たまに夜中遅くまで起きていたり、電気を消し忘れて寝てしまった事に気付いたりすると、産前産後に総合病院の産科に入院していた頃のことを思い出す。こうこうとついた電灯の下で、おかあさんたちが円形に座って赤ん坊にお乳をやっていた、授乳室のこと。
生まれたての赤ん坊だから時間に関係なくふにゃふにゃとお乳を欲しがる。その都度行っていたわけではないけれど、夜中は病室で区切られたカーテンの中にいると世界に取り残された気分がして、それで授乳室まで赤ん坊を寝かしているコットをコロコロ押してそこに行った。
授乳室は大体いつも四、五人の赤ん坊とそのおかあさんたちが集まる。眠りながら乳を吸う赤ん坊のほおをつついて、赤ん坊にとって不慣れな授乳をしている。そこでは誰もがただの生まれたてのおかあさんだった。
誰の顔も晴れやかで、美しかった。産後の興奮などでつやつやと光っていた。初子でぎこちない手つき、既にきょうだいがいて、思い出しながらの手慣れた手つき。でもそれは全て母の手つきにわたしには映った。溢れてくる保護欲の、(それがあるとしたら)母性本能のほとばしる手つきだった。彼女たちは疲れているようでもどこか誇らしげで、同時に慈愛に満ちているように見えたから、授乳室は聖母マリアたちの国のようだと思ったものだった。
もう思い出せないほど遠い昔のような気がするし、同時につい昨日のような気もする。ふわふわのおまんじゅうみたいにつぶれてしまいそうな新生児を抱いていたまよなか、この先この子に起こるかもしれない事について、モヤモヤしていたから(だっていのちを産んでしまったから。せめて幸せであってほしかったし、それでも迎えるだろう不幸を思うと辛かったから)不安に乗っ取られそうになったけれど、それはそれで幸せだった。
何もしたいと思わなかった。本も他人も家族すらどうでもよかった。ただこの小さな赤ん坊を抱いてずっと見ていたかった。柔らかなほおを撫で、小さな手に指を掴ませて、乳を含ませたまま、そのままどこかへ沈んでしまいたかった。いのちそのものである赤ん坊を抱いたまま、夜に、朝日の中に、夏の中に、溶けていきたかった。
溶けなかったわたしたちは、すっかり熱もさめ、別々の人として暮らしている。あの頃のわたしのような状態を愛と呼んでいいのかはわからない。ただ湧き上がる泉そのものだった。
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