私は私を信用していない。迂闊には信用出来ない。私が怖いのはいつも私だ。他人ではなくて自分の中にある自分が怖い。考えている事と行動が、時折ちぐはぐになる。街頭の人形芝居で必死に物語を進めようとしているのに、下手くそな人形遣いがどうやっても糸と人形をもみくちゃにしてしまうような芝居だ。可笑しいのに笑っていられずにいたたまれなくなるお芝居を、じっと一人で見せられているような、演じているような、もう見たくもないし演じたくもないのに、やめようとするほど焦りだけが先走って、ことん、と倒れてしまうような、そんな芝居を毎日している。不毛だけれど、それをしなければ筋肉がこわばって固まっていきそうだから、そうするしか、方法を見つけられない。
私の毎日は、サーカスのようなものだ。時折ずれはするが決めた時間に始まり、なるべく決めた時間に終える。少々のアクシデントは愉快さに変えて、自分も子どもも誤摩化しながら終える。拍手喝采もなくヤジも飛ばないけれど、団長でもあり猛獣使いでもありピエロでもある私は、きっちりと毎回始まらせ終えなくてはならない。観客でもある私は、毎回律儀にそれを見なければならない。
毎度毎度、踏み外しそうな白い細いロープを渡っているようで、いっそ渡り終えずに落ちてしまいたいと思う。しかしその綱には足首とを繋ぐ丈夫なリングがあって、落ちようにも落ちられない。案外その綱は短いかもしれないのだけれど、暗闇の中ではどこまで伸びているのかもわからない。それをそろそろとつま先で探り、土踏まず辺りにロープが来るように歩き続けるしか道はないのだ。
ずっとバーを握っていると、どうして握っているのか、握らなくてはならない理由があったのか、手の緊張感と一緒に疑問も高まっていく。綱を渡る為に歩いているのか、ゴールに到達したくて歩いているのか、だんだんそれも暗闇に吸い込まれる。辿り着かないはずはないとわかっていても、足下だけにスポットライトがあたっている綱を渡っていると、もう落ちてもいいんじゃないかと思う。けれど別の私である団長はそれを許さない。自分で見ていてヒヤヒヤする。ヒヤヒヤしているのに手出しが出来ない。もう見るのもやめたいのに、やめられない。
毎日が綱渡り。だから日に一度か二度は、こんな生きにくい世の中なんか爆発してしまえと思う。けれども子どもが純粋にただ生きている事を思うと、くそったれ!と思いながらも爆発はして欲しくなくて、結局のところまたそのサーカスの準備も撤収もいそいそしてしまうのだ。ここから旅立てる方舟の夢を見ながら。明日も明後日も明々後日も、世界は続く、はず。私の方舟はまだ完成していない。
2010年8月15日日曜日
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