2010年12月31日金曜日

扉にて

 ミレイの絵に、「はじめての説教」と「二度目の説教」がある。初めて教会の信徒席に座ることを許された、赤いコートの幼女が、厳粛な面持ち——それは彼女が持ちうる限りの厳粛さで——お説教を聞いている絵と、二度目の教会でのお説教で、ふと張りつめていた緊張を緩めて、身体をくにゃりと曲げて転寝している、二枚の絵。

 去年の暮れに、カテイノジジョウにかたがつき、今年は新しく始めるのだと思いながら、月日を過ごした。嘘のない日々を。笑われるとしても、自分を卑下することはなく、微笑み返すことの出来る日々を。その時には既に涙を失っていたので、随分気楽だった。もう泣く必要もないと言う事は、自己憐憫に浸りきって絞り出す哀しみもないはずだから、と(とは言え、十月に映画館で二時間ほど泣いたので、完璧に涙を失ったわけではなかったのだが)。それ以外には一切涙も滲まない生活をしているので、実際どうかは、まだよくわからないけれど、私は随分健康になったように思う。頭が健康でいられるというのは、とてもよい。

 今年は、私の「はじめての説教」だった。真っ直ぐと前だけを見て、声の聞こえる方へ耳を傾け、口を結び、全てをただ受け入れる、受け流すのではなく。それはとても気持ちのよいことで、今でもまだ少し、ぽうっとしている。初めての説教を聞いた後の彼女が、軽い興奮と安堵と、そして祝福に包まれているように。

 来年、と言ってももうあと僅かな時間しか今年は残っていないけれど、来年もまた同じようでありたい。いつでも初めてであるように、受け入れる余地を持ちながら、その光の道を歩いていけるように、謙虚でありたい。

 そしてまた、あなたたちに会いたい。

2 件のコメント:

  1.  こんにちは。ひとこと御礼が言いたくて、ここを訪れました。
     あの読みにくい、とげとげしい小説たちを読んでくださって、本当にありがとうございました。あなたに読んでいただけたと伺い、苦労して書き上げた甲斐があったと思っています。心から御礼を申し上げます。
     僕が今いる場所は血の海の底なのだと、タイムラインのどこかで、誰かが耳打ちしてくれました。確かにそうなのに違いありません。
     でも僕は、僕にしては珍しく、辛抱強く耳をすませています。また再び浮かび上がる時を、じっと待っています。
     そう長くはかからないでしょう。照れ笑いを浮かべながら、もうじき、新しい短編を一つか二つ携えて、タイムラインに参上するつもりです。その時は、「やれやれ、戻ってきちゃったのね。勝手なやつ!」と、苦笑しながら迎えてやってください。あなたのお幸せを願っています。神様のご加護があなたに(そして願わくば不信心者の僕にも)ありますように。

    返信削除
  2. お戻りになられたのに、今度は私が、とんずらでした。コメントを頂いた時、とんずらする準備をしていて、返事を書けなかった非礼をお許しください。

    私は、先に読んだ二つの小説を、とても気に入っています。今でもそれは変わりません。時折ぱらぱらと読みます。好きな所は、まあ、沢山あるのでここには書ききれそうもなく。だから作者であるあなたに対して内緒、と言う事になってしまうんですが。
    それは、貴方という人とタイムラインを通して言葉を交わしたから、というのではなく、
    小説家としての別の貴方が書いたものを、読み手である私が受けることができたからです。
    読み手にとって幸せな事は物語を読む事が出来る事。ひっそりとでも、教えて下さった事に感謝します。

    作家の代表作はいつも、「次に出る作品」だと聞いたことがあります。
    だから、願わくばその「次に出る作品」も読むことができたなら、というのは欲張りかもしれませんが、私の希望です。
    貴方の新しい、二つの小説も大事に持っております。拾われた手帳の物語が、好きです。閉じこめられていく気がして、閉じこめられるのが大好きな私は、阿呆の様に閉じこめられていきました。

    どうか神様の祝福が、いつも貴方にありますように。
    これは、私が、貴方に初めて書くファンレターです。いつか、ここをお読みになる事がありますように。

    返信削除

滅びの王国

『すえっこOちゃん』という本を借りた。Oちゃんのほんとうの名前はオフェリアだけど、いつもOちゃんと呼ばれている。スウェーデンのある町に住んでいる七人きょうだいの末っ子で今は五歳。年上のきょうだいがいるのでおませさんだそう。奔放ではちゃめちゃだけれど、OちゃんにはOちゃんの理屈がし...