わたしの中にある乙女ごころの権化のような、「乙女ごころの君」がいた頃があった。こことは別に閉じてあるウェブ日記に「彼女」は毎日ではないにしろ、何かにつけエディタを開いて文字を打った。本を読んだ日、読まなかった日、映画を見た日、泣かなかった日、電話をした日、夜中じゅう壁を睨んでいた日、どの日もいつも別の日だったからだ。日記という一枚の敷布に、一針ずつ縫い進めるように文字に落とし込んだ。ほとんど全て自分の為。「乙女ごころの君」はそういう傍若無人さを持っていた。多少の装飾はしていたものの、それは「彼女」のその時の本心として定着したと思うし、そうするつもりで日記を書いていたようだ。それだけで幸せだったのだと今は思う。
その頃の日記の中の「彼女」は、ささやかでもよかった、心根が美しくさえあればといつも願っていた(これは今もあまり変わらない)。時に悲しみに暮れ、時には喜びを讃え、明日が続く前提で今日の日記を書く。今日見つけたよきもの、今日感じたさいわい、今日あった鈍いかなしみ。したたかでしなやかでかろやかでありたかった、それが理想の「乙女ごころの君」なのだから。日記はいつだって、「今こそ書くとき!」と、微熱のようなやわらかい(けれど確かにそこにある)熱意を持って書かれたものだった。
わたしの中の「乙女ごころの君」はわたしと別れ、深く遠いどこかへ、旅に出ている。またいつか会えるね?
Maidens−薄荷塔日記
0 件のコメント:
コメントを投稿