2009年12月11日金曜日

赤の王様と私、夢を見ているのはどっち?

 子どもの関係でちょくちょく外出することはある。子供を持つ親なら大抵はしておくべき事柄で、例えば園庭解放だとか、予防接種だとか、散歩だとか、待ち合わせて児童館だとか、そういう、些細だけれども日常をやり抜くには欠かせないようなことで、外出することもある。


 私は外出するのが不得意で、出来るだけ壁と窓と屋根のある場所から出たくはない。それは小さい頃から変わらない。とにかく外は危険がいっぱいで、耐え難い。電気は全て消したか、窓や玄関の鍵はきちんと掛けたか、階段を下りてバス停に向かう途中に転げ落ちないか、或いは自転車ごと横転しないか、目玉に羽虫が突入しないか、忘れ物がないか、あれはいるかこれはあるか、と台風の高波のようにそれらに襲われる。そういう、一つ一つは大して厄介ではないけれど、全てまとめると面倒なこと(けれど出来ていて当然なこと)が足裏からおぞおぞとはい上がってくると叫びたくなる。キャリーのように?そう、シャワー室で叫んだキャリエッタ・ホワイトのように。プロムのクライマックスで、豚の血を浴びて再びシャワー室を思い出した、純真すぎるキャリエッタのように。

 だいたい、家の中で出来る一人遊びーー絵を描いたり本を読んだり、チラシの裏にけったいな話を書いたり、冊子を作り作家を気取ったりーーが好きで、一人で飽きもせずそれらを繰り返している子どもだった。毎日のようにそれは繰り返されるのだが、飽きることはない。むしろ毎日のその繰り返しこそが心地よかった。「変わらない」「普遍」と言うことが絶対の安心だったからだ。弟が外へ走り出していくのを横目で見ながら、確かにすこし蔑んでいたのだ。「馬鹿め、外には犬もいるし虫もいる。家の中にいれば何事も過ぎてゆくだけなのに。愚かだなあ」。勿論これほどはっきりとは言葉にしていなかったが、これに似たようなことを、外に遊びに行く弟に思っていた。それくらい、外の世界を憎んでいた。同時に憬れ焦がれていたとは気がつかなかったが。


 毎日通う「べき」学校を卒業してしまったし毎日通う「べき」会社勤めを現在やめてしまっているので、こんな風に自分から「ぜひ行こう」と思わずにちょくちょく外出するのは、本当に久しぶりのことだ。雨でも風でも子どもと外に出掛ける私!まるでフィクションのようだ。たまに頭の片隅で「この物語はフィクションです。実在の人物及び団体とは一切関係ありません」と青地に白い文字の画面が大写しにならないか、期待している。誰かがーー例えば、まだ私が高校生くらいの年齢で、母親が「早く起きなさい」とーー私を揺すり起こしてくれないだろうかと願っている。


 本当に、私はこの子どもを産んだのだろうか?
 この子にはちゃんと私が存在していて、私にはちゃんとこの子が存在しているのだろうか?
 もしかして私は中学生の頃のままベッドに寝ていて、未来の夢を見ているだけではないのか?或いは、これは私の子どもが見ている夢で、私はその夢の登場人物でしかないのではないか?それとももっと別の、或いは遠い未来の、近い過去の、私や私以外の誰かが見ているゆめまぼろしなのではないか?

 夢なのか現実なのか、それともそれら含めて全てがまぼろしなのか、規則正しい寝息と夜に浸食された部屋の中で、私は一人で振り子のように行ったり来たりしている。いたずら好きの黒猫は、この部屋にはいない。いるのは、小さな正しい息づかいで眠っている、夢のような子ども。



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