2010年12月28日火曜日

世界と私の二人組

 前提が必要だとすれば、山崎ナオコーラとは同世代である、という事、ほんの少し饒舌に、作家の言いたい事を直接主人公が代弁しているような部分が、物語の中で見られるという事。所謂ロストジェネレーション世代特有の、感情の揺られ方というか醒めかけた視線というか、そういうのは同世代たちが広い意味で共有していると思う。彼女の筆の運び方は、じっとりウェット過ぎもしないし、過剰に元気でもない。何かを熱く燃え上がらせる事よりも、自分の内側にまず、ぽつぽつと灯を点している方が、大事。

 『この世は二人組ではできあがらない』を読み終わった時に思ったのが、人と別れた時って信じられないほどの開放感を味わったっけ、という事だった。二人或いはそれ以上の、恋人または友人と過ごす時間が決して嫌いなわけじゃないのだが、「じゃあね、またね」と手を振り合った瞬間に、ゆるゆるとした何かで巻かれていたのが解ける、あの感覚。巻きついた何かは、トイレットペーパーのようにすぐ溶けるのだけれど、同じ空間同じ時間を過ごす間は溶かせない。ぺたりと濡れて身体中に貼り付いている。

 でもその巻きついたものの残りをひっぱりながら帰宅するのは、例えば好きな人の吸っていた煙草の煙に燻されたような感じで、心地よかったりもする。ふと着ていた服に移っていて、それに後から気がつくというところが、心地よいのだ。存在しているのに不在。会わない時間の方が、会っている間よりもより濃く相手を思うことが出来るから、その不在がより愛おしい。なので会っている最中ももちろん素晴らしい時間なのだけれど、その後余韻に浸りながら帰り道を歩いている時間も、素晴らしく気分が良い。

 社会に属する大抵の女性と男性は、ある程度の年齢に達したら結婚して新しい、ごく小さい家庭を持つべきだと言われていた時代(経済的な事はさておき、特に昭和の時代の話)に比べると、社会というよりも、世界の中で生きるということにおいては、今の時代の方が、温度の調節が出来るプールで泳いでいるような気がしてくる。結婚していない事、恋人がいない事を、正当化しても負け惜しみには聞こえにくくなった。私の母と同世代の女性たちは、経済観念的に自由が許され始めた頃だったけれど、学歴よりも、結婚している/していない事が、社会の中にいて振り分ける時に使われる物差しでもあった。

 誰かと生きるというのではなく、世界の中で生きるという緩い広がりというのも、良いと思う。二人組、詰まる所夫婦、恋人同士、親友同士でのみ構成される世界は、色鮮やかで美しい。けれど熱帯植物の温室のように息苦しさもある。それは多分、向きと不向きであって、しないからおかしいというものでもない。

 一人でいる、と言ってもあくまで「みんなの中で」という前提があっての事だ。山崎ナオコーラという人は世界の流れの中できちんと同じ水であろうとしているようで、良いなと思う。ちゃんと流れを探そうとしているというところも。

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