彼とは司書過程の講義が一つ二つ重なっていただけで、積極的に話をしたことはなかった。その頃わたしには何かと厳しい恋人がいて、恋人を通してしか人と話をしてはいけなかったから、学内のほとんどの人と話すきっかけはなかった。恋人がたまたま興味を持った人、恋人と同じゲームをする人(恋人はテーブルトークRPGを好んでいたし、わたしもプレイしていた)、恋人と同じゼミの人……とにかくわたしから彼に話しかけることはほとんどなかったと思う。でも、知っていた。彼は情報館でアルバイトをしていたし、時々同じ講義をとっていたし、目にかかる髪の毛はふっと頭を振って顔からよけることを。時折黙礼を交わすような、その程度の知り合いだった。
彼が手動のミルを使ったり「お店」をオープンするためのこまごまとした何かは、全て儀式のように見えた。わたしはそれをいろいろな場所から見ていた。食堂の二階のラウンジから、情報館三階の窓際の席から、非常階段(当時非常階段や草むらで自作の弁当を食べることにはまっていた)へ向かう道すがら。
まだ二十歳そこそこで、コーヒーの味もよく知らないお子様だった。インスタントコーヒーしか知らなかったし、ミスタードーナツで飲むのはアメリカンにお砂糖とミルクを混ぜたものか、ポットでサーブされる紅茶くらい。だから一度も彼の「お店」でコーヒーを飲んだことはない。一度くらいは飲んでみたかったんだと思う。恋人を通してではなく、自分から望んで。そうでなければ記憶に残らないから。しなかったこと、できなかったことはたいてい記憶の中で輝く。彼の のコーヒーも記憶の中では琥珀色をして輝いている、いつまでも。
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