことだろう。これまでずっと、一週間と離れたことのなかった娘が、家を出ていくのだ。遠い地へ旅立つのだ。男と、手に手を取って。振り向くこともなく。僕はそれが嬉しくてたまらない。横槍を入れてきたことも、かけられた様々な暴言も、今なら全て忘れられそうな気がする。むしろ感謝出来るかもしれない。

 一生の記念になる結婚式から四年前、小さなガーネットのリングとともに、僕は妻に結婚を前提とした付き合いを申し込んだ。つやつやとした、少女から女性への入り口にいた彼女によく映えるように選んだガーネットは、彼女の前ではくすんでしまうだろう。いや、贈り物用にとりぼんを箱にかけてもらって僕の手に渡された瞬間から、色褪せてしまったのが僕にはわかった。とは言えこういうことには形が必要だ。愛の形、美しさへの賛美の形、永遠の形。それらの容れ物としての何かが。当時僕はそれなりの企業に就職が決まったところで、彼女はまだ二十歳そこそこ。ニザンに言わせれば「一番美しいなんて言わせない」年頃だけれど、やっぱり、美しいのだ。若さという光が身体の内側から溢れ、老いを知らない肌を通して彼女自身が、光の中でもほのかに発光しているようだった。いや、光っていた。どこに居ても、僕は彼女を見つけることが出来るのだから。

 僕が妻を初めて見たのはサークルでだった。ただのんべんだらりと映画の話をしている、ありきたりの大学内サークル。それなりにサークル活動にも慣れ、満喫していた頃だった。そこに、彼女が来たのだ。その時から彼女は光を纏っていた。

 新入生歓迎のコンパで、始まって一時間足らずで妻は(当時はまだ挨拶程度しかしたことはなかったけれど)堂々と「母が心配しますので」と宣ったのだ。同じ新入生の女の子たちが揃って「もう少しいいじゃない、しらけちゃうわよ」と止めてはみても、彼女は首を縦に振るどころか素早く財布を出し、サークル部長に願い出て帰ってしまった。ある時など帰りが遅いことを心配した母親が、大学の門の前で待っていたこともあった。

 それでも彼女はサークル内でひどく浮くことはなかった。本当に忙しいときに、誰かがちくりと「門限」に対して苦言を呈することはあっても、それ以上は言わない。が悪く言われないように会話の中で僕はほんの少し、誘導していた。道しるべを変えて、旅人を迷わせるピクシーの気分だった。僅かな角度の差でその延長線上では大きな開きが出来るように、彼女ではなく彼女の母が「あり得ない」存在なのだという話に変わっていく。そして彼女は心から同情されるのだ。

 やがて周りからゆっくりとゼリーが固まるように、冬が始まる頃に僕たちは付き合い始めた。その頃から僕は彼女に対しても、少しずつ道しるべをずらすことにした。難しいことではない。ほんの少しのほころびが、糸を引っ張るとぱららっとほどけていくようなものだ。やがて彼女の「門限」も少しずつ緩み、彼女が母親とばかり行動する時間も減り始め、逆に僕との時間が増えていった。もういいだろう、と僕が決心したのもその頃のことで、内定をもらったことがアクセルを踏み込むきっかけになったというわけだ。

 初めの年には小さなリングを。
 次の年にはそれに似合う少し大ぶりのネックレスを。
 その次の年には、小さな耳たぶに釣り合うピアスを。
 そして結婚を決める直前には、婚約指輪とは別にもう一つリングを。
 全て、ガーネットで。
 
 ガーネットは柘榴石。柘榴が象徴する物は生命と出産、そしてそれらの副産物としての結婚。僕はガーネットに呪いをこめたのだ。彼女が母親から少しずつ遠く離れていけるように。冥界の王ハデスがペルセポネに、結婚を想起させる柘榴を食べさせて娶ったように。必ずあの母親を捨てて僕の元へ来るように、と。その為にも僕は海外への赴任のある企業を選んだのだ。やっと僕にも海外赴任が決まった。日本を、家を、あの母親を、物理的にも精神的にも置いていくのだ。黄泉の国へ下るような、ひやりとした悦楽。ため息がこぼれそうだ。梶井基次郎の言う「爽快な戦慄」とはこのことかもしれない。

