2020年7月23日木曜日

神様を待ちながら

 ずっと子供の頃から、名前のない「神様」のような完全な存在を夢見ていたように思う。そしてその「神様」さえわたしを見つけてくれたら、わたしの「場に馴染めない/物事に向かい合うことを避ける/何事も取り掛かることが遅いetc……」という不具合も、まとめて愛してもらえるのではないかと思っていたのだと思う。画像はわたし自身の「神様のような他人」についての願望。
 けれど、生身の人間に対しての崇拝はとても強い力が働くので、大抵わたしの方が根を上げてしまうし、関係をシャットダウンされる事を望んだ。時にはそうでなく嫌いになる事もあったが、概ね関係は途切れたのだから願いは叶ったことになる。呪いのようなものではないか?あまりにも自身の願いが強すぎて、呪いが跳ね返ってしまったような気もしてくる。
 生身の人間は神様になることはできないのに、それでもその人の中に神様を探そうとして、わたしはその人を好きになったんだと今なら思う。そこにはいつも、その人(たち)はいなくて、わたしはずっと「神様」と名付けた完全体のわたしを探していたんじゃないだろうか。いつか、誰かが言っていた「人は完全な球体になるために相手を探す」という言葉を都合よくねじ曲げるように、完全な「わたし」になるために人を探していたのではないだろうか。それはなんて淋しく、悲しいことだろう。愛することひとつも知らないままに、ただただ呑み込める相手をふらふらと探し求めていたなんて。存在しない「神様」に出会う日をずっと待っていたなんて。





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