2020年7月29日水曜日

欲望という名の物語

 物語を読み終わると疲労と淋しさと離人感を味わう。二重に自分の視点があるような、現実のチャネルにあっていないような。なので、深く物語に沈み込んだ後は現実に戻るまでに時間がかかる。こういう読み方はよいような気があまりしない。しかしこの読み方でしか物語を読んでこなかったので、実のところどうすればいいのか、わからないままでいる。

 良い読者ではないので(良い読者とは感想や批評を文字にすることができる人の事だと思う)、物語を読んでいる間は無意識のうちに登場人物たちの人生の、あるいっときを生きようとしているし、少なくとも物語を読んでいる間は自分の人生を生きていない。多分わたしが年齢より精神的にずっと幼いのは、なにも知能の問題だけではなく、この深く物語に沈み、自分の人生ではなく物語の他人の人生を歩んだつもりでいるからではないか、と時々思う。

 それは時にとても危険な気がしている。他人の人生を飲み込んでいるような、グロテスクさがある。

 物語を持たないわたしが、物語そのものである他人に触れたいと願うのは、とても危ないことなのだろう。おなかがすいたからパンを食べるように、自分の心の奥底に、他人を食べたいし食べたっていいんだという欲望を持っているんじゃないか。物語を好きに読むように、他人も読もうとしているんじゃないか。他人というのは別に人間に限らない。星や月についてもそう。

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