 僕は四年の月日をかけて、四度のガーネットをもって君をペルセポネにしたのだよ。義母にとっての妻は太陽であり揺れる新芽であり澄んだ泉だったのだろうけれど、それは僕にとっても同じこと。僕の世界の中で彼女は太陽になり芽吹いた新芽になり、そして命を湛える泉になるのだから。例えその世界が黄泉の国だとしても。
「汝の唇は紅色のいとすじのごとく、その口は美はし。汝の頬はベールのうしろにありて、柘榴の半片に似たり」
 僕の呟きに君はにこりと首をかしげて笑う。さあその白い手で、僕の手を取っておくれ。いくつでも君に柘榴をあげよう。君は僕のペルセポネなのだ。

2021年6月4日金曜日

不老不死

 本にまつわる仕事がしたいと気がついたのは高校三年の夏あたりだった。人より遅れて受験を目指して、司書資格の取れる大学に通い課程をおさめ、これでわたしも……!と思ったことはよく覚えている。でも募集がなかった。例えば太いケーブルを縫い針に通す以上になかった。派遣ならあったが、派遣では嫌だった。派遣やアルバイトでは意味がなかった。本屋のアルバイトは受けたが落ちた。その街に留まるために派遣でもアルバイトでもなんでもすればよかったのだろう、きっと。でも人より幼いわたしには、その考えがひとりでに湧くことはなかった。

 自分と自分の学んだことが必要とされていない世界に初めて直面したわたしは絶望し、とにかく憧れより勤まる仕事を探しては就職・離職・派遣登録・派遣・短時間のアルバイトをし、最終的には部屋から出られなくなるまで疲弊した(その頃は酒と精神薬と煙草に浸り切っていた)。

 当時付き合っていた、本性を隠していた男のために上京してしまい、妊娠して結婚したはいいがDV被害に遭い、赤ん坊を連れて離婚し実家に戻ることになる。今の、そしてもうすぐ会社都合で退職する仕事は元々母が勤めていた会社で、紹介されてバイトから始まり、社内派遣になり、今やっと正式な無期限雇用となった(が、それも事務所の閉鎖によって終わる)。

 こう書くと、流されてばかりで考えなしの馬鹿者のように見えることだろう。でもその時その時は振り落とされないように、一人で生活を立て直す為にずっと必死だった。そうは外から見えなくても、頭の中ではずっと「ちゃんとしなくては!人間として親として働かなくては!」と喚かれ続けていた。誰も、何も教えてくれなかった。どのような些細なことであっても自分から学び勝ち取らなくてはならない、そうしないものには権利はないとしか。

 今飲んでいる薬に出会うまでその喚き声が常にわたしの行動を無軌道なものにした。「普通の一般の社会人」ならしなくて済む努力は常に空回りして結果は惨憺たるものだったし、今だってその高すぎる「普通」という基準に到達するためだけに、あらゆる私生活を犠牲にしているしそれはこれからも続くのだと思う。

 わたしは多分長くは生きないと思う。子供の頃からぼんやりとそれは頭の片隅にあった。だからできる限りのことをできる限り時間の余裕をとりながら試していた、どっちみち絶望はするんだろうけれど、完全に希望を打ち砕かれないために。
 
 でも……一人で小さい文庫本サイズの本を出したりする、それもわたし個人のお楽しみのためだけの本というごくごく限られた本でも、作ることができたのはとても嬉しいことでね。本にまつわる仕事(一番は司書だけれど……もう言ってもいいよね、憧れていたことくらいなら)のできないわたしの、精一杯の「本にまつわること」だから、せめて生きているうちにやっておきたかった。いつだって「今日が一番若い日」だから。欲しいと言ってくださった方々にお礼申し上げます。本当にありがとう、ひとときあなたの手許にとどまることができて、わたしはとても、嬉しく思っています。


2021年5月24日月曜日

オールドシネマパラダイス

 町にひとつだけ残った映画館の支配人がローカルニュースに出演していた。元々わたしが子供の頃は別館があったが、それもわたしがまだこの町で学校に通っていた頃になくなってしまった。

 映画を観る機会がひと月に一度以上あったのは京都に住んでいた頃のこと。レディースデイがあることもその頃知った。それまでは年に一度行くか行かないかだった。この町の映画館はわたしの住む家から遠いので自力で行くには不便だし、親に送ってもらう為には完璧な口実が必要だった。

 若い頃はお給料でよく映画を見に行っていたらしいが、母はあまり映画館を好ましく思っていなかった、と知ったのはかなり後になってからだ。母の話しぶりから推察すると、どうやら母自身が映画館で痴漢にあったらしい。そのせいなのか、とにかくわたしが家から離れることを嫌った(が、当時まだ子供だったわたしにそれらを伝えていないので、わたしは不当に制限されているらしいという不満しかなかった)。母は何かにつけて大声で指図するし機嫌が悪ければ八つ当たりする。そういう面倒な「母そのもの」に巻き込まれるくらいならと、口実を捻り出すほどの情熱も封切りされた映画に対して多分持っていなかったし、何か小言とも嫌味とも独り言ともとれるようなことを言われるよりも、最初から観ない選択の方が楽だった。だから少しずつ映画にほんのりと憧れることもなくなり、文字の物語だけに依存していった。

