2011年8月19日金曜日

ヤー、プチーツァ

 夜、少し散歩に出た。この頃不機嫌な娘の手を引いて、本当なら「夜は寝なさい」と言うべきところを言わずに、ほんの少しの散歩に出た。小さいとは言え、赤ん坊の頃から比べれば随分としっかり肉のついた、肉の奥に骨の出来た手を、二人ともきゅうっと握って、一段一段階段を下りる。かぽおん、かぽんと彼女の長靴は音を立てる。ほんの五分だけの二人の家出。ゆるい夜の気配をふんだんに含んだ風は、多分これは何かが発現する前の兆候で、実際数時間の後に雨が降り出した。雨は海から始まり山が覆われて、そして家々に降った。

 こんな風に夜の散歩をした事が、何度もあった。彼女とではなくてその当時付き合っていた男の人と、宛も無くふらっと歩き出し、そしてまたふらっと部屋へ戻った。手を繋いでいたときもあったし、一本のマフラーを二人でわけっこして歩いた事もあった(これは、首筋に風が入るのであんまりロマンチックではない)。とっぷりと酔って歩いた事もあったし、今夜のようにぬるい風の中を歩いて、アイスクリームを買って食べた事もあった。星を見た日もあったし、ただ夜露の降りた芝生を踏みに行っただけの日もあった。懐かしい、彼女のいない日の思い出。

 この頃彼女はなんだか発電している。ぴりぴりしていて身体に余った電気が、私に向かって放出される。きゅっと眉を上げて鼻の頭に皺を寄せることもある。ぴしゃん、と柔らかい手のひらがぶつけられることもある。多分、保育所で意に添わない事がいくつもあったのだろうし、それを自分の中で処理しきれないのだ。生まれて三年では、まだね。その十倍生きている私も出来ないのだから、仕方ない。わかってはいる。でももどかしい、それをぱっぱっと箒ではらってやりたいと思うが、上手くはいかない。出来るとして、ちりとりを構えるくらいか。

 親は全く、使い物にならないな、と思い、ああ、でも同じような事を母も思ったのだろうか、と考える。あの人は何もしないタイプではあるが、まあ考える事くらいはしただろうか(私はそういう幻想を抱かせて欲しいものなのだ、いつまでも。絶対的な母なる存在を憧れ続けている、大文字のMで始まるマザー・コンプレックスにとっては)。それが彼女の足下から昇る、かぽおん、かぽんという音と相まって、入れ子の小箱に母が、母の母、私の祖母が、祖母の母が、私が、娘が、娘がいつか生むかもしれない子供が、収まっていく。

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