2020年8月1日土曜日

フェアリーサークル

    多分わたしは、多分ではなくもうずっと、処女でなくなったあの日あの時間からずっと、男の体を持って生まれ、女を抱くことができる男がずっと嫌いで、特に一夜でもベッドを共にできるような相手(というとても限定的な“男”。わたしを対等の人間として見ていない“男”。男といういきもの全てというわけではない、多分)を汚してやりたくてたまらなかったのだろうし、その相手はわたしと同等の生物ではなくて下等だと思いこみたかったのだと思う。関係を切るためにもそれを使うことがあった。最後の「贈り物」代わり。たっぷりとお土産を持たせた良い気分にしてあげるのだから、二度と関わらないで、これ以上あなたと関わるとわたしが「けがれる」。

 なぜそこまで過去に関係のあった男たちを嫌うことができるのかというと、わたしは一度も彼らに「同意」したことがなかったからだ。同意したのは、「この関係は必ず切る」と決意したもう一人のわたしだったからだ。彼らの性欲や征服欲が、まったく無価値だからだ。わたしの仕草や声の調子が全て“彼らが望む女と思われる姿を、わたしが演じていたもの”だと見抜かず、せっせと唯一の目的に向かって運動する間抜けだからだ。笑みをたたえて黙って肉に徹してくれればまだ……それはわたしが人を愛さないからだし、愛されたことがなかったからだし、愛を理解しないからかもしれない。でもそうだとしても、彼らはわたしを利用するのだからおあいこだ。もっと酷い目にあってもらってもいいくらいだとも思えてくる。だって男は男というだけで既に許されてるのだもの。女は違う。聖書でもそう。女であるだけで、いつも罰を受けているみたいだった、若い頃は特に。

 男にも女にもなりたくなかったのに、わたしを都合よく使おうとする男はいつも、わたしに女を求める。

 わたしに対して一度でも馬っ気を出した者は、表面ではそう扱わなくても、全てわたしの中で目の前で消えて欲しい人リスト入りした。この先関わることがあるとして(決してないが)、どんなに善きことを成したとしても、どんなに人のために尽くすことがあったとしても、わたしを踏んだことはかわらないから、そのリストからは外すことはない。どんなに立派になろうがどんなに落ちぶれようが、わたしと関係のあった彼らは等しく無価値だからだ。

「ぼく本当はそんな性欲ないんだよ」と言いながらいそいそとシャワーに向かう男の背中はみんな同じだった。白けきったわたしはベッドから後ろ姿に心の中で中指を立てていた。あつかましい割には貧乏性な性欲を持つ彼らは大抵マッチョではなく、けれどセックスの場面で男として扱われる事には渇望していた、とわたしは考えている。そういう望みを持つ男の、希望を、隠しきれずに沸き立った欲望を、全部めちゃくちゃにしてやりたかった。お前の欲望など価値のかけらもない、醜く滑稽な己自身が映っている鏡を、今ここでお前に見せてやりたいとどんなに望んだことか。

 まるで、自分はそれを望んだ事は一度もないが「せっかくおねだりされているのだから、してあげる」という態度をとる男たちの言う事も顔つきも、時代が変わっても出身地が違っていても年齢が上がっていっても、ほとんど一緒だった。彼らはどこで繋がっているのだろう、雨の後に現れるキノコの輪のようじゃない?

 性欲はないと既にごまかしている限定的な“彼ら”には、疲れさせられるだけ。いったい何に、誰に、申し開いているのだろう、どうして言い訳や理屈をつけるのだろう、わたしに対して?違うわね。自分自身が属しているつもりの、他の男たちに対して?きっとそう。自分自身の欲求に素直になればいいのに!認められたいのはわたしからの「あなたこそが女を抱ける男である」ではなく、女を抱く身体を持った他の男たちからの承認ではなくて?どっちみちわたしは彼らを見下すことは変わらないけれど。彼らはとてもよく似ていた。言う事もする事も手順も、後ろ姿も笑い方も。キノコのようによく似ていた。


(三年ほど前、ずっとずっと怒っていたことに気づいた時に連続投稿したツイートを、少し整えました)

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