 残っているあの映画館も今ではないけど遠くない未来には……いずれはなくなるんだろう、と思いながら今は時々観に行く。子供の頃、年に一度だけ観せてもらえたアニメ映画を観に行った時にはぎゅうぎゅうだったロビーも観客席も、夜に観に行く時にはまばら。皆揃ってスマートフォンの画面を覗き込みながら入場を待ち、出てくる時も少し俯いている。

 売店は小さいままだし、他には飲料の自動販売機くらいしかない。什器も昔のままのように見える。あかりの灯る小さなポップコーンメーカーも、子供の頃食べてみたいと憧れた時からずっと変わらないように思えてくる。一人だけ鏡の国に入り込んだか、時の狭間に飛び込んだみたい。作り置きだから油が回り始めているポップコーンもそんなに美味しくはないけど、子供の頃食べてみたかったわたしを満足させるためだけに買って映画を眺めながら食べる。そして自分で車を運転して、映画なんて観ていませんという素振りで、家に帰る。

2021年4月25日日曜日

美しい馬・ヤマニンアラバスタのごく個人的な記憶

「私がもっとも好きだったウマはミオソチスである。この馬は夕日に映えた葡萄酒のような毛色の美しい牝馬であった。」と書いたのは寺山修司だ。

わたしにもそんな馬がいる。最もかどうかは、まだ分らない。
馬の名前は芦毛のヤマニンアラバスタという。アラバスタというのは雪花石膏、透けそうで透けない乳色の鉱物で、柔らかく彫刻に向く。寺山を真似するとしたら、「濡れたアスファルトに新しく降った雪のような毛色の、美しい牝馬であった。」なんちって。

美しい馬、と言うだけでは生き残っていけない競馬の世界で、何がそんなに、とも思うけれども、華奢で、うっすらとかいた汗の為に天鵞絨ふうに見える首筋が美しい。始めて京都競馬場で“彼女”見たのは秋華賞だった。ほどよく日は傾いていて、逆行の中で見た“彼女”の鬣は柔らかく輝いていた。

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ヤマニンアラバスタはすでに引退し、一頭限りの牝馬(今は孫娘が現役だそうだ)を残してもう死んでしまった。メラノーマという芦毛の馬におこりがちな病気で、2013年の夏の日に。

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 わたしの短い競馬場通いは、好きだった人が亡くなった後、初めて目的を持って一人で外に出た京都競馬場から始まった。ダービーの日だった。ダービーは府中競馬場で行われるので、その日その場でG1競走を見ることができるわけではなかったが、それでもよかった(競馬場にはターフビジョンがあり、どでかいテレビで中継を見ることができるのだ)。ずっとその人と約束していた場所に、とうとう立つことができたというそれだけで、わたしははっきりと不在を知り、納得したのだった。

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 過去、共に競馬場によく通っていた知人から「『ウマ娘』というソシャゲが最高に面白いからぜひやってみてほしい」というメールが来た。とうとう来たか、ついに知ってしまったのか、と思った。そう言うだろうと思っていたしその通りだった。彼はわたしが擬人化をあまり好きではないこと、キャラクターの元ネタになった牡馬や牝馬に、別の物語が発生すると多分ひどく混乱することを知らない。彼に勧められてやや無理矢理に始めることになったダービースタリオンさえ、目の前の馬を育てることができないことに苛立ち、早々にやめてしまったことも覚えていないだろう。

 キャラクター一覧を見ると、現役時代に華々しく活躍していた名前、懐かしい名前もあったがわたしが好きだったアラバスタはそこにはいなかった。ヤマニンアラバスタはG1を制したことがない。だからきっとこれからもここに彼女の名前が出ることはないし、できればあってほしくないわたしは少しホッとした。心のどこかで、アラバスタはあの芦毛のままの姿でなくてはならないとわたしは思っているのだ。擬人化されキャラクターになって、“自分”が消費することを恐れている。今だって既に、わたしの中で『ヤマニンアラバスタという芦毛の牝馬』として消費し続けているような気がしている。思い出すことで。記憶していることで。

