2022年4月6日水曜日

サンキャッチャー・イン・ザ・ライ(嘘)

 わたしは少年だったことがなかったのもあるし頭がとても悪いので、『ライ麦畑でつかまえて』がよくわからなかった、『ライ麦』を心底愛していたとある人のようには。彼はセントラル・パークの小さな方の池で、ホールデンがアヒルを見たように、僕もアヒルを見ていたんだ、とわたしに言った。


「ホールデンが思い出していたセントラル・パークのアヒルの池は、小さい方なんだ」と、初めて『ライ麦畑でつかまえて』の読者に会ったみたいに嬉しそうに。その後わたしたちは何を話したのだったかはもう覚えていない。多分ジンでも飲みながら(当時はまだ飲酒していたから、ワイン以外はよく飲んでいた)話していたのだと思う。


 その人は後に元夫となった人で……彼はとてもロマンチストで、わたしのことを見ていなかった。彼の想像の中のわたしは現実のわたしよりずっと素敵だっただろうと思う。そうなれるようにわたしは必死で背伸びをして、彼の話題についていくために、本や音楽CDを買った。元々の文化的な土台がわたしにはなかったし、自分だけの狭くて小さな頭の中の王国で満足していたから成長もしなかった。だから幼い感性をアルコールとニコチンで奮い立たせ、起きていられる間はずっとそれらに挑んでいた。


 どこかで絶対にボロが出ると思っていたし、馬鹿がばれるのが怖かった。いつか失望するだろう、それは今日か明日かわからない。仕掛けてしまったタイマーがジリジリ進むのが怖かった。自身の頭の悪さを呪ったけれど、呪詛を吐いているより頭に詰め込む方を、彼にいっそう愛されるわたしになれる(かもしれない)方を、わたしは選んだ。ただそれよりも先に彼が自爆するようにわたしを殴り倒したので──きっと彼は、彼自身に幻滅したのだと思う。幻を愛していたのだ、彼の中にいるわたしではないわたしを愛していたこと、彼が望んだ女は存在しなかったこと、それらが耐えられなかったのではないか──、わたしたちは無縁になった。


 わたしは多分一生セントラル・パークのアヒルを見ることはない。「いつかそこに行ったら、ホールデンのようにアヒルを見ましょう」と約束はしたけれど、きっと彼はその約束をしたわたしが、彼の過去にいたと思い出すことはないだろう。わたしの人生は多分、果たされなかった約束や叶えられなかった祈りでますます彩られるのだろうし、わたしの人生にはもう彼は登場しない。ずいぶんとのびのびしている。そしてこれがわたしの本当の人生なのだとも思う。

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