2021年8月1日日曜日

柘榴の半片

 一ヵ月前に僕たちは結婚した。簡素ではあるけれど妻の希望通りの小さなチャペルで結婚式を挙げ、盛大ではないけれど僕の希望したアットホームな披露宴を開いた。妻は美しかった。女神のように光り輝いて、女神よりもずっと幸せそうに微笑んだ。
 両親への花束贈呈のとき、義父は僕の肩に手を置いてゆっくりと頷く。僕もそれを見て同じように頷いた。けれど義母は僕を一瞥しただけですぐに視線を愛娘である妻に戻し、泣いてしまった。仕方がないね、と僕は気付かれないほど小さく肩をすくめる。もともと、僕は義母に好かれてはいない。娘を奪った不埒な男は恨まれるものだ、王子様でも乞食でも。例え神だとしても。

 僕はあの母親からは随分嫌われてしまった。四年をかけてゆっくりゆっくりと育った感情は、あの結婚式の日に爆発したことだろう。これまでずっと、一週間と離れたことのなかった娘が、家を出ていくのだ。遠い地へ旅立つのだ。男と、手に手を取って。振り向くこともなく。僕はそれが嬉しくてたまらない。横槍を入れてきたことも、かけられた様々な暴言も、今なら全て忘れられそうな気がする。むしろ感謝出来るかもしれない。

 一生の記念になる結婚式から四年前、小さなガーネットのリングとともに、僕は妻に結婚を前提とした付き合いを申し込んだ。つやつやとした、少女から女性への入り口にいた彼女によく映えるように選んだガーネットは、彼女の前ではくすんでしまうだろう。いや、贈り物用にとりぼんを箱にかけてもらって僕の手に渡された瞬間から、色褪せてしまったのが僕にはわかった。とは言えこういうことには形が必要だ。愛の形、美しさへの賛美の形、永遠の形。それらの容れ物としての何かが。当時僕はそれなりの企業に就職が決まったところで、彼女はまだ二十歳そこそこ。ニザンに言わせれば「一番美しいなんて言わせない」年頃だけれど、やっぱり、美しいのだ。若さという光が身体の内側から溢れ、老いを知らない肌を通して彼女自身が、光の中でもほのかに発光しているようだった。いや、光っていた。どこに居ても、僕は彼女を見つけることが出来るのだから。

 僕が妻を初めて見たのはサークルでだった。ただのんべんだらりと映画の話をしている、ありきたりの大学内サークル。それなりにサークル活動にも慣れ、満喫していた頃だった。そこに、彼女が来たのだ。その時から彼女は光を纏っていた。

 新入生歓迎のコンパで、始まって一時間足らずで妻は(当時はまだ挨拶程度しかしたことはなかったけれど)堂々と「母が心配しますので」と宣ったのだ。同じ新入生の女の子たちが揃って「もう少しいいじゃない、しらけちゃうわよ」と止めてはみても、彼女は首を縦に振るどころか素早く財布を出し、サークル部長に願い出て帰ってしまった。ある時など帰りが遅いことを心配した母親が、大学の門の前で待っていたこともあった。

 それでも彼女はサークル内でひどく浮くことはなかった。本当に忙しいときに、誰かがちくりと「門限」に対して苦言を呈することはあっても、それ以上は言わない。が悪く言われないように会話の中で僕はほんの少し、誘導していた。道しるべを変えて、旅人を迷わせるピクシーの気分だった。僅かな角度の差でその延長線上では大きな開きが出来るように、彼女ではなく彼女の母が「あり得ない」存在なのだという話に変わっていく。そして彼女は心から同情されるのだ。

 やがて周りからゆっくりとゼリーが固まるように、冬が始まる頃に僕たちは付き合い始めた。その頃から僕は彼女に対しても、少しずつ道しるべをずらすことにした。難しいことではない。ほんの少しのほころびが、糸を引っ張るとぱららっとほどけていくようなものだ。やがて彼女の「門限」も少しずつ緩み、彼女が母親とばかり行動する時間も減り始め、逆に僕との時間が増えていった。もういいだろう、と僕が決心したのもその頃のことで、内定をもらったことがアクセルを踏み込むきっかけになったというわけだ。

 初めの年には小さなリングを。
 次の年にはそれに似合う少し大ぶりのネックレスを。
 その次の年には、小さな耳たぶに釣り合うピアスを。
 そして結婚を決める直前には、婚約指輪とは別にもう一つリングを。
 全て、ガーネットで。
 
 ガーネットは柘榴石。柘榴が象徴する物は生命と出産、そしてそれらの副産物としての結婚。僕はガーネットに呪いをこめたのだ。彼女が母親から少しずつ遠く離れていけるように。冥界の王ハデスがペルセポネに、結婚を想起させる柘榴を食べさせて娶ったように。必ずあの母親を捨てて僕の元へ来るように、と。その為にも僕は海外への赴任のある企業を選んだのだ。やっと僕にも海外赴任が決まった。日本を、家を、あの母親を、物理的にも精神的にも置いていくのだ。黄泉の国へ下るような、ひやりとした悦楽。ため息がこぼれそうだ。梶井基次郎の言う「爽快な戦慄」とはこのことかもしれない。

 僕は四年の月日をかけて、四度のガーネットをもって君をペルセポネにしたのだよ。義母にとっての妻は太陽であり揺れる新芽であり澄んだ泉だったのだろうけれど、それは僕にとっても同じこと。僕の世界の中で彼女は太陽になり芽吹いた新芽になり、そして命を湛える泉になるのだから。例えその世界が黄泉の国だとしても。
「汝の唇は紅色のいとすじのごとく、その口は美はし。汝の頬はベールのうしろにありて、柘榴の半片に似たり」
 僕の呟きに君はにこりと首をかしげて笑う。さあその白い手で、僕の手を取っておくれ。いくつでも君に柘榴をあげよう。君は僕のペルセポネなのだ。

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