 昔だって、2ちゃんねるに『ヤマニンアラバスタたんが可愛い過ぎる件について』というスレッドが立ち、皆そこでカワイイカワイイと書き込んでいたが、わたしはどうしても書き込めなかった。とてもいやらしい事のように感じてしまって(今となってはスレッドの住民とともに「カワイイカワイイ」と言えば良かった気はする、だって本当に可愛らしかったのだから。でもその時はできなかった)、スレッドを細目で見ていることしかできなかった。それくらいわたしにとって特別美しい馬だった。現実の女たちに対して……あるいは好き「だった」女友達に対して取ってしまう態度と同じくらい……わたしは同性の友達を特別視しまた天使のようにすぐ取り違えてしまうので、いつもうまく距離を取れなかったから……。

 彼女は、わたしの中でややキャラクター化してしまっているのに、ほんもののキャラクターになった途端に、メラノーマでこの世から去ってしまったヤマニンアラバスタを、あのストーリーではない道があったのではないのか、と期待して身勝手に彼女を蘇らせようとするのではないかと恐れている。

 わたしはレースをあまり回顧しなかったし、できなかった(彼女のレースに限らない)。レース映像を見るたびに、現地で(または競馬場のターフビジョンで)観たレースそのものを上書きしてしまうことがわかっていたからだった。観ることができなかった。上書きしてしまうことが怖い。上書きしてしまったら元の記憶そのものが(わたしにとって、であり他人のことはわからない。補強することができるのかもしれない、何度も観ることで。でもわたしはその訓練ができていないし、できそうにない)劣化してしまう。もうわたしの記憶からどんどん離れて、映像としての記録でしか残らなくなってしまうのではないか。他人はそうでなくても、わたしはそうなのだ。なにせわたしは頭が悪いから、留めておくことができない。

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 わたしが今でも一番好きだと思う馬はヤマニンアラバスタという芦毛の牝馬だ。鬣がほんのりクリーム色でロシアンブルーのような芦毛が、年を追うごとに白くなっていく美しい馬だった。細身で紫色のメンコがよく映えた。輸送でガレるからか、あまり関西のレースには来なくて(彼女の所属は美浦、関東の馬だった)、でもそれでも好きだった。週刊Gallopだっただろうか、馬房で上半身だけ起こして何かを見ている彼女の写真が載っていて、それを見て、わたしは彼女が好きだ、と思ったのだ。寺山修司がミオソチスに対して持っていたほどの感情とは言えないが、それでもわたし(あるいはまた、彼女のファンたち)にとっては特別な一頭だったことには変わりはない。

 雪が積もるように白くなっていく芦毛は、記憶の中でより白く、白くなってゆく。

2021年4月21日水曜日

君とよくこの店に来たものさ

山にほど近い学校で大学生をしていた頃、学内でコーヒーショップを開いていた人がいた。その「お店」が開くのは学園祭でもオープンキャンパスの日でもない、特別でない日。ハンプティ・ダンプティの「お誕生日でない日」に、その「お店」は開くのだった。特に晴れた日。雨の日はお休みだっただろうか?もうずいぶん昔のことなので、記憶が曖昧だが、薄曇りの日に彼が「お店」の開店準備をしているのを、食堂の掃き出し窓から眺めていた日もあったと思う。


彼とは司書過程の講義が一つ二つ重なっていただけで、積極的に話をしたことはなかった。その頃わたしには何かと厳しい恋人がいて、恋人を通してしか人と話をしてはいけなかったから、学内のほとんどの人と話すきっかけはなかった。恋人がたまたま興味を持った人、恋人と同じゲームをする人(恋人はテーブルトークRPGを好んでいたし、わたしもプレイしていた)、恋人と同じゼミの人……とにかくわたしから彼に話しかけることはほとんどなかったと思う。でも、知っていた。彼は情報館でアルバイトをしていたし、時々同じ講義をとっていたし、目にかかる髪の毛はふっと頭を振って顔からよけることを。時折黙礼を交わすような、その程度の知り合いだった。

彼が手動のミルを使ったり「お店」をオープンするためのこまごまとした何かは、全て儀式のように見えた。わたしはそれをいろいろな場所から見ていた。食堂の二階のラウンジから、情報館三階の窓際の席から、非常階段(当時非常階段や草むらで自作の弁当を食べることにはまっていた)へ向かう道すがら。

