2011年3月27日日曜日

「言葉を持たないものは、言葉に復讐される」

 やめ時が分らないまま続けていたツイッターを、やめた。あの場所に居ると引っ掻き傷を付けるのにも、引っ掻き傷を付けられるのにも、慣れてしまう。慣れていくであろう自分を俯瞰する事、そのものが気持ちが悪かった。だから、別に何か嫌な事をした、されたわけではなくて、なんでもない、たんじゅんに自分だけの問題なのだった。めんどくせえ奴。

 もともと、私は言葉を持たないのだった。言いたい事も別にない。伝えたい事ならなおさら、ない。別に言っても言わなくても、どうでもいいことしか、ツイートした事はなかった。情報も持たないし、言葉も使っていながら弄ぶだけで、持っていない。だから、今、「言葉に復讐」されている。持たない者が持ったつもりで天を目指せば、当然鑞の羽で舞い上がったイカロスのように、あわれ、墜ちていく。そして私は、落ち続けている。

 タイトルにした一文は、私がかつて好きだった人が描いた(書いた)ノートで見つけた。もう絶対大丈夫です、と頭突きをせん勢いで医者に詰め寄って認められた退院という解放後、戻った部屋にあったのは、リュックサックに無造作に詰め込まれた靴下とTシャツと、真新しいのに丸まったノート、赤いボールペン、くちゃくちゃと丸め込まれた綿の、カジュアルなジャケットだった。ジャケットのポケットの中に手を突っ込むと、砂粒とレシートがあった。レシートには海沿いの町の名前が印刷されていて、それと指先に乗った砂粒だけが、彼が海沿いの町に行った後、ここにはいないという「現場不在証明」になった。

 ぱりぱりと頁を捲っていくと、あの一文が目に入った。そうして、わかった。彼はまだ(それは私の願いだった)居るけれど、既にもう行き止りへ行ったのだ。彼は絵と詩を描く人だった。彼の大きな瞳は世間を斜めから見ていたように思っていたけれど、本当は、彼は、真っ正面から見ていたのだと思う。眩しさに顔を顰めながら、それでも一心に向かい合っていた。今になって、そう思う。ふらりと立ち寄った私の部屋で、無様な蛙のようにひっくりかえっていた(と思われる)私を見て、辟易しただろう。病院にはなんとか、連れて行ってくれたようだった。あまり体力のない人だったのに、酷な事をしてしまった。

 あれは、なまぬるい春。薄曇りの空の事をよく覚えている春のことだった。退院した後、彼と会うことは全くなかった。会えたとしても、相手は会わなかっただろう。仮に相手にその気があっても、周りは私をうまく、でも確実に押しとどめたはずだ。次に会えたときは、彼は写真の中だった。唯一救われたのは、飛行機に乗る為に一緒に鹿児島まで行った事を、何度も話していたと言ってくれた、彼の家族の言葉だった。自分を責める事ほど、容易い事はない。責められるだけ責め抜いても、それはどこまでも自己弁護と自己憐憫でしかない。情けなくて恥ずかしくて、それなのにいくつか周到に用意してあったものは全部没収されてしまっていた。ただまんじりともせず朝を迎え夜を超え、部屋の中は煙草の煙で真っ白で、私が外出するのは煙草とアルコールの為だけになったが、それさえも彼の不在にかこつけているようで、恥ずかしくて頭を掻きむしった。

 あの日から今までどうやって歩いたかはよくわからない。多分道幅の広い方だけを選んで歩いていたんだと思う。それは、確かな破綻へ繋がった。どれだけ時間が経ったとしても、忘れたくない事は、私にもある。今こそ私は復讐されなければならない。どのようにして復讐されるかは、言葉が知っている。私はただ言葉の決めた事を受け入れるだけだ。

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