子どもがいる生活が段々当たり前になってきた頃、喃語を発する子どもを前に途方に暮れた。「途方に暮れた」と過去形ではあるけれど、事実上は現在進行形だ。会話が成立しない!話すことが好きでもなければ得意でもない私でさえ、そのことに気付いたとき呆然とした。かのじょの言うことが私にきちんとわかるだろうか?母親なのに、わからなかったらどうすればいい?
最近は少しずつ意味のあるようにも思える言葉が口から漏れている。でも、表情や仕草と合わせなければ、正解しない。私が意図せず発している言葉を、道ばたにかりかりと落ちている枯葉のように拾い上げているのだろう。かのじょにとっては、私たち周りの大人が発している言葉も、玩具のようなもの。それが後々よいものになるのか悪いものでしかなかったかは、まだわからないけれど。
かのじょの言葉は、言葉以前の言葉。言葉と声の境界線が曖昧で、まだそれらがさまざまな意味を持っているということを、深く理解しているかはかのじょからは聞き出せない。今は、私がこうだろうなと思ったことをいくつか提示すると、子どもの方がそれに当てはめてくれるのだけれど、根本的には多分、子どもはもどかしいと思っているのではないだろうか……。自分がちゃんと喋っているのに、何故この人はわからないのだろう、と。
そもそも、子どもというのは自分だけの言語を、また子ども同士だけで通じる子どもだけの言語を持っているらしい。大人達にとっては、それらは自分の知っている音に当て嵌めて、さらにものの名前などに組み替えなければ通じない。けれども、かれらやかのじょらにとっては発したままの言葉で通じている。散歩の途中、近所の坊っちゃんが私たちに、「ぼくねえー、%$#がねえー、好き」と言った「%$#」は、一番近い音で「くさ」だったのだけれど、かれの言う「%$#=くさ」と、私が聞いた「くさ」は別物かも知れない。同じ音だけれど、かれと私の間には、暗黙の了解は存在していない。だから、どんなものかは私が想像で補完するより方法がない。それがすごくもどかしく、少し残念だ。かれの「%$#」を共有できないということが。同じようにまたかのじょととも、僅かなすれ違いを繰り返し、ことばを、世界を完全には共有できないのだろうということが。
そうでなくても、世界は孤独だというのに。
まるで、 胎児のようなことばたち。小さく丸く眠るように、子どもたちの奥深くで息づいている。
生まれてきたら、きっと、かのじょは驚くことだろう!世界はことばで溢れているということ、自分からもことばが溢れ出てくるということ、便利だけれど、でもすこし不便になってしまうことに。
生まれる前のことばたち。今はまだ、ゆっくり、夢を見ておやすみ。
2009年11月13日金曜日
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