まだ二十歳そこそこで、コーヒーの味もよく知らないお子様だった。インスタントコーヒーしか知らなかったし、ミスタードーナツで飲むのはアメリカンにお砂糖とミルクを混ぜたものか、ポットでサーブされる紅茶くらい。だから一度も彼の「お店」でコーヒーを飲んだことはない。一度くらいは飲んでみたかったんだと思う。恋人を通してではなく、自分から望んで。そうでなければ記憶に残らないから。しなかったこと、できなかったことはたいてい記憶の中で輝く。彼の のコーヒーも記憶の中では琥珀色をして輝いている、いつまでも。

2021年3月22日月曜日

孔雀の靴

先のとんがった、青緑色のストラップシューズを、京都にいた頃よく履いていた。重かったので革で出来た靴だったのではないか。

革に型押しがしてあって、それが模様のように角度を変えればまたイカした靴に見えたのだ。それになにより、孔雀の頭ような青緑色の美しかったこと。ターコイズブルーや鮮やかなグリーンが好きなのに、顔に近ければ近いほど、わたしの肌の浅黒さを際立たせる。でも靴なら顔からだいぶ離れた場所だから、その点安心できた。考えれば考えるほど、わたし向きの靴のように思えた。もうそうなったら、わたしをとどめるものは何も無くなってしまう。ほんの少し大きいけれど、店員は中敷を入れれば問題ないと言う。その時の収入には見合わないくらいの値段のもの──でも、そうしたらわたしはいつも裸足でいなければならなかったことになる──で、ままよ、と買った靴だった。

その靴を履いて、わたしはどこへでも歩いて行った。ジーンズでもワンピースでもお構いなしに、その青緑の、孔雀に似た色の靴を履いて歩いた。重い靴だったので帰宅すると(あまり体力がなかったくせに出かける時は歩き回ってしまうのだが)、脚はもうこれ以上歩かないと決めてしまったかのように、重くだるく、湯に浸かって揉むでもしないと、次の日になる前に筋肉痛が始まるのだった。

今でもまだ、その時の靴のことを思い出す事がある。あんな風に一目惚れして買った靴は、あれ以来ほとんどない。手入れはあまりしなかった。うっすら禿げていくのも、やっと馴染んだようで気分がいい感じがしたし、その靴が履けなくなるなんて考えもしなかったから。引っ越しをいくつかした時に、その靴も捨ててしまったようだし、その後もあれこれと靴は選んできたけれど、靴と言うと思い出すのは決まってあの靴だ。あの孔雀色の──先がとんがっていて、とにかく重くて足にも合っていなかった靴。どこにでも行けるつもりで、どこにも行けない頃に履いていた靴。

2021年3月20日土曜日

日記

京都で最後に住んだ部屋は七条大宮の二階建てのアパートで、狭くはないが光の入らない、一日中薄暗い部屋だった。その部屋には小窓もあったが開くとすぐ壁があったので、布をかけこそしなかったがほぼ開け閉めしたことはない。窓の前にはちゃちいデスクセットを置き、シェル型のMacBook(のちに買い換えたが)を置いて、ウェブ日記や物語の真似事をした作文を書いていた。

そこに越す前に勤めていた会社は、割とめちゃくちゃだったように思う。勤務時間という概念そのものが存在していなかったし、何よりイベントの準備が全てお得意様の気分次第の都合によるので、わたしは風船のように弾けて、仕事に行けなくなった。勤めている時に住んでいた部屋は会社からほど近かったので、なんでもいいから離れたくて、有り金を掻き集めて引っ越すことを決めた。会社を辞めた後遺症からか、引越しの疲れからなのか、元々社会にあまり適応していなかったためなのか、引っ越しを終えてからずっとベッドに寝そべっていた。

その頃はまだ自分の特性を知らなかったので、今のように適した薬を飲んでおらず、心身のその時強く出る症状に合わせて変わっていく薬を飲んでいた。処方されたどの薬を飲んでも泥をひっかぶったように身体が重く、ほとんど這うように寝起きしていた。食事は一日に一度、近くのコンビニに、飲み物はリキュールを炭酸飲料で割ったものばかり。薬や酒で身体は常にレースのカーテンに包まれているような曖昧な感覚だったし、頭の中は砂嵐の中にでもいるような、逃げなければいけないのにどこにも行けない、そんな状態だった。新たに働きにも出るために体調を整えることもできず、部屋にいて呼吸をしているだけなのにわたしは常に疲れていた。

小さなタンジェリンのMacBookはそんな部屋で、わたしのほんものの窓代わりだった。開くときは大抵、起きて座っていることができた。それ以外はずっとベッドで伏して本を読んでいた。頭の中は整頓されず常にフルで回転し、回転に追いつかないわたしの身体は、ねじが飛びばねが摩耗しているのにそれでも動きを止めることができない、例えるなら廃工場で動き続ける機械めいたものだった。薬を飲まずにいさえすれば、常に目を覚ましていられた、それが予後にとって良かったのか悪かったのかはわからないけれど。


ウェブ日記のエディタはいつも、カウンセラーや医者に話そびれ、次こそ話さなくてはと思いながらも組み立てられた言葉になる以前に霧散していく、掴み所のない言葉を受け止めてくれるベッドだった。ノートにメモ書きする前に手が追いつかなくなりやめてしまう言葉でも、エディタに向かえばいくらでも書き出すことができた。頓服薬でいっとき眠ってしまうよりも、吐き出し続ける場所があった方がずっと身体も楽になる気がしていたから、のそ、と起き出しては「窓」に向かって誰かのアップロードしたウェブ日記を何時間も読み続け、読み終わったら自分のためのウェブ日記を、飽くことなく書き続けた。

キーに指を乗せれば、なんだって打てた。今日あったこと、なかったこと、明日あること、きっと起こらないこと……ウェブ日記を書くことはわたしには頓服薬よりほどよい鎮静作用があったし、同時に少量のアルコールのように興奮作用もあった。

他人の日記にも夢中になったし、自分の日記にも夢中だった。体裁を整えるため、cssの本を買ってきてはエディタに打ち込み、確認しながら幾度も改装してはまた、フリーのソースなどを探した。時間はいくらでもそのMacBookに捧げることができた。そうして何年も日記を書き続け、読み続けた。合間に本も読みながら、他人の日記と自分の日記から離れることができなかった。自分の書いたものは自分の肌の匂いがついている、よく馴染んだ部屋着のようなものだから、自分が書いた日記を何度も何度も読んだ。アクセスすれば必ず日記はそこにあるのに、ぽつ……と消えていることをどこかで不安に思っていたのだろう。

わたしは多分手で日記を書くよりも、キーボードで日記を書く方が素直になれた。書き直しながら、カットしペーストし直して自分の文章を配置するのは、雑誌の切り抜きを貼り付けながらつくるコラージュめいていたから、一層夢中になれたのだと思う。子供を産んで、決まった場所に働きに出るようになってから、場所をウェブ日記ではなくツイッターへと変えていったけれど、呟くことはいつも自分のこと、自分の身の回りのこと、リアルタイムな日記だった。時折はアカウントを消してしまったけれど、それは新しいノート(ツイッターは言うなればふせんだと思う)が必要だったからだ。新しいノートには新しい物語が(それが日記であれ)必要だからだ。

今もわたしは十五年以上変わらずウェブで日記を書いている。このウェブサービスがいつまで続くかは知らないし、新しいノートが欲しくなるかもしれないが、変わらず真っ白なエディタに向かって、キーを打ち続けるのだと思う。

2021年3月18日木曜日

実家の荒れ庭は、荒れているのが常だった。初めてここに越してきた日のことは記憶にはないが、昔から雑然としていて、荒れていたし今も荒れている。


京都市に革島外科医院という建物がある。茶筒のような円筒形に尖った屋根、瓦は確かエメラルドグリーンで建物には蔦が這わせてある洋風建築。児童文学の登場人物が住んでいそうなおうちで、十八で初めて町の外に出たわたしはそのおうちに心が奪われてしまった。いつか住む家を選べるなら、あんなおうちがいい。そんな風に折に触れ思い出す建物だ。

それとは別に、バブの保育所送迎の度に見かけていた、凌霄花が枝垂れ落ちるおうちがある。花の咲く季節以外は目にとめることもないが、花咲く季節になると必ず目を奪われる(運転中なので横目で見やるだけだが)。蔦を這わせたおうちが手に入らないなら、なにかをたっぷりと繁らせたおうちに住んでみたい──不精者には見果てぬ夢なのだけれど、つい高望みをしてしまう。

母は花が好きだが父はそれに無関心で、強い水流で根元の土をこそぐようにシャワーをかけたり、または鉢になみなみと酒を注ぐようにジョウロで水をかけたりと、めちゃくちゃな水やりをする。あまり育たないうちに、または花を咲かせていてもすぐに腐れてしまう。だから土だけ残って放置されている鉢が、いくつか並んでいた(父は本当に無関心なので、土だけになってしまっていても鉢が残っていさえすればまだ水をやる)。

庭と呼ぶにしてもしっかりと土が盛られているわけではない。コンクリート敷きの敷地に土をかぶせた程度のもの。かぶせた土の上には玉砂利が敷かれていて、一応は侵入者対策になっているようだが、昭和の庭っぽくてわたしはずっと好きではなかった。この家に出戻った時、どうせここに住むことになるなら、と砂利敷きだった庭の一部から砂利をどけ、レンガで囲って園芸用の土を盛った一角を作った。憧れだった木香薔薇を植えたらよく繁り小さな花をつけるようになった。木香薔薇にはよく蟻や蜂がたかりはするが、根気よく手入れをしなくても枯れてしまうことはない。気候が良くなると前の年より一回り大きく繁る。花は好きでも不精な母がたまりかねて枝を払ってしまうが、わたしはそのまま伸ばせばいいじゃないと常に思っている。緑に埋もれてしまう家──わたしはそれが憧れだった。

荒れ庭に小さい緑の一角を作ったのち、どうせなら木も植えよう、できれば大きく育つものがいいと思っていた矢先、バブが保育所でどんぐりを拾ってきた。保育所は山裾にあり、少し歩けばいくらでもどんぐりが拾えた。折り紙で作ってもらった小さいカップに入れて、持ち帰ってきた中に数粒きれいなものがあったので、まずはプランターに植えて芽吹かせた。選別した内の一つがしっかりと芽を出し根付いたので、荒れ庭に植え替えた。どっちみち、百年経つ前に誰もいなくなってしまうのだから……あとは緑に覆い尽くされてしまえばいい。この木からどんぐりが拾えるようになっても、拾ったどんぐりが芽吹いたことを思い出す人は誰もいない。そう思うと気分が良かった。

理想の庭にはわたしが生きているうちにはならないだろう。家は三度建てなければ理想の家にならないと言うけれど、庭もまた同じ。全てを抜いて土を入れ替えて、綿密な計画のつもりで植え直したとしても、アリスがボートから身を乗り出して次々に摘んだニオイイグサと同じで、憧れた庭には届くことは多分ない。いずれ父母もここを離れることになるだろうし、バブも出ていくだろう。もしかしたらわたしが出ていくのかもしれない。誰も思い出すことのない、誰も目を止めることがない庭から。その時はこの荒れ庭はどれほど荒れていることだろう。

2021年3月12日金曜日

とてちて短歌

2011年07月31日(日)
熱残るアスファルトに線路を引きわたしとお前は世界のみなしご

2010年08月15日(日) 
平和祈り並ぶかしらを風過ぎる 天の御母に歌を捧げ 

2010年05月11日(火)
明け烏コットに並ぶみどりごの泣き声止まぬマリアらの国 

2009年12月18日(金)哀しきは蝶にもなれず舞い狂う一葉に似た軽き吾が生 

2009年12月14日(月)
双子座を探すベランダで元少女の鼻先に夜降り宿る 

2009年12月11日(金) 
ビスケット一人で囓るまよなか過ぎ客待つ娼婦気取りで 

2009年11月04日(水) 
おさなごの眠るくちもとばら色に山そびえたる聖なるかな 


ほぼ十年前のツイッターのログを時々読んでいる。なぜ残してあったのかというと(ほとんどログのことなど忘れていたのだけれど、ファイルを漁っていたらいくつも見つかった)、アカウントの痕跡まで消すのが寂しかったからだ。十年のうちにアカウントを三つほど乗り換えたが、最初のアカウントは思い入れも深く、また交流もわたしにしては盛んだった。今はもう完全に知らない人同士になってしまったアカウントの持ち主と、夜な夜な文字の会話をして、眠れぬ夜を過ごしていた当時が懐かしくなった。

上記の短歌もどきは、初代のツイッターアカウントで作っていたもののようだ。もう少し数を作ってブログか何かに転載しようと考えていたのだと思う。結局今になるまで転載はせずにいたので、わたしは自分が短歌もどきを作っていたことすら忘れていたけれど……。以下はここ二、三日でパズルのように文字を当てはめただけの短歌もどき。三十一文字からはみ出ているものもあるが、完全な素人の手遊びと思って読んでいただければと思う。へたくそでとても恥ずかしいが、わたしは放置したまま忘れたり、推考もせず消していくので、日々の記録として残しておくことにした。



ハンドルを強く握りて夜駆ける星間漂う宇宙船に似て

巡る日を過ごしし古都の思い出はわれ連れ回すメリーゴーランド

ただひとつうたへる聖歌を口ずさむ祈りをしらぬとこうべ垂れつつ

くりかえし再び語る思い出は祈り数える数珠玉に似て

ミモザ咲く時しもさや風過ぎゆきぬ祈るあてなきかしら掠めて


2021年3月9日火曜日

明け烏コットに並ぶみどりごの泣き声止まぬマリアらの国

たまに夜中遅くまで起きていたり、電気を消し忘れて寝てしまった事に気付いたりすると、産前産後に総合病院の産科に入院していた頃のことを思い出す。こうこうとついた電灯の下で、おかあさんたちが円形に座って赤ん坊にお乳をやっていた、授乳室のこと。

生まれたての赤ん坊だから時間に関係なくふにゃふにゃとお乳を欲しがる。その都度行っていたわけではないけれど、夜中は病室で区切られたカーテンの中にいると世界に取り残された気分がして、それで授乳室まで赤ん坊を寝かしているコットをコロコロ押してそこに行った。

授乳室は大体いつも四、五人の赤ん坊とそのおかあさんたちが集まる。眠りながら乳を吸う赤ん坊のほおをつついて、赤ん坊にとって不慣れな授乳をしている。そこでは誰もがただの生まれたてのおかあさんだった。

誰の顔も晴れやかで、美しかった。産後の興奮などでつやつやと光っていた。初子でぎこちない手つき、既にきょうだいがいて、思い出しながらの手慣れた手つき。でもそれは全て母の手つきにわたしには映った。溢れてくる保護欲の、(それがあるとしたら)母性本能のほとばしる手つきだった。彼女たちは疲れているようでもどこか誇らしげで、同時に慈愛に満ちているように見えたから、授乳室は聖母マリアたちの国のようだと思ったものだった。

もう思い出せないほど遠い昔のような気がするし、同時につい昨日のような気もする。ふわふわのおまんじゅうみたいにつぶれてしまいそうな新生児を抱いていたまよなか、この先この子に起こるかもしれない事について、モヤモヤしていたから(だっていのちを産んでしまったから。せめて幸せであってほしかったし、それでも迎えるだろう不幸を思うと辛かったから)不安に乗っ取られそうになったけれど、それはそれで幸せだった。

何もしたいと思わなかった。本も他人も家族すらどうでもよかった。ただこの小さな赤ん坊を抱いてずっと見ていたかった。柔らかなほおを撫で、小さな手に指を掴ませて、乳を含ませたまま、そのままどこかへ沈んでしまいたかった。いのちそのものである赤ん坊を抱いたまま、夜に、朝日の中に、夏の中に、溶けていきたかった。

溶けなかったわたしたちは、すっかり熱もさめ、別々の人として暮らしている。あの頃のわたしのような状態を愛と呼んでいいのかはわからない。ただ湧き上がる泉そのものだった。

2021年3月4日木曜日

ずっと水辺で暮らしてる

古いログを読んでいた。昔の方がもう少し無邪気ではしゃいでいて(少々はそれを装って無理をしていたのかもしれないが)、臆せず人と文字の会話をしていたようだ。自身のログしか残っていないので、何の話なのか、そのアカウントの持ち主が今どうしているのか、ぼんやりとしかわからない。

最初のアカウントを作った頃のこと。今も同じアカウントで続けている人もいるだろうし、わたし以上に繰り返しアカウントを変えてどこかにいるかもしれない。もっと狭い範囲のSNSにいるのかもしれない。でもあの時間には確かに「いた」。

わたしは当時一歳くらいの女の子の母親だった。そして眠れない夜を過ごしていたから──彼らもまた同じ時間にたまにタイムラインで「すれ違った」。残ったのはそれだけ。わたしはどんどん内向きになってアカウントを何回か消しては短い期間で別のアカウントを作ったから、その度ごとに追いかける事が出来なくなった。

だんだんネット上の文字だけではなく仕事に出るようになって現実の人びとに向き合わないとならなくなり、夜は眠るようになった。「すれ違った」人と二度と会えないとはあまり思っていなかった。彼らは森の妖精でもないのに、そこにいきさえすれば必ずいると決まったものでもないのに、そうは思わなかった。

そういう「すれ違い」をずっと、ここで(初めた頃からはずいぶん時が流れているのに、同じ場所にとどまることは誰にも出来ないのに、とても無邪気に出来ると思っていた)、している。

その花をつままくときは とことはにすぎさりにけり

子供の頃、多分まだ年齢が一桁だったころ、れんげ畑でイベントがある(そう大それたものではないと思うが、田舎には娯楽がない。子供の頃は、嘘みたいに続くらしい人生に退屈していたし、それはわたしの顔に常に出ていた)とどこからか聞いてきた母が、家族で出かけようと計画をした。心踊る計画